抜粋・絶望のつづき。
映像型あるある。絶望は続くよ、どこまでも。
まだまだ引きずりますが、「絶望」を味わうきっかけとなった「羅列記事」。
あれが何故、説明が全く無く、骨のように残った文字で、情景の立ち上がりがよかったのか。
構造が言語化できそうなので書いてみます。
単に、「抜粋ポイント」の「センス」ですね。
頭の中に映像がある人は、どのポイントを抜粋して言語化して使うのかを自分で選び抜きます。
降ってくるわけではないです。浮かんだ感覚がそう感じさせることはあるかもしれませんが。
この、ポイントの抜粋と短い文の羅列が、物語の流れを分断させないギリギリを狙ったのだと思います。
抜粋したものを圧縮というよりも、削ったのだと思います。攻めたんですね。
そして、一番分かりやすく作用した情景の立ち上がりは、行動をそのまま言語に表したからだと思います。
「叩いた」→「叩いた」(現象の言い切り)
のように、情報の少なさを、直接的な言葉で補ったため、意味が狭まった事で、読者は自分で補完、投影がしやすく置いていかれなかったのだと思います。
わたしがなぜ、「メモ」に見えてしまったのか。
私は直接的な言葉を出来るだけ避けるタイプだからです。何故かと言うと、直接的な言葉は密度が濃すぎるからです。意味が、固定されやすい。
「直接的な文字で補った」とは、上記のように言葉の意味の狭さを、情景にうまく作用させたということです。
つまり、文字でお腹いっぱいになってしまったんですね。その奥の情景やストーリーへの興味が届く前に絶たれました。
構造が見えたから、もう大丈夫。
と言ったように、(現象の言い切り羅列=説明の連続)になってしまったんですね。
しかし、「中毒」を起こすタイプの作家ではあると思います。
それは何故か、
先にも述べたように、「抜粋」のセンスですね。
読者が余白を、
『補完せずにいられない。』
これが、中毒の症状・正体です。
読者の経験で立ち上がり、補完できてしまう。「読む」ではなく、「映像を追う」に近い感覚だと思います。
おそらく、読者は自分が補完させられているのではなく、「見せられている」と勘違いするのだと思います。
そして、その読者の反応を見て、自分の感覚と現実との落差に、ひどく落ち込んだのだと思います。
そんなところだと思います。
*私の余白がなぜ追えないか。
補完させないから。
(🧩が必要。)
おわりだよ。間違えてたら、めんご。
記事貼りは避けておきます。ありがとうございました。
