『着信アリ』を大人になって観る——あの着信音が怖かった時代
※この記事は映画の内容に触れています。
小学生のころ、映画館の暗闇で観た『着信アリ』。
自分の携帯電話が鳴る。
それだけのことが、どうしてあんなに怖かったのだろう。
あの独特の着信音はトラウマ級で、しばらくは自分の携帯電話が鳴るたびに、着信画面を見るのが怖かった記憶がある。
今思えば、あの恐怖は「電話から幽霊がやってくる」という設定だけから生まれていたわけではなかったのだと思う。
当時の私たちにとって、携帯電話は今よりずっと個人的なものだった。
誰から電話がかかってきたのか。
いつ電話が鳴るのか。
画面に表示された名前を見るまで、それが誰なのかわからない。
そして、一度電話に出てしまえば、こちらと向こう側が繋がってしまう。
『着信アリ』が怖かったのは、その「繋がる」という仕組みそのものに、まだ少しだけ未知の部分が残っていたからなのかもしれない。
大人になった今の視点で観直してみると、恐怖よりも別の部分が目につく。
ガラケー時代の通信技術の描き方。
携帯電話が生活の中へ急速に入り込んでいった2000年代初頭の空気。
そして、便利になっていく一方で、どこか「繋がりすぎること」への漠然とした不安。
今ではスマートフォンによって、電話だけでなく、写真も、位置情報も、SNSも、銀行も、買い物も、ほとんどすべてが一つの端末に集約されている。
それに比べると、当時の携帯電話はずっと単純だった。
だからこそ、怖かったのかもしれない。
電話が鳴る。
画面を見る。
誰かから着信がある。
その程度の出来事に、映画一本分の恐怖を乗せることができた。
今の感覚からすると、少し不思議でもある。
けれど、だからこそ『着信アリ』は、その時代にしか撮れなかった映画なのだと思う。
当時はただただ怖かった映画が、今では2000年代初頭のメディア社会を切り取った資料のようにも見えてくる。
映画の中で恐怖を引き起こすのは、幽霊そのものだけではない。
「知らないうちに誰かと繋がってしまうこと」
「自分の意思では切れないこと」
「日常の道具が、突然こちら側へ侵入してくること」。
そう考えると、『着信アリ』の恐怖は、携帯電話という新しいメディアがもたらした可能性と不安を、そのまま怪異に置き換えたものだったのかもしれない。
そして、そんなことを考えながら映画を観ている自分に、少しだけ時間の経過を感じる。
小学生だった私は、着信音が鳴るだけで怖かった。
今の私は、その着信音を聞いて「懐かしい」と思う。
怖かったものが、いつの間にか記憶の中の風景になっている。
映画を観直すというのは、作品そのものだけではなく、「その映画を怖がっていた自分」まで見直すことなのかもしれない。
裏口から映画を覗き込むとは、こういうことなのだと思う。
かつて「恐怖」として正面から受け止めた作品を、時代の変化や、自分自身の成熟という勝手口から見直してみる。
すると、同じ映画なのに、まったく違うものが見えてくる。
あの頃は、着信音が怖かった。
今では、その着信音の向こうに、携帯電話がまだ「未知のもの」だった時代と、そこに生きていた自分が見える。
そう考えると、映画は単なる物語を保存するものではないのかもしれない。
その時代の空気や、当時の人々が抱えていた不安や期待まで、一緒に閉じ込めておくことができる。
着信音のメロディは、すっかり懐かしい思い出に変わった。
けれど『着信アリ』を観直したことで、私はあらためて、映画というメディアの面白さを発見した。
怖かった映画の中に、怖がっていた自分と、その時代そのものが残っている。
映画は、時間が経ってからもう一度観ることで、別の顔を見せてくれる。
