『回路』——「引き算」がもたらす不自然な恐怖と、絶望のインフラ
※この記事は映画の内容に触れています。
ホラー映画における「怪異の伝染」には、いくつかの美しいシステムが存在する。 かつて『リング』が呪いのビデオという「個」の媒介によってウイルスのように伝播したのだとしたら、黒沢清監督の『回路』は、インターネットという網(インフラ)そのものを媒介にした、より大規模で不可避な汚染システムを描いている。
久しぶりにこの映画の構造を思い返し、改めて気づくのは、その圧倒的な「引き算の怖さ」だ。
たとえば、ギレルモ・デル・トロ監督が圧倒的なディテールや色彩を盛り込む「足し算の美学」だとすれば、黒沢清監督の恐怖は、徹底的に要素を削ぎ落とした「引き算の美学」である。
あの有名な、開かずの間の奥から幽霊が迫ってくるシーン。 そこにあるのは、過剰な特殊メイクでも派手な演出でもない。ただ、幽霊の動きが決定的に「不自然」なのだ。 まるで地に足がついていないような、この世の物理法則を無視した異様なステップ。「ない」からこそ、私たちはそこに異界の存在を幻視し、強烈な不気味さを覚えてしまう。映画の骨組み自体が、観客の脳内の「違和感」を刺激するように設計されているのだ。
さらに、この映画が描く「孤独の伝染」は、公開から長い年月が経った現代において、よりリアルな質量を持って迫ってくる。
ネットの回線を通じて、人々が静かに繋がったまま、同時にどんどん孤独になって消えていくシステム。それは確かに、現代のSNS社会で加速している現実そのものだ。 けれど、私はこれを必ずしも悪いことだけだとは思わない。
『回路』が提示する世界は、パニック映画のような騒がしい崩壊ではない。システムが淡々と書き換えられるように、静かに街が過索化していく。 その合理的な世界の畳み方に、私は恐怖を通り越して、どこか冷たい安らぎのような美しさを感じてしまうのだ。
