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心の居場所

私が心の居場所について記そうというきっかけになったのは、おさんぽさんの記事でした。またこのことについて、おさんぽさんの言う「命の居場所」という価値観についても思うことがあり、少しこのテーマについて書かせて頂きたく考えました。

“私達が、居場所と、殊更強調するとき、それは命の居場所の事をいう、 のではないかと思います。”

おさんぽ「水仙の咲くころ

人間の根源的な欲求:居場所と帰る場所

居場所がある、帰るところがある。それこそ人間が本源的に求めているものだと感じています。例えば、私が勤めている介護現場においても同じことがいえるのです。認知症になっても「帰りたい」「帰らなければならない」といった気持ちは、誰もが持っているように思えます。

実際にそれを言動に出さなくとも、心のどこかで誰もが、常に居場所の存在を求めているものと思えるのです。施設での暮らしに、観念するか納得するかを選んだ方々。彼らにとって、少なくとも終の棲家として安心した心のよりどころであれるように、介護者である私が常に考えて行動しなければならないのだと感じています。

子供の教育と居場所の重要性

そして同時に、それが子供にとってはさらに大きな意味を持つのだと思えます。幼児教育や義務教育期間中、子供は義務的に学校に行かされることになります。

憲法上、「大人にとって、子供に教育を受けさせなければならない義務」であれど、「子供にとっては教育を受ける権利」であるにも関わらず、学校に行かなければならないことで思い悩む子供たち。学校で様々な理由から疎外感を感じるに至る子供たちも少なからずいます。特に多感な時期であるだけに、人生の破滅や崩壊だと感じる子供もいると思われます。

家庭と地域の役割

子供にとっての世界は、大人よりも相対的に狭く、家庭から通学路や学校、学校区などに限定されています。きっと大人の目の届く範囲が世界であり、特にその中で学校が占める割合が大きい。学校で存在を否定されると、子供にとっては人生が頓挫したような暗澹たる気持ちになるのは当然です。そんな時、家庭が中心となって地域がどのように関わるのかも大切になってきます。

教育の多様性と可能性

子供にとって身近な大人は、もっともっと広い世界があることを伝えていく責務があります。学校でうまくいかなかったとしても、勉強について行けなかったとしても、よりよい未来が待っていることを示し、別の道があることを伝えなければならないのだと思っています。大人にとって教育を受けさせる義務を果たし、更に子供にとっての教育を受ける権利を獲得するには、学校教育だけで満足に実現しなくても良いのです。

多様な学びの場

今の世の中、素晴らしい書籍に溢れ、ネット学習など自己学習の方法はいくらでも存在しています。学校に行けないからと言って、社交性が身につかない訳でもありません。むしろ人一倍に傷ついているという経験こそ、他者を思いやる心を育んでいると確信します。

大人は逆に、そんな彼らに対して居場所を作ってあげなければならないのだと思っています。帰る場所があるというだけで、人間はきっと冒険することが出来るようになります。

食卓が創る心の居場所

ただ現在、共働きや核家族化が進んだことで、両親が仕事に行っている間の心配があることも確かです。そこで、料理研究家である土井善晴氏の一汁一菜の精神は居場所の実感という意味においては大切な価値観を提供しているように感じます。

一汁一菜は、手作りのお味噌汁とごはんとお新香があるだけで、お盆の中に居場所が出来るというライフスタイルでもあります。たとえ共働きで家族が家に居なくとも、子供が家で一人で食べるにしても、家族のぬくもりを感じられるお盆の上の食事があれば、そこに居場所が作られるという訳です。家族の温もりを感じる、暖かな味噌汁とごはん、そして漬物。更に手書きの置手紙がある家庭。最高です。

選択と後戻りの自由

私の経験上、世間には結構遠回りが許されないような感覚があるように思えます。しかし私にとっては、たとえそれが他者から見て遠回りに思えたことだとしても、自らが納得しさえすれば、どのような選択であっても誤りでは無いのだと確信しています。

私は昔、一人旅をし、言葉も分からないという状況で、なおかつ広大な駅の発着する多数の列車から目当ての列車を探す。もしくは見ず知らずの土地で宿を探して歩き回る日々。そんなときに確信したものは、「進む道を間違ってはならない。」という事では決してありませんでした。

重要なのは「間違えたっていい。間違えたとしても、後戻りすればいいんだから。」という単純な思考でした。

焦りと選択の危険性

列車が発車する時間は刻々と迫っているという状況。慌ててしまって冷静さを失い、書いてある行き先が経由地なのか到着地なのかもわからない。正しい列車に乗らなければならないというその思いだけが先走って空回りする。

心の余裕と前進

そんな風な考えをいつしか捨て去りました。間違いだと思ったら「後戻りすればいいんだよ。」という事に気づいてからは、無用な焦りは一切無くなりました。そうすると必然的に安心して自分の道を決定することが出来ました。差し迫る時間とは関係なく、心には十分なほどの余裕ができたのです。だからこそ、自信を持って、列車に飛び乗る事ができるのです。

人生における無数の選択肢から進むべき道を決めあぐねる人々。その地点で立ち止まり、進むべき道を間違ってはならないと思い悩んでいる場合、「後戻りしてもいいのだ」という事を伝えたいところです。また後戻りすることになったとしても、それは決して後退する事ではないのです。

予期せずとも新しい世界を知る事ができ、視野が広がったのです。

航海者としての自分の地図に色が足され、水平線が広がったのです。

心の中の居場所

それは単純な後退を意味したりせず、むしろ人間としての前進なのです。居場所を実感する事が出来れば、そして帰るところが確かであれば、未知の世界へと飛び込んでいけるものだと考えます。そして、そんな心のよりどころや居場所は、実は心の中にこそ存在しているのかもしれません。

大切な人々の存在

フランクル著「霧と夜」の中でいわれるように、過酷でいつ命を失うかもしれない毎日。彼を支えたのは、心の中の妻の存在だと言います。それは、彼女が死んでいようと死んでいなかろうという事実は関係ないものだったといいます。認知症でたとえ記憶が定かでないにせよ、大切な人は常に心の中に居て、居場所を作ってくれるのです。

家族と自己肯定感

私にとっての家族の存在も同様のもの。常に無意識下であっても、自己を肯定してくれる存在。まさに居場所は、そんなところに表われるように感じています。また同時に、自分がきっと必要とされているであろうという気持ちや、どうにかせねばならないという責任感など。きっとこれらは心の居場所に直結する気持ちなのかもしれません。

結局のところ、居場所や帰る場所は物理的な空間だけでなく、心の中に常に存在しているものだと私は感じます。どんなに遠回りしても、どんなに道に迷っても、心に確かな居場所があれば、私たちは安心して冒険を続けることができるのです。そして、その居場所こそが、人としての前進を支える最大の原動力であるのだと考えます。

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