戦争における「人殺し」の心理学から考える政治
戦場であれ、死刑執行の場であれ、または極限状態にある災害現場であれ、人間が他者を殺す、見捨てるという行為は決して容易いことではありません。それがたとえ己の生死を分ける瞬間であっても、大半の人間は「引き金を引く」という一線を超える事が出来ないし、超えずに済むならば、何とかその状況を回避しようとするのだといいます。
デーヴ・グロスマンは、アメリカ陸軍中佐であり心理学者でもあります。彼は著書『戦争における「人殺し」の心理学』の中で、第二次世界大戦において実際に発砲し敵兵を狙い撃った兵士の割合が15~20%ほどしかなかったことを指摘し、他国軍や南北戦争の事例も引用。多くの兵士が故意に弾を外したり、そもそも銃を撃たなかったりしていた事実をまとめています。
この本は約15年ほど前に読んで人生観を変える程、感銘を受けた本でもあります。
発砲率を劇的に向上させる軍事訓練
この事実には一種の安堵すら感じるところ。たとえ戦争であろうとも「人間は簡単には殺し合えない」という厳然とした事実があるのです。しかし、現代にあってもまだ、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、シリアなどでの紛争は続いています。台湾海峡の問題、北方領土の問題。地政学上、いつなんどき有事が発生し、政府から徴兵を命じられるかも分からないのです。
戦争はその現場において命を奪う必要が生じる場面も多くあります。敵がじりじりと間合いを詰め、銃口を自分に向けてきたとき、それでもなお引き金を引けない兵士が多いという事実は、軍事的には大きな問題でもあります。
実際、アメリカ軍は第二次世界大戦の反省から発砲率の低さに着目し、朝鮮戦争やベトナム戦争に向けて訓練方式を変え、結果として発砲率を劇的に向上させることに成功したのです。具体的には、射撃訓練の標的を人間の形状に近づけたり、オペラント条件付けの原理を導入して、「敵を撃てば褒められる」「命中率が上がれば報酬が得られる」といった学習環境を整えました。
例えば集団責任を導入したりブートキャンプで徹底的に上官の命令に従うという教えを叩きこまれるといった具合です。その結果、朝鮮戦争で55%、ベトナム戦争では90%以上もの兵士が実際に敵を狙い撃つようになったと報告されています。大多数の兵士が、本能的に抱いていた「殺すことへの抵抗」を、こうした心理学的技法と軍組織の権威、そして集団の圧力によって克服するように“仕立てられた”わけです。それでも完全に殺人へのタガを外すこと、それを克服することは容易ではありませんでした。
生まれてこのかた、生物学的に人は人を殺すことが出来ない事実が横たわります。そして教育によってその価値観を肯定するように道徳観念も培われました。しかし、軍隊は人を殺めることが出来るように高度にシステム化された場所であり、そうでなければ存在意義を問われるところです。
“殺す側”の兵士が負う深刻なトラウマ
そして訓練の結果、発砲する事が出来るようになったにも関わらず、兵士たちは大きな後遺症を残してしまいます。実際に相手を撃ち殺した兵士たちは、戦闘が終わったあと、以前よりも深刻なPTSDやトラウマを抱えてしまうのです。グロスマンによれば、自分が殺されかけた体験よりも、自分が誰かを殺した体験のほうが、兵士により強い心的外傷をもたらすケースが多いのだと言います。
人間は他者を殺害すること自体に強烈な抵抗を持っているからこそ、その行為のあとに自己否定や罪悪感にさいなまれ、ストレス反応によって自殺にまで至るケースがあります。私たちは日常生活の中で、あえて「人を殺す状況」を想像することすら避けています。しかし、このような心理的な痛烈な痛みは、社会に常に存在しているのです。
攻撃的精神病質者と「距離」の問題
また、グロスマンは「攻撃的精神病質者」と呼ばれる、全兵士のうち2%ほどの人々が、殺傷行為においてあまり抵抗を示さない存在だとも述べています。実際、第二次世界大戦の空戦で、撃墜数の40%を1%の戦闘機乗りが占めていたとする研究もあるという。このような特異な存在は、スナイパーや特殊部隊など、いわゆる“スペシャリスト”として活躍してきた歴史も存在しています。
私たちはこうした「ごく一部の人々が主戦力となってきた」という事実も含め、戦争や軍事の実態を直視しなければならないと思っているところです。殆どの人間は、殺す側になるよりもまず、殺される側になるということです。どんなに強靭な心や特殊な資質を持っていたとしても、人間が人間を殺すという行為には常に重大な代償が伴い、たとえその瞬間は乗り越えられたとしても、長期的な精神的影響は測りきれないという事実は変えられません。
さらに注目すべきは、物理的あるいは心理的な「距離」によって人を殺す抵抗が弱まり、罪悪感も軽減されるという点。手榴弾を投げ込む行為よりも、高高度から爆撃する行為のほうが相手の姿や苦しむ様子を直視しなくて済み、精神的に負担が少ない。これを突き詰めるならば、遠隔操作できるドローンやミサイルシステム、人工知能による兵器などが発達する現代では、兵士個人の心理的苦痛はさらに減少するはずなのです。
第二次世界大戦においては、実際に狙いを定めて撃った兵士よりも、爆撃機から絨毯爆撃をした兵士の方が心理的負担は少ないという訳です。その影響で軍や国家は殺傷行為に対してますます踏み込みやすくなり、戦争の敷居を下げてしまうかもしれないという問題点もあります。まさに、「距離」の問題は、現代社会の戦争と平和を考えるうえで重要な視点と成り得ます。
戦闘後に兵士が抱える心のケア
一方、戦闘が終わってからの兵士のメンタルケアはどうなるのか。グロスマンの調査では、戦場から戻ってきた兵士たちは、自らが行った殺害行為を社会的に正当化する根拠を得られないと深刻なトラウマを往々にして抱えています。
この場合、栄典を授与されたり、周囲から温かく迎えられたりすることで、彼らは「自分は国家や社会に貢献したのだ」と、かろうじて自尊感情を保てるようになるわけです。ただし、この“正当化”がいびつな形で機能すると、かえって「敵兵は人間ではない」「あれは正義の行為だった」という過度な思考に陥る危険性もあるのではないかと私は感じています。
一方的な正当化によって精神の均衡を保つのではなく、「国が命じたから」「仲間を守るためだった」といった状況的事実と、「それでも私は人を殺した」というどうしようもない現実が常に横たわります。この場合は、望まず戦争にはせ参じた兵士に対しては、社会が受け皿としてケアの仕組みを整える必要があるように思えます。
死刑制度と「人を殺す」構造の共通点
同時に、これは死刑制度にも通じる問題だと考えます。死刑を執行する刑務官は、まさしく国家の名のもとに人を殺す任務を担っているのです。たとえそれが法に定められた正当行為であっても、刑務官にのしかかる負担は想像を絶するものがあります。それを緩和するには、刑を執行した人間に対して「仕方のないことだった」とする社会的コンセンサスやサポートが必要なのです。
しかし、そのこと自体が「では、いつどのように他者の命を奪ってよいのか」を曖昧にしか答えられない私たちの倫理観を照らし出してもいるようにも思えてきます。グロスマンの指摘する「人間は人を殺せない生き物だ」という前提があるからこそ、国や組織から命じられる苦悩は想像に絶するところです。そしてそれは、死刑執行のような制度上の行為であれ、災害現場で誰かを助ける過程でやむなく犠牲を生む可能性がある行為であれ、本質的には同じ問題構造をはらんでいるのだと思っています。
自衛隊と社会的ケアの課題
最近の日本では、憲法の改正論議や自衛隊の海外派遣、そして国民皆兵や徴兵制度などがしばしばニュースに上っています。そこでは「自衛隊の位置づけ」や「集団的自衛権の範囲」といった政策論に多くの注意が向けられています。一方、実際に自衛隊員が戦場へ赴き、敵を殺す・あるいは殺される可能性については、まだ十分に議論が尽くされていないと感じています。
もし自衛隊員が現地で発砲し、相手の命を奪ってしまったとき、その帰還後に待ち受ける精神的苦痛や社会復帰の課題はどうなるのか。社会全体で「歓迎する」体制があるのか、それは戦争を容認することにならないのか。こうした問いが安易にすり抜けられてしまえば、当事者に余計な苦しみを背負わせる結果につながりかねないということです。
もっと言えば、被災地で生き別れてしまった人々、災害救援活動などで被災者を助けた自衛隊員や警察・消防の人々に対して、私たちが支援し感謝や労いの言葉をかけることは、単なる礼儀や儀式の問題ではなく、彼らが極限状況下で背負った心理的負担を少しでも和らげるための大切な行為でもあるのだと考えます。このような当事者の観点から死刑制度を考えるという世論の動きもあまりありません。
戦争と社会制度を考える
グロスマンの著書を通じて改めて感じるのは、戦争や暴力の問題は決して単純な善悪二元論で語れるものではなく、「人間は本来、そう易々と他者を殺せない」という出発点から、それをどのように克服させ、どのようにケアするのかという、極めて複雑なプロセスを含んでいるということです。
殺害の瞬間だけを切り取って善悪を判定するのではなく、その背後にある人間の心理的抵抗や、訓練システム、そして行為後のトラウマや社会復帰までを一体的に捉えなければ、真の理解には結びつかないのです。これらは政治や社会制度全般を考える上で大切な論点であると思っています。
そして、日本社会が将来どのような形で自衛隊を運用し、あるいは死刑制度を維持するにせよ、関係する人々の心理的痛みにどう手を差し伸べるか。また国民皆兵制度が、どのような社会的弊害があるのかといった論点は少ないように思えます。こうしたテーマこそ本質的なイシューとなるのではないでしょうか。
グロスマンの指摘は、私たちが戦争をどこまで理解できるかという問いを突きつけるものであり、その問いに真正面から向き合わない限り、私たちは「人を殺さないための方法」を見出すこともできないのではないだろうかとさえ思えてきます。
