南京事件は「数」より「質」の問題 終戦直後の徳富蘇峰の日記から
中国で南京事件の映画(「南京写真館」)が大ヒットしているとかで、この問題が日中両国で再燃しているようです。
私はこの問題の専門家でもなんでもないんで、特に口を挟みたいわけではないのですが。
ただ、ネットで若い人が時々言ってるように、南京事件は最近になって中国が捏造したようなものではない。それは、終戦直後からーーというより戦中から、日本でも問題になっていました。
また、この問題はしばしば「人数」の問題になって、30万人だとか、いや数万人だとかの論争になります。
それが重要ではないと言いたいわけではないですが、この事件については、人数よりも「質」の問題、つまり、日本兵らしからぬ悪質さ、残虐さが日本人自身に衝撃を与えたことを、忘れてはならないと思います。
その証拠として、私が昔ちょっとだけ研究していた徳富蘇峰の「終戦後日記」の記述を、ここで引用しておこうと思います。
徳富蘇峰は、国民新聞社長として、戦前は新聞記者の代表とされた人物でした。
毎日新聞の主催で、外報記者に与えられる最高賞「蘇峰賞」があったくらい。終戦時は毎日新聞の社賓(重役待遇の特別論説委員)でした。
戦中は、大日本言論報国会会長でもあり、戦後は公職追放となります。
以下の「終戦後日記」は、戦後の謹慎中に書かれたもので、出版されたのは蘇峰の死(1957年)後、ほぼ半世紀たった2006年になってでした。

南京事件については、たとえば昭和21年2月の日記に、記述があります。
日本軍は、日清日露の頃は軍紀が守られていたが、昭和になって「まるで虎に翼を付けて、野に放ったが如き振る舞い」をするようになった、と蘇峰は嘆き、その後に南京事件に触れます。
過日ーー昭和二十年十一月十九日及び二十日ーー本多熊太郎翁と会見したる際、翁が南京に特派大使となって赴きたるに、外出すれば、あらゆる女性は、老婆から少女に到るまで、影を見て逃げ隠るるを恠(あや)しみ、その故を問うたるに、日高参事官ーー後に伊太利大使ーー答えて曰く、これは南京攻略の影響が、今なお全く消え失せない為めである。その時の日本軍の乱暴は、想像もつかぬ事で云々と、語ったという事を、予に語った事がある。予も薄々、南京では日本軍が、かなり暴ばれたという事を聞いていたが、まさかこれ程迄とは、思わなかった。今更これを思い出すだに、我々は世界に対して、面目次第がないと思う。かかる将兵で、大東亜聖戦などという事は、余りにも口広き話ではないか。
(昭和二十一年二月三日午後、晩晴草堂にて)
ここで出てくる本多熊太郎は外交官で、東條内閣の外交顧問も務めました。蘇峰のこの記述から、当時南京事件が、日本政府にとっても衝撃的だったことがわかります。
1937年の南京事件で、日本軍の乱暴が「想像もつかぬ」ほどのものだったため、それから3年たち、1940年に本多熊太郎が大使として南京に赴いた時も、南京の女性は、日本人を見たら身を隠した、という話です。
昭和21年7月の日記では、南京事件を引き合いに出し、「われわれは愛国心が強すぎて、自軍の過ちを見過ごしていた」という趣旨の反省が語られます。
我等の過ちは、日本人を余りに愛したるが為めである。いわば、予(かね)てかくあるべきものと考えた事が、やがてはかくあるものと、なって仕舞ったのである。川柳に「盗人を捕えて見れば我が子なり」とある。今日一例を挙ぐれば、南京に於ける我兵の暴行の如きが、全くそれである。我等は、予て日本の軍隊は、秋毫も犯さざる神兵であると、考えていた。
(昭和二十一年七月七日午前、晩晴草堂にて)
昭和22年1月には、日本は戦争によって「悪評」を得ただけだ、という文脈で、南京事件に言及されています。
南京の攻略の如きは、得たる物は何物か。市ヶ谷裁判所を賑わしつつある重もなる題目の一となって、南京に於ける日本人の、非人道的行動は、世界の戦争史中に、未曽有の色彩を以て、絵取られつつあるだけに過ぎない。
(昭和二十二年一月十八日午前、晩晴草堂にて)
また、昭和20年12月15日の日記では、マニラでの虐殺を記す中で、「南京の強奪」が引き合いに出されます。
(1945年)二月十七日、米軍は兵力を集中しマニラ市街に突入し、マニラにおける戦闘は最後の段階に入った。押収した日本側の文書によって、山下(奉文)の部下は市街において大会戦を予て計画し、美しいフィリピンの首都を完全に破壊しようとしていたことがはっきりしている。日本のテロリズムはパシグ河の南岸殊にパコ、エルミタ、シンガロン区では殆ど先例ない程のひどさであった。ここでは全滅の運命にあった日本兵の狂気の如き群は米国人であろうと比島人であろうと男、女、子供の区別なく、やたらに斬りまくり殺害するという残虐を敢てした。(中略)
暫くの間日本軍は「南京の強奪」にも劣らぬ血の遊びに耽った。信ずべき口供書や写真などは男女を問わず又年齢の如何を問わず一般民衆が双手を背に縛られ、重なり合って銃剣で刺殺されたことを示している。
(昭和二十年十二月十五日午前、晩晴草堂にて)
このマニラでの虐殺については、宮崎駿監督が最近言及したことで、私も記事にしたことがあります。
日本は、南京でも、マニラでも、ひどいことをしているのですが、現在、フィリピンは、日本の友好国の一つになっています。
フィリピン人も、マニラでの虐殺を忘れてはいないでしょうが、表立って非難はされないようです。
一方、中国の態度は、ご承知のとおりです。
なぜそういう差が生まれるのでしょうか。
(フィリピンでは、いちおう山下奉文陸軍大将が責任をとって処刑された、ということがありますが・・)
南京でもマニラでも、日本軍の残虐行為があったのは事実です。
それ自体を否定することはできません。
われわれの世代、といえば、石破茂首相と同じ、60代以上ですが、戦後生まれとはいえ、なんとなく、戦争をしてきた人の話を聞いています。
そして、あんまりはっきりとは言えないけど、ひどいこともしてきた、というのを、なんとなくは聞いてるんですね。
そのあたりは、今の若い人たちと、ちょっとちがうかもしれない。
私がエラソーに言うことはないのですが、その中でも南京やマニラでのような虐殺は、蘇峰のような当時の「保守派」から見ても、度し難いものでした。
だから、いま、日本の保守や右翼が、これらの件で開き直るのは、ちょっと違うと思うんですね。
むしろ、南京やマニラでの日本軍は、日本兵らしからぬ振る舞いだった、日本軍の名誉を傷つけた、と、基本的には一緒に怒るべきなのでは。
(そのへん、一貫性を持たないと、日本はたとえば大空襲や原爆についてアメリカを責めることもできない。)
ただ、出版人としては思い出深い、かつての「レイプ・オブ・南京」騒動のように(それについては「LGBT本『刊行中止』と翻訳本『受難』の歴史」という記事に書きました)、南京事件がいつまでも政治問題としてくすぶるのは、やはり異常です。
中国が、永遠に日本への憎悪をあおり立てるような政策をとっているとすれば、それはまた別の政治的・外交的問題だと思います。
最後に、以前も引用しましたが、私がちょっと研究しているもう一人、火野葦平の言葉を引用しておきます。
徳富蘇峰や火野葦平は、戦後「右翼」「A級戦犯」と共産党から指弾された「戦争協力者」たちでした。
どちらも愛国者であり、自国をことさら悪く言う動機はありません。
しかし、彼らは民間人であり、蘇峰はジャーナリストとして、火野葦平は作家として、自己の良心に従って「真実」を残そうとしていました。
(同時に、二人とも、政権中枢や軍中枢と親しく、民間人としては当時最高の「事情通」でした。名文家として知られた蘇峰は天皇の詔勅に手を加えていたのを認めているし、火野葦平は陸軍とのコネで朝日・毎日記者が行けない戦場の前線で取材できた。)
その意味で、彼らの言葉は、今でも信頼に足ると私は思っています。
残念ながら、日華事変以来、太平洋戦争の戦勝時代、敵地を奪取した日本の占領部隊は、勢あまって現住民を苦しめたことがなかったとはいえない。殺人、暴行、掠奪、放火、強盗、強姦ーー人間の正常心を失った戦場の鬼となって、それらの行為をした。むろん、軍としては兵隊をいましめ、現地人への不法行為をしないように注意はしたが、殺気だった兵隊の心を静めることが出来なかった。(中略)中国から南方にかけての八年間、どこの戦線でも、日本軍が抗日文化人を逮捕し処刑するのを見て来た。
(火野葦平「革命前後」上巻、p224)
<参考>
