「アラベスク」学事始め ユーロビートの紹介者? ゲーム、アニメ音楽の起源?
ABBA、ノーランズと日本市場で競ったドイツ娘
ノーランズの次は、アラベスクの研究です。
ノーランズとアラベスク、似ているようで、かなーりちがうのが面白い。
アラベスクは、1970年代後半から80年代前半、日本の洋楽チャートの人気を、ABBAやノーランズと競った西ドイツの3人組。
とくにノーランズとは、同じヨーロッパ出身で、同じ女性グループで、同じディスコミュージックで、日本で人気があった点が似ています。
ただし、ノーランズは、本国イギリス以外は、ほぼ日本でだけ人気があったのに対し、アラベスクは、日本以外に、韓国、中国はじめアジア諸国、ソ連など東側諸国、南米でも人気があった。でも、本国ドイツではあまり人気がなかった。
この時期、「怪僧ラスプーチン」のボニーM、「ジンギスカン」「めざせモスクワ」のジンギスカンなど、西ドイツ出身のミュージシャンが多い。これは、ボニーMの世界的成功に刺激されて、ジンギスカン、アラベスクが結成されたからです。
「めざせモスクワ」ーー1980年は、モスクワオリンピックの年だったんだよな。でも、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカはじめ西側諸国、中東、中国などがボイコットした。日本もボイコットして、優勝間違いなしと言われていた柔道の山下泰裕が男泣きに泣いて・・
懐かしい。山下さん、元気かな・・。
若い人のために言っておけば、この時期、1970年代後半から80年代前半は「ジャパン・アズ・ナンバー1」と言われて、日本経済はアメリカを圧倒するほどの絶好調でした。日本の音楽市場も世界2位の巨大マーケットです。
ちなみに、1980年前半のGDPランキングでは、1位アメリカ、2位日本、3位西ドイツでした。
ただし、バブルではない。バブルはこの後の1980年代後半。1985年のプラザ合意(円の切り上げ)で始まりました。バブル期は、株価と地価だけが、実体経済から遊離して、爆上がりした。それまでは、実体経済もよかったのです。
アラベスクは、「ハロー・ミスター・モンキー」「フライデーナイト」「フライ・ハイ」「今夜もロック・ミー」「恋にメリーゴーランド」などが主なヒット曲。
日本語Wiki「アラベスク」によればーー
洋楽アーティストセールス部門では、1979年と1980年は第2位(第1位は共にABBA)、1981年は第1位(第2位はノーランズ)を獲得、また、昭和56年度の日本国内ベストセラー(オリコンコンフィデンシャルによる)アーティスト・セールス・ランキングでは、第6位(第5位はオフコース)と、当時ヒットしていたシャネルズや田原俊彦、近藤真彦等の日本のアイドルを上回るセールスを記録していた。
「ハロー・ミスター・モンキー」(1977)
「恋にメリーゴーランド」(1981)
Arabesque - Golden Disco Hits (Video)
韓国公演(1981)の映像 「フライ・ハイ」での会場を圧倒するサンドラの歌声が見どころ
アラベスクの歴史は、1975年、西ドイツのポピュラー歌手メアリー・アン・ナーゲルが、音楽プロデューサーのヴォルフガング・メーヴェスに、「女の子のグループ」結成を提案したことから始まります。
その後、オリジナル・メンバーのミシェーレ・ローズ(メキシコ系ドイツ人)だけを残してメンバーチェンジし、1978年、ジャスミン・フェッターと、2代目のリード・ヴォーカルとしてハイク・リンボウ(Heike Rimbeau)が加入しました。
ハイク・リンボウがリードヴォーカル時代のアラベスク「フライデーナイト」(1978)
しかし、リンボウが1979年に妊娠のため脱退し、短期間、エルケ・ブルクヘイマー(Elke Bruckheimer)に代わった後、次の新しいリードシンガーとして、17歳のサンドラ・アン・アウラー(1962年生まれ)が加入します。
われわれに馴染みなのは、このミシェーレ、サンドラ、ジャスミンの時代です。

全盛期の3人はみんな歌が上手いのですが、いま聴くとやっぱり、のちにソロになってヨーロッパを代表する歌姫になる、サンドラの声の魅力が効いていますね。
可愛らしい一方で、伸びとハリのある高音、抜群のリズム感で素晴らしい。
でも、のちのサンドラの歌の魅力を知っていると、「もったいない使い方をしてるな」とも思ってしまう。
サンドラの声は、ミドルテンポの、落ち着いた曲調でより生きるのですが、この頃は、アップテンポのポップスばかり歌わされています。
日本人を「ユーロビート」に目覚めさせた
この「アップビート」が、アラベスクを語る場合に、一つの論点になります。
アラベスクは、日本に初めて「ユーロビート」を持ち込んだグループ、という評価があるんですね。
その点で、同じディスコミュージックでも、ノーランズとはある意味、対照的です。
ノーランズの曲は、代表曲「ダンシング・シスター」でわかるとおり、少しゆったりしたテンポで、横ノリのグルーグがある。(ただし、日本で発売された「ダンシング・シスター」は、少しピッチを上げているそうです)
ABBAの「ダンシング・クイーン」と同じで、アメリカの70年代のディスコのノリ。「ディスコ前期」のノリです。ディスコがまだ大衆的だった時代の。
それに対して、アラベスクの曲は全体にアップビートで、後期になるほど電子音的なピコピコやベース音が効いてきて、いかにも「ユーロビート」っぽくなる。
当時、ドイツは、ユーロビートの起源とされるイタリアのディスコの影響を強く受けていました。
これは、パラパラとか、バブル期の高級ディスコ、その後の「クラブ」へとつながる「ディスコ後期」の音楽なわけです。
アラベスクと「ユーロビート」の関係については、いまだ定説が固まっていないようで、説明には混乱が見られます。
たとえば、日本語のWiki「アラベスク」では、ユーロビートとの関係を、以下のように説明しています。
1978年、ビクター音楽産業は、「ハロー・ミスター・モンキー」の日本での発売権を獲得しリリース、日本のユーロ・ビート・ブームに乗り大ヒットし、オリコン洋楽シングルチャートで通算3週第1位(総合チャートでは第8位)、実に42週に渡るランクインを記録した。(中略)
二度の来日公演の前後がアラベスクの人気のピークだったと考えられる。それまでのディスコブームから始まったユーロ・ビートやキャンディポップといった音楽のトレンドが日本でも変わり始めたからだ。1983年を過ぎるとアルバムのリリース(同年の新譜は、何れも同一アルバムからのシングル・カット)も途絶えたりと人気も徐々に陰りを見せ始めた。
日本語Wiki「アラベスク」
つまり、アラベスクは、「日本のユーロ・ビート・ブームに乗り大ヒットし」たが、「ユーロ・ビートといった音楽のトレンドが変わった」、ユーロ・ビート人気が廃れたから、人気が落ちた、という説明になっています。
でも、これは実際の歴史とは矛盾します。一般に日本でのユーロビートのブームは1980年代後半からとされますから、アラベスクが流行り出した頃に、そのブームはありませんでした。
アラベスクの初期の曲は、アメリカ的というよりイタリア-ドイツ的という意味では「ユーロ的」ですが、ボニーMやジンギスカンなどとさほどちがいがなく、明確なユーロビートではないと思います。
そして、アラベスクが1984年に解散した直後からユーロビートが流行り出す、というのが実際の流れです。アラベスクの後期の曲が、そのブームの先取りをしていた、というのが事実ではないでしょうか。
英文Wikiの「ユーロビート」は、以下のとおり説明しています。
1985 年の日本では、「ユーロビート」という用語は、ヨーロッパ大陸から輸入されたすべてのダンス ミュージックに適用されていた。これらは主にイタリアと西ドイツで制作された イタロ(Italo) ディスコのリリースだった。そのサウンドは、1980年代初頭から存在する「パラパラ」のナイトクラブカルチャーのサウンドトラックとなっていた。日本は、1984年に解散した西ドイツのグループ「アラベスク」の成功を通じてイタロ・ディスコを経験している。解散後の1985年と1986年に、アラベスクは、マイケル・クレトゥ(エニグマ)がプロデュースとミックスを担当した、イタロ・ディスコ風のシングルを2枚リリースしている。その後、アラベスクのリードシンガー、サンドラがソロで成功を収めたことで、このサウンドはさらに日本に紹介された。
in Japan in 1985, the term "Eurobeat" was applied to all continental-European dance music imports. These were mainly Italian and West German-produced Italo disco releases. That sound became the soundtrack of the Para Para nightclub culture, which has existed since the early 1980s. Japan experienced Italo disco through the success of the West German group Arabesque, which broke up in 1984. This did not prevent the release of two Italo disco-sounding singles in 1985 and 1986, produced and mixed by Michael Cretu (of Enigma). The later solo success of Arabesque's lead singer Sandra further introduced this sound to Japan.
英文Wiki「Eurobeat」
つまり、すげー優秀なプロデューサーで、のちに「エニグマ」プロジェクトで活躍するマイケル・クレテゥがかかわった、アラベスクの最後の2枚と、その後のサンドラのソロが、「ユーロビート」を広く日本に伝えた、という説明になっています。
アラベスクの最後の2枚とは、「恋はナイト・アンド・デイ」(1985)と、「エクスタシー」(1986)のことだと思われます。(ただし「エクスタシー」のシングルはヨーロッパでのみ発売)
たしかに、「恋はナイト・アンド・デイ」と、ユーロビートの代表曲としてよく挙げられるデッド・オア・アライブの「ユー・スピン・ミー・ラウンド」(1984)を聴き比べると、ほとんど同じサウンドであることがわかります。
アラベスク「恋はナイト・アンド・デイ」(1985)
デッド・オア・アライブ「ユー・スピン・ミー・ラウンド」(1984)
で、こういうサウンドを聴くと、私は、ああ1980年代後半だなあ、バブル期だなあ、昭和の末期だなあ、と思います。
デッド・オア・アライブといえば、昭和天皇が亡くなる前の自粛期に、「デッド・オア・アライブ」ってバンド名がまずい、と放送自粛されたエピソードをどうしても思い出す・・
ギャル文化にも影響か
以上の「ユーロビート」の説明が正しいかどうか、私は全然自信ないです。
「ユーロビート」の定義にもよるのかもしれない。
私は、もう「パラパラ」あたりからついて行けなくなっていますからね。
当時、日本の最先端のディスコやクラブに出入りしていた人が、アラベスクやユーロビートをどう体験していたか、知りたいですね。
いずれにせよ、1990年代、つまりバブルが終わり、平成期に入ると、ディスコのユーロビート・ブームが終わって、「トランス」とかに移っていくそうですが、ユーロビートはエイベックスの松浦社長に愛され、安室奈美恵とか浜崎あゆみとかに引き継がれ、また、その頃の日本のゲーム音楽やアニメ音楽に引き継がれて、今に至るーーということになっています。
ユーロビートは、日本で独自の進化をして、今や「J-Euro」と呼ばれています。
というわけですから、もしユーロビートを最初に日本に紹介したのがアラベスクなら、アラベスクは、その後の日本の音楽シーン全体に、非常に大きな影響を与えたことになります。
他にも、英語Wikiの「アラベスク」には、その人気に「竹の子族」がかかわっていた、といった気になる記述があります。
アラベスクは日本でとくに人気があった。1970年代後半、日本の深夜ラジオ番組で彼らの曲がオンエアされ始め、竹の子族などのサポートもあって、とくに10代の若者の間で人気が高まり、1980年代初頭の日本における洋楽人気の原動力となった。
Arabesque were especially popular in Japan.Their songs began being aired on Japanese late-night radio shows in the late 1970s, and with support from groups such as the Takenoko-zoku, they became especially popular with teenagers and a driving force behind the popularity of Western music in Japan in the early 1980s.
そういえばアラベスクの衣装は、なんとなく竹の子族っぽい気もする・・。
そのあたりになると、さらに私にはわかりませんが、日本でのファンクラブは盛況だったと言いますし、女の子の人気が高かったのでしょう。
アラベスクは、日本のギャル文化にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。
というわけで、アラベスク、調べれば調べるほど、ビッグな存在だった、とわかってきます。
「アラベスク学」、奥が深すぎます。
ファンの人には、何をいまさら、と言われるかもしれません。
不明を恥じるばかりであります。
なお、サンドラが抜けて、アラベスクが1984年に解散した後、ミシェールとジャスミンは、「ルージュ」というドゥオを結成し、日本でそこそこの成功を収めましたが、ジャスミンの妊娠と結婚のため、1989年に解散しました。
ミシェーラ・ローズはその後、神秘学に興味を覚え、「レイキ」や「タロット」などを習得し、資格を取りました。
彼女は、約17年間ショービジネスから離れたのち、2006年、新たなメンバーによる「アラベスク」を再結成しました。
ミシェーラ(1958年生まれ、現在66歳)によるアラベスクは、現在も活動しています。
ミシェーラ・ローズによる「アラベスク」2014年の「ミッドナイト・ダンサー」↓
また、ジャスミンも、Facebookなどでファンと交流を続けています。
「出稼ぎ」時代のサンドラ最後の曲「日本は遠い」
私は、これを書くためにアラベスク脱退後のサンドラの曲をたくさん聴いて、ますますサンドラが好きになってしまいました。

とくに、のちに夫になるマイケル・クレテゥがプロデュースした、ドイツ語による初のソロ曲「ヤポン・イスト・ヴァイト Japan ist weit(日本は遠い)」が、心に残りました。
クレトゥは、前述のとおり、のちに「エニグマ」で世界的に知られるようになるルーマニア人ですが、当時はアラベスクのキーボード担当で、彼がサンドラに独立を「そそのかした」と言われます。

この「ヤポン・イスト・ヴァイト Japan ist weit」は、125枚とか、150枚とかしか売れなかったそうです。
でも、サンドラは、次のシングル「マグダラのマリア Maria Magdalena」(1985)が、ヨーロッパで大ヒットして、ブレイクします。80年代、大陸ヨーロッパでは、マドンナ以上の売り上げを誇りました。
キャンディポップと決別し、「大人の」ポップ歌手になったのです。
そしてその後、彼女と日本との縁は、ほぼ切れてしまいました。
我々日本人は、サンドラが大成する前の、若い頃の出稼ぎ時代を、「アラベスク」という形で記憶しているわけです。
サンドラとマイケル・クレトゥの、この「日本は遠い Japan ist weit」は、名曲だし、名唱だと思う。
この曲は、西ドイツでヒットした、アルファビルの「Big in Japan」(1984)のカバー、という点がまず皮肉です。サンドラは、ドイツでは無名だけど、「日本で大物」である自分を皮肉っているわけです。
そして、それを「日本は遠い、遠すぎる」という歌詞に変えることで、日本を去る当時の決意を歌っています。それが、心に沁みるんですね。
サンドラ「ヤポン・イスト・ヴァイト Japan ist weit(日本は遠い)」(1984) (Japanese, English, German & Spanish Lyrics)
「マグダラのマリア(マリア・マグダリーナ)」(1985)↓ 「日本は遠い」の次にリリースされ、サンドラをヨーロッパの80年代を象徴するスターに押し上げた曲
*この曲、歌詞が、キリスト教圏以外ではピンとこない。マグダラのマリアは、新約聖書に出てくる人。娼婦だったが、イエス・キリストに出会って改悛し、イエスの最期まで付き従った。「私は絶対にマグダラのマリアにはならない」と歌うこの曲の解釈はさまざまですが、男の言いなりにはならない、という意味に解されているようです。この時期、マドンナも聖書的比喩を使って、背教的ともとれるメッセージを歌っており、共通した文化現象だったかもしれない。
2019年、ロシアで「マグダラのマリア」を歌う57歳のサンドラ ちなみに彼女は、マイケル・クレトゥと別れた後、別のプロデューサーと結婚したが、それも2014年に離婚している↓
2023年、ブダペストのコンサートでノリノリの62歳のサンドラ 80年代の反戦歌「ヒロシマ」も歌ってます↓
<参考>
