見出し画像

謀叛(むほん)と謀反(むへん)

「諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛的である」

これは、明治44年(1911)、徳富蘆花が一高でおこなった有名な演説「謀叛論」の一節だ。

ここで言う謀叛とは大逆事件のことだ(画像は大逆事件判決を伝える号外)。蘆花は死刑になった幸徳秋水とは知り合いだった。蘆花と秋水は当時の言葉で「社会主義者」だが、のちのマルクス主義などとはだいぶ違う。蘆花は今の感覚でいえば「心情右翼」である。

それはともかく、ここで問題にしたいのは「謀叛」という言葉だ。

「むほん」を変換しようとすると、「謀叛」「謀反」の二つの漢字が出てくる。同じ意味に使われることもあるが、正確には「謀反」は「むへん」と読んで、「謀叛」とは意味がちがう。いずれも、中国(唐)と日本の律令の中で、特に重い罪とされた3つに含まれる。その3つとは、

「謀反(むへん)」=君主(天皇)に直接危害を加えようとすること

「謀大逆(むたいぎゃく)」=君主(天皇)の墓を暴こうとすること

「謀叛(むほん)」=国家に危害を加えようとすること

刑はいずれも死刑である。

日本近代の大逆事件とは、のちの虎ノ門事件なども含めて、天皇(虎ノ門事件では摂政)を殺害しようとした(と当局は主張した)のだから、「むへん」事件に他ならない。

しかし、昔から、「謀反」という言葉はあまりに恐れ多いから、これを婉曲に「謀叛」と言う例は多かったようだ。大逆事件を「謀叛」と言ったのもそうだし、「大逆」事件という言い方そのものが婉曲表現だろう(正しくは謀反事件)。

なお、英語では、「謀叛」は Treason, 「謀反」は High Treason である。

日本史の中で、「謀叛」の例は数多いが、「謀反」の例も少なからずある。

古代で有名なのは729年の「長屋王の変」だ。元明天皇の寵愛を受けた正二位・左大臣、今でいう総理大臣の長屋王だが、元明天皇没後、聖武天皇への「謀反」の罪で失脚し、平城京で妻・子供4人と心中する。(藤原氏による冤罪だとされる)

私が昔から疑問なのは、天皇自身が国家に危害を加えようとした時、それも「謀叛」なのだろうか。例えば承久の乱とか。その場合、天皇勢を排除しようとする政府(幕府)側は、「謀反」に問われるのだろうか。

こういう「謀叛」VS「謀反」の場合を、律令は想定しないように思われるが、現代の法学者はどう考えるのだろう。

「謀反」「謀反」の「謀」は「計画すること」という意味だから、これらは計画しただけで死刑ということだ。

それが実行・実現された場合は、そのまま「反」「大逆」「叛」になる。

日本史において、「叛」(「乱」や「変」)はあっても、さいわいにして「反」はなかった。そのおかげで皇統が保たれ、平和理に「国体」が(2600年はオーバーだとしても)1500年以上続いている。

だけど、それは本当か。あれはどうなんだろう。「壬申の乱」。

672年の壬申の乱は、天智天皇の弟であった大海人皇子が、天智天皇の子・大友皇子と戦争をして、勝利して天武天皇となった事件だ。

問題は、その戦争の時、大友皇子がすでに天皇として即位していた可能性があることだ(明治になって弘文天皇の諡号がおくられた)。そして、大友皇子は、自殺したことになっているが、大海人皇子側に殺された可能性がある。(佐藤信編「古代史講義」など)

そうであれば、これは「反」に他ならない。「壬申の反」である。

しかし、「日本書紀」等含め、記録はすべて勝者の天武天皇の立場からのものだから、真相はわからない。そもそも律令自体、天武後にできたのであるから、天武天皇は事後法の禁止で無罪を主張できる、のか?

いずれにせよ皇統は保たれ、天武天皇の強力なリーダーシップで今の日本の基礎ができたのだから、結果はよかったと言えるが、それもそう思わされているだけかもしれない。

思い浮かぶ「反」のもう一例として、幕末の孝明天皇暗殺の噂があるが、これも真相はわからない。




いいなと思ったら応援しよう!