【追悼】渡辺恒雄・読売主筆 その功罪
ナベツネさん、ついに亡くなったねえ。
日本の新聞界を代表する重鎮として知られる読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が12月19日午前2時、肺炎のため東京都内の病院で死去した。98歳だった。
今年は読売創刊150周年、そして正力松太郎が読売を買収し社長に就いてから100年目の年だった。その節目の年を、十分に生きて、年末に亡くなった。
来年生誕100年を迎える三島由紀夫の1つ年下だった。ただし、三島は早生まれで、今風に言えば2学年下。(三島が1925年〈大正14年〉1月14日生まれ、ナベツネが1926年〈大正15年〉5月30日生まれ)
2人が東京帝国大学に入ったのは、戦争中ゆえ変則的な時期だったが、卒業はいずれも東京大学に改名した後で、三島が1947年に法学部を卒業、ナベツネは文学部哲学科を卒業後1950年に東大新聞研究所を修了となっている。同年読売新聞に入社。
私の現役時代は、業界紙の正月紙面に載る、ナベツネさんの新年挨拶講話が楽しみだった。
その時点の日本をめぐる政治経済情勢を簡潔にまとめ、ユーモラスに、時に毒舌もまじえて、業界の課題を、新聞関係者に伝えていた。
その語り口のうまさに、さすが名記者だと毎回、うならされた。
ナベツネさんは1990年代、日本のネオコンと呼ばれた、という話は以前も書いた。
それ以前、1980年代から中曽根康弘のブレーンで、中曽根-レーガン時代の思い出が深い。
今年は伝記映画「レーガン」も(評判は悪いが)アメリカで公開された。冷戦が終わる前後の話と共に、ナベツネの功罪も振り返られていい。
冷戦後は、他のメディアが方向性を失う中、ナベツネは読売社説で、アメリカと中国の2強が支配する世界の行方を力強く説いていた。
東大新人会の左翼であったことや、読売大阪社会部「黒田軍団」をパージして天下を取った話、巨人軍オーナーとしての暴言騒動など、エピソードには事欠かない。
1981年、取締役論説委員長に就任。その後、44年に及ぶ彼の「安定政権」は、新聞史に特筆すべきことだろう。平成時代をすっぽり挟み、私の現役期間中、彼はずーっとマスコミの「ドン」だった。
最後まで各社取締役と日本最大手新聞の「主筆」の肩書を手放さなかった。異様な権力欲、地位への執着心だったと言える。
逆に言えば、100歳近くで死ぬまで、彼を必要とした日本のメディア界とは何だったのか。
彼の政治力とリーダーシップがなければ、新聞の再販制の維持も、軽減税率の獲得も、難しかったのだろう。
ナベツネさんについては、以前、こんなふうに書いた。
わたしの現役時代の読売のイメージは、よきにつけ悪しきにつけ、ナベツネの個性で決定されていた面があります。
1990年代、ナベツネが書いていた社説は、冷戦終了後の日本をリードしているように見えました。ナベツネは「日本のネオコン」なんて呼ばれてましたね。読売憲法試案を出したり、中央公論を買収したり、とにかく目立っていた。
しかし、2000年前後から、ナベツネは、読売だけでなく新聞業界全体の代表者となり、規制緩和反対とか、デジタル化反対とか、日本の反動勢力の象徴と化していました。
その功罪は、なかなか見きわめがたい。
とくに「デジタル化反対」で、ナベツネ主筆のもと、読売新聞は日本の足を引っ張った。
それについても、私は以前、以下のように書いた。
日本は、デジタル化で、韓国、シンガポール、台湾などに大きく遅れを取っている。最近ではタイなどより遅れているかもしれない。
遅れを取り戻す最後のチャンスを潰したのはマスコミだったと、民主党政権で文部科学副大臣だった鈴木寛が『テレビが政治をダメにした』で書いている。
特に最大手の読売新聞が反対した。
2010年9月に読売新聞主催で、「デジタル化教育を考える」というデジタル教育反対のシンポジウムを行います。基調講演をお茶ノ水大名誉教授の藤原正彦氏がやって、「デジタル化が日本を滅ぼす」といった内容の講演をしたときには驚きを隠せませんでした。そこに私と、「国語デジタル教科書」などの開発をした光村図書出版の取締役が呼ばれて、もう完全アウェーでボコボコに批判されたのです。
しかも、全国紙の一面で5回くらい批判を展開する。また、田中真紀子氏と外山滋比古氏は『頭脳の散歩 デジタル教科書はいらない』(ポプラ社刊)を書いて、デジタル教育反対と一斉にデジタル教育が悪玉にされ始めたました。(中略)この一件で、結局日本の教育はITC化がさらに遅れてしまい、シンガポールとか韓国に追いつくチャンスを逃してしまったのです。
1980年代まで、マスコミはデジタル化、IT化に必ずしも否定的でなかった(その頃は「ハイテク」と言われた)。それは、自分たちが主役になって進められると思ったからだ。
しかし、それが自分たちの利権を脅かす、と業界が感じたのは、インターネットが爆発的に普及しはじめ、新聞部数が減少に転じた1990年代後半だと思う。
それ以降、できる限りデジタル化に反対しようとする。紙の新聞を学校に強制的に買わせようとする動きすらある。アマゾンが癪に触るから、嫌がらせのように「街の書店の素晴らしさ」をしょっちゅう記事にするのも同根だ。
オピニオン的にも、読売「改憲」試案を出したころの改革意欲はすぐなくなり、2010年以降、彼が80を超えてからは、お題目的な「反戦・非戦」や「反アベ」で、メディアのサヨク守旧派を歓喜させた。
(そして、昭和天皇の責任は問わず、悪かったのはA級戦犯はじめ旧日本軍だと断じ、憲法9条の「非戦」を奉じるーーそれは、GHQが日本に「こう考えてほしい」と押し付けた価値観そのままだ。正力松太郎は周知のとおりCIAのスパイであり、読売とナベツネは結局、アメリカの占領政策を肯定し体現することで戦後の「正統」派となったのだ)
長谷川幸洋が安倍首相から直接聞いた話によれば、官房長官には月に1度、ナベツネに「政情報告」する義務があったという。
ナベツネにとって、もはや、すべての選挙で選ばれた政治家は自分より年下で、小僧に見えただろう。
もう新しい思想を吸収できず、新しい世代を信用できず、頑迷になり、若き日の左翼時代に脳みそが戻ったかのようだった。自分がいないと日本はダメになる、という一念で自身を正当化していたのだろう。
ナベツネは、関東大震災で、大阪勢の朝日・毎日に駆逐された東京の新聞(報知・読売)の恨みを、最終的に晴らした男だった。
皇居のすぐ横、大手町に新社屋を建て、その上層の主筆室から周囲を睥睨して満足を覚えたことだろう。
だが、それから先のメディアのあり方については、考えがなかったようだ。
後年は、最良の場合でも、その思考は国内の既成体制保護、現状維持、時代遅れの護送船団方式の継続にとどまり、最近よく言われる「オールドメディア」の象徴だった。
読売の比較優位は保てたかもしれないが、現役世代のメディア不信は増大し、業界全体の衰退は止められず、むしろそれを促進した。
彼の死で、メディアは変わるだろうか。
ともあれ、ご冥福を祈る。
<追記 2024/12/24>
ナベツネの戦争責任論のおかしさについて、12月23日夜に原武史氏(明治学院大名誉教授)が以下のとおりXに投稿した。
BS-TBSの報道1930は渡辺恒雄の特集で、読売が渡辺の指示で行った「検証・戦争責任」を肯定的に取り上げていたが、この記事では戦争の責任を全面的に東條英機に押し付け、昭和天皇を免責させている。その後、拝謁記などの史料の公開によりこの論理は破綻したはずなのに、誰も言及しなかった。
(原武史 2024/12/23 22:37)
BS-TBSの報道1930は渡辺恒雄の特集で、読売が渡辺の指示で行った「検証・戦争責任」を肯定的に取り上げていたが、この記事では戦争の責任を全面的に東條英機に押し付け、昭和天皇を免責させている。その後、拝謁記などの史料の公開によりこの論理は破綻したはずなのに、誰も言及しなかった。
— 原武史 (@haratetchan) December 23, 2024
<参考>
