男らしい音楽と女らしい音楽
バッハ「イギリス組曲」の楽譜の解説を眺めていて、ふと目が止まった。
「男性的な第一主題が第一声から第二声へと続けられる。第二主題は反対に女性的な主題である。」(第二番イ短調前奏曲の解説 全音楽譜出版)
この楽譜を買ったのは比較的最近だが、こういうところまではフェミニズム検閲官の目も届いていないようだ。
昔は、「レコード芸術」などの演奏評でも、
「ヘブラーは女性らしく優美にモーツアルトを奏でる」
「ムラヴィンスキーは男性的に決然とフィナーレへ突き進む」
といった性差別的表現に満ちていた。今は読まないから知らないが、古い評者ならまだ使うかもしれない。
問題が複雑なのは、「男らしさ」「女らしさ」という発想が、過去の作曲家にもあったかもしれないからである。「男らしい」、あるいは「女らしい」表現が「正解」なこともあるかもしれない。
オペラなどでも、性差別的なステレオタイプはいくらでも探せるだろう。
私は「男らしさ」「女らしさ」を否定しない。文化や個人の価値観として尊重すべき場合はある。それがLGBTの人たちをあまりに抑圧しない限りは。
表現の自由の観点から、「言葉狩り」にも反対だ。
ただ、「男らしさ」「女らしさ」が、ことさら価値の優劣に使われるなら、やはり差別的だと感じる。
たとえば、いくら頭の古い評論家でも、アルゲリッチの演奏を「女らしい」とは言わないと思う。
それに対して、ヘブラーの演奏を「女らしい」と言うとすれば、そこには優劣の価値観が疑われる。
ピリスの演奏を「女性らしく繊細」と言うのも、褒めているようで、やはり差別的だろう。
冒頭のバッハの解説については、アウトだと思う。ソナタ形式の第1主題を男性的、第2主題を女性的、という説明は、昔は教科書でも見た気がするが、作曲者の意図とは思えない。解釈者の偏見の反映だ(バッハに関して文献的根拠があれば別だが)。
女の場合にとくに「『女流』ピアニスト」と呼ぶ慣例は無くなっただろうか。「女流作家」という言い方も今はなるべく避けるだろう。「閨秀作家」なんて言い方もあったな。
この問題に結論はないけれど、音楽の「性別」の認識は、演奏にも影響していくだろう。場合によっては、性的偏見を強める「教育」効果があるかもしれない。このバッハの楽譜を使っているピアノの先生は、生徒にどう教えているのだろうか。
