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自殺の善悪中立説 「自殺が政治を動かす」時代に

「自殺」という言葉を出すだけで、ネットが神経質に反応して、相談窓口が案内されたりする。

日本は自殺者が多いとされるので、敏感になるのはいいのだが、それについて自由に論じられなくなる空気はやばい。


先日、Xで、以下のようなポストを見かけた。


言論より自殺のほうが圧倒的に政治を動かしうる状況がもうずっと続いてるのはかなり問題ではと思っています


役所でも会社でも、上司は部下を、叱責どころか、批判も否定もできなくなっている。

家庭でも学校でも、同じようなことが起こっている。

もし部下や子供に自殺され、その前に少しでも当該人を「傷つける」言動があったなら、「パワハラ」といった和製英語で社会的に殺される。


「内部通報」の内容に疑義があっても、「もし告発者に自殺されたら」という配慮から、それが重く扱われる可能性がある。(わたしのサラリーマン時代にも、そうした傾向を感じた)

そのことによって、相対的に力を持たない者は、力を持っている者を「自殺」の可能性で脅すことができる。

上に引用したポストは、その恐怖で、社会の機能の一部が凍りついていること、少なくともそう感じている人がいることを示している。



そうした空気が醸成されるのは、自殺した者が「正しい」とみなされる傾向があるからだ。

まさにその傾向が、自殺者をふやす契機となる。自殺によって、自らの「正しさ」を証明できるーー場合によっては敵に仕返しできるーーと考えるかもしれないからだ。

自殺を減らしたいなら、その弊害にも目が向けられなければならない。



イエス・キリストは、一度死んで、復活した。

それが事実であることの「論証」として、初期キリスト教徒(いわゆる使徒)たちが、死を恐れずにイエスの復活を説いて回ったことを挙げる人がいる。

自分の命を賭けるほどだったのだから、イエスの復活は本当だったのであろう、と。

でも、これは弱い論証だ、と、ずっと思っている。

疑わしい事実だからこそ、「命を賭ける」ことで強引に説得しようとすることだってあり得るからだ。

もちろん、イエスの復活を信仰する人に、わたしは文句を言うつもりはない。その「論証」では説得されない、と思うだけで。

同様に、自殺の「論証能力」は、一般に弱いとわたしは思う。

「自殺した者の無念がわからぬか」と力こぶが入る言い方を聞くたび、わたしはイエスの復活論を思い出す。



基本に戻って考えたい。

自殺も「殺人」である。

自分で自分を「殺す」のだ。


あらゆる殺人が罪だという考えに立つなら、自殺も罪である。

しかし、人間は自身の身体に自己決定権があるという考えに立つなら、人は自殺する権利がある。

いま、その議論には深く立ち入らない。


ただ、殺人にも、違法なものと正当なものがある。

一般に殺人は犯罪とはいっても、正当防衛の場合は許されるし、戦争中に敵を殺すのも許される。

殺人に、計算されたものと、激情的なものがあるのと同じく、自殺にもさまざまタイプがある。

ほとんどの場合は同情すべき例だとしても、他人をおとしいれるために自らの命を投げ出す人もいるらしい。

殺人も自殺も「一色」ではなく、その行為の「善悪」の度合いが、本来裁かれなければならないのだ。



しかし、いわゆる「殺人」と「自殺」の大きな違いは、以下のようなことだ。

殺人なら、加害者と被害者の両者の背景を取り調べ、行為の善悪の度合いを裁ける。(限界があるとしても)

自殺の場合、原則的にそれができない。

加害者と被害者が同じで、両者がこの世にいない場合は、この「殺人」の善悪を裁く手立てがない。

自殺は、ことの「善悪」が裁かれる機会を、みずから「回避」する行為である。

社会的な責任論として「善悪」を裁く場面においては、無責任な行為である。

このことを、法哲学者の井上達夫はーー以前にもnoteで引用したことがあるがーー以下のように述べている。


自裁は死ぬ者にとっていかに強い責任感に基づいていたとしても、死なれる他者にとっては、大きな損失と打撃を他者に与えながら、それに対して責任を取るべき自己の存在を滅却するという点で、結果的には無責任な行動となる。他者は、傷つけられながら、置き去りにされるのである。死の自己決定権があるとしても、責任をとるために自殺するのは、死の自己決定権の間違った行使である。それは他者への応答性と配慮という本来の意味での責任を放棄する行為であるために自壊的である。自己を滅ぼすという意味で自壊的なのではなく、自殺の根拠が自殺によって否定されるという意味で自壊的である。自己を裁きうるのは他者のみである。自分で自分を裁く者は、他者に裁かれることを回避しているのであり、責任をとったのではなく、責任を回避したのである。

『生ける世界の法と哲学』p457



自殺に「追い込まれた」心境を想像すれば、誰だって同情したくなる。

人生というのはつらく苦しいものだから、自殺を考えなかった人は少ないだろう。

井上も、上のような文章を書きながら、自分も「電車に飛び込んだら楽になれる」という衝動と闘った経験を書いている。

わたしも同様だ。

だから、自殺者に、人間として同情するのは自然であり、だからこそ、井上が言うように、自殺者は、生きている者に心理的な「打撃」を与える。

前にも書いたが、わたしくらいの歳になれば、知り合いに自殺者が何人かいて、わたしも打撃を受けてきた。


しかし、自殺を、上記のように、責任回避行為と考えるなら、それによって、生きている者の責任だけが問われるのは不公平である。

自殺者の言い分が正しいかどうか、どの程度正しいかも含めて、われわれは裁けない。そうである以上、生きている者も、それだけで裁かれるようなことがあってはならない。


人には自殺する「権利」があるとしても、もし、ある者の責任を問いたいなら、あくまで生き延びて告発しなければならない。

自殺によってしか告発できない、という状況が、想像できないわけではないけれど、「生きて告発すべき」が原則であるべきなのは変わらない。



自殺者が「正しい」とは限らない、というより、正しいか正しくないか、人が裁けない場所に、自殺者は自らの意思で移動したのである。

だから、自殺という行為にたいして、社会は「善悪中立」で見るべきだと思う。


いまは、自殺者に同情しすぎて、生きている者の責任を問いすぎている。

それが、不当な社会的制裁を招くとともに、自殺者をさらにふやさないか、心配している。



<参考>


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