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セックスレスに必要なのはドキドキ、という提案は少し雑ではないか

セックスレスは、夫婦が親密な家族になった結果、恋人同士のようなドキドキが起こらなくなったことによるものではないか。

お互いがあまりにも近い存在になりすぎると、性的な対象として見えにくくなる。だから、時には恋人のような距離感を演出してみるのもいいのではないか。

そんな話を見かけた。

言っていることは、分からなくもない。

慣れ親しんだ相手に、改めて性欲を抱くのは難しいのかもしれない。生活を共にし、家事を分担し、子どもを育て、疲れた顔も、だらしない姿も、機嫌の悪い瞬間も見せ合う。そうして相手が「恋人」よりも「家族」になっていく感覚は、たしかにあるのだと思う。

けれど、これは私たち夫婦には全く当てはまらない。

私たちは、もう十年近く一緒にいる。子どもも三人いる。だから当然、恋人同士のような距離感で暮らしているわけではない。生活は生活だ。眠れない夜も、子どもの世話も、家事も、疲労も、全部ある。

それでも、私たちはセックスレスではない。

そう考えた時、夫婦に必要なのは、ドキドキを取り戻すことだけではないのではないかと思った。

むしろ大切なのは、お互いがその時に何を求めているのか、何を負担に感じているのか、どこまでなら心地よくて、どこからが苦しいのかを、擦り合わせられる関係なのではないだろうか。

妊娠、出産、育児というのは、女性の身体にとってかなり大きな出来事だ。

妊娠中は、まずお腹の赤ちゃんのことが気になる。お腹が張ることもあるし、この行為によって何か影響があるのではないか、と頭をよぎることもある。産後はそもそも体力もメンタルもそれどころではない。授乳期に至っては、身体が自分だけのものではなく、赤ちゃんのためのインフラのようになっている。

そういう時期に、女として見られたいとか、恋人同士のような雰囲気を取り戻したいとか、そういう話以前に、まず思う。

寝かせてくれ、と。

性欲より睡眠欲。ロマンより休息。ムードより回復。

これは笑い話のようでいて、かなり切実なことだと思う。

女性の身体は、妊娠出産育児によって、一度かなり大きく役割を変える。ホルモンも変わる。生活も変わる。自分の身体を、自分の欲望のために使う感覚が遠のくこともある。

そんな時に、夫から求められることが嬉しい人もいるだろう。逆に、それを負担に感じる人もいるだろう。どちらが正しいという話ではない。ただ、その時に「相手の身体が今どういう状態なのか」を想像できるかどうかは、とても大きい。

そしてこれは、女性だけの話ではない。

男性側にとっても、求めても応じてもらえないことは、単に性欲が満たされないというだけではなく、自分はもう相手に求められていないのではないか、愛されていないのではないか、という不安につながることがあるのだと思う。

だからこそ、セックスレスの問題は、単に「する」「しない」の問題ではない。

そこにあるのは、身体の状態、欲望の強さ、疲労、安心感、拒絶されたと感じる痛み、応じなければならないと感じる苦しさ、そういうものが絡み合った、とても個人的で、繊細な問題なのだと思う。

さらに言えば、女性はそもそもセックスが好きではない人も多いのではないかと思う。

相手のことが好きでも、セックスより、ただ抱きしめられている方が安心する人もいる。手を繋いで眠ることや、背中を撫でてもらうことや、一緒にくだらない話をして笑うことの方が、ずっと満たされる人もいる。

それは、愛情が薄いからではない。

単純に、身体の感じ方が違うのだと思う。

女性にとってのセックスは、快感より先に、痛みや不快感が来ることも多い。濡れているから大丈夫、声が出ているから気持ちいい、というような単純なものではない。濡れていても痛い時は痛いし、声が出ることは必ずしも快感の証明ではない。

挿入が気持ちいい、という状態に至るまでにも、時間がかかる人は多いと思う。相手への信頼、身体の慣れ、気持ちの余裕、前戯の丁寧さ、痛い時にちゃんと止まってもらえる安心感。そういうものが少しずつ積み重なって、ようやく身体が「これは怖くない」「これは気持ちいいかもしれない」と学習していく。

性感帯というのは、最初からそこにあるスイッチではなく、関係性の中で育っていくものなのだと思う。

だから、セックスが好きではない女性が多いとしても、それは単に性欲が弱いからというだけではないかもしれない。

気持ちよくされる経験より、痛くないように耐える経験の方が多かった。相手を傷つけないために応じていた。断ると空気が悪くなるから我慢していた。そういう経験が積み重なれば、セックスそのものに前向きになれなくても当然だと思う。

それなのに、性の話はあまりにも語られにくい。

学校で教わるのは、妊娠や避妊や性感染症の話が中心で、実際に誰かと身体を重ねる時に、相手の身体をどう扱えばいいのか、痛いと言われたらどうすればいいのか、そもそも痛いことがあるのだということを、ちゃんと学ぶ機会はほとんどない。

その結果、性の教科書がAVやエロ漫画や、何も分からないままの実地経験になってしまう。

これはなかなか厳しい。

AV女優が気持ちよさそうなのは、そういう仕事だからであり、演出だからであり、慣れているからでもある。エロ漫画の身体はファンタジーだ。現実の身体は、もっと繊細で、もっと面倒で、もっと壊れやすい。

けれど、そういう話はなかなかできない。

性の話は、あまりに私的で、あまりに恥ずかしくて、あまりに生々しい。友人同士で若さゆえに笑いながら話すことはあっても、大人になるほど、そう簡単には話せなくなる。

だから、みんなそれぞれの経験の中で、かなりガラパゴス的に性を学んでいく。

ある人はAVを教科書にする。ある人は痛いのが普通だと思い込む。ある人は相手に合わせることを愛情だと思う。ある人は拒まれることを愛情の否定だと感じる。

でも本当は、もう少しだけお互いの身体について、仕組みとして知っていたら、避けられるすれ違いはたくさんあるのではないかと思う。

女性の身体は、男性と同じ速度で快感に向かうわけではないこと。

濡れていることと、気持ちいいことは同じではないこと。

痛みや不快感は我慢するものではないこと。

好きな相手でも、したくない時はあること。

セックスよりも、抱きしめられることの方が安心する人もいること。

そして、性欲の強さも、性行為への重みづけも、人によってまったく違うこと。

こういうことを前提として知っているだけで、相手への想像力はかなり変わると思う。

それは、「もっとみんなセックスを好きになろう」という話ではない。

好きな人もいれば、苦手な人もいる。たくさんしたい人もいれば、ほとんど必要としない人もいる。そこに正しさはない。

大事なのは、自分の欲望を相手に押しつけないことと、相手の欲望のなさを、自分への愛情のなさとしてすぐに変換しないことなのだと思う。

ここで、以前書いた「AIとの恋愛は浮気なのか」という問いのことを思い出した。

私はその時、浮気というのは単に行為の名前で決まるものではないのではないか、と考えた。

誰かと食事に行ったから浮気なのか。誰かに好意を抱いたから浮気なのか。AIに恋愛的な言葉を向けたら浮気なのか。そういう行為のラベルだけでは、本当に何が問題になっているのかは分からない。

大事なのは、その行為が、今ある関係の中で何を意味するのかだ。

約束を破ったのか。隠していたのか。現実の相手から逃げるために、別の場所へ親密さを流していたのか。相手が大切にしている排他性を軽んじていたのか。あるいは、その関係では問題にならない種類の親密さだったのか。

つまり、浮気の問題も、結局は「何をしたか」だけではなく、「それがふたりの間でどういう意味を持つか」の問題なのだと思う。

セックスレスも、同じなのではないだろうか。

セックスしていないから愛がない、とは限らない。

セックスしているから健全だ、とも限らない。

していないことによって、片方が深く傷ついている場合もある。逆に、していることによって、片方が痛みや疲労や義務感を押し殺している場合もある。

問題は、セックスの有無そのものではない。

その有無が、ふたりの関係の中で、どのような意味を持ってしまっているのかだと思う。

求められないことが、「自分はもう相手にとって魅力がない」という意味になってしまう人もいる。

求められることが、「自分の身体は相手のために差し出さなければならない」という意味になってしまう人もいる。

抱きしめるだけで十分に愛を感じる人もいれば、性的に求められることで愛を確認する人もいる。

どれも、その人にとっては本当の感覚だ。

だからこそ、擦り合わせが必要なのだと思う。

「夫婦なのだからセックスするべき」
「母になったのだから性欲がなくても仕方ない」
「男なのだから求めるもの」
「女なのだから応じるもの」
「していないなら愛がない」
「しているなら問題ない」

そういう雑な一般論で片付けるには、性はあまりにも個人的で、身体的で、関係的なものだ。

恋人のようなドキドキを取り戻すことが有効な夫婦もいるだろう。

非日常の時間を作ることや、少し距離を取って相手を見直すことが、性的な気持ちを呼び戻す場合もあると思う。

けれど、それだけでは足りないこともある。

むしろ必要なのは、もっと地味で、もっと生活に近いことなのかもしれない。

今、触れられたいのか。

触れられたくないのか。

セックスがしたいのか。

ただ抱きしめられたいのか。

痛いのか。

疲れているのか。

求められないことが寂しいのか。

求められることが苦しいのか。

どうすれば安心できるのか。

どこからが負担なのか。

そういうことを、気まずさを超えて話せること。

あるいは、全部を言葉にしきれなくても、相手の反応を見ながら、何度でも調整し直せること。

夫婦に必要なのは、ずっと恋人のようでいることではなく、変わっていく相手の身体と心を、その都度知ろうとすることなのだと思う。

十年一緒にいれば、身体も変わる。

子どもが生まれれば、生活も変わる。

疲労も増える。役割も増える。昔と同じようにはいかない。

でも、同じでいられないことは、終わりではない。

むしろ、同じでいられなくなった時に、そこで相手をどう見直すかが、関係の本体なのかもしれない。

セックスレスの原因を「ドキドキがなくなったから」と説明することは、たしかに一面では分かりやすい。

でも私は、それだけでは足りないと思う。

セックスは、恋人らしさの演出だけで成立するものではない。

身体がある。痛みがある。疲労がある。ホルモンがある。生活がある。妊娠がある。出産がある。育児がある。性欲の差がある。快感の立ち上がり方の違いがある。

そして何より、相手は自分とは違う身体を持った他者である。

だからこそ、必要なのはドキドキだけではない。

相手を、勝手に分かったつもりにならないこと。

自分の欲望を、相手にとっても当然のものだと思わないこと。

相手の拒否を、すぐに愛情の否定だと決めつけないこと。

相手の応答を、当たり前の義務にしないこと。

性も、愛も、浮気も、セックスレスも、結局はそこに戻ってくるのだと思う。

相手との擦り合わせと、想像力。

何をされたら傷つくのか。

何を求められたら苦しいのか。

何を共有したいのか。

何を別の場所に置いても大丈夫なのか。

何を置かれると、自分たちの関係が損なわれると感じるのか。

それは夫婦ごとに違う。

だから、外側から見た一般論だけでは決められない。

私たち夫婦は、恋人のような距離感ではない。

生活をしている。子どもを育てている。疲れた顔も、だらしない姿も、しょうもないやりとりも、全部見せ合っている。

それでも、セックスレスではない。

それはたぶん、ドキドキがずっと残っているからではなく、相手が今どういう状態なのかを、何度も擦り合わせてきたからなのだと思う。

欲しい時もある。

無理な時もある。

ただくっつきたい時もある。

寝たい時もある。

痛い時もある。

楽しい時もある。

そういう全部を、ひとつの関係の中に置いてきた。

だから私は、セックスレスについて考える時、「恋人のような距離感を取り戻すこと」よりも先に、まずこう思う。

相手の身体を、ちゃんと相手のものとして見ているか。

相手の欲望を、自分の都合で読んでいないか。

自分の寂しさや不満を、相手の義務に変えていないか。

そして、相手が何を求めているのかを、ちゃんと聞こうとしているか。

セックスは、愛情の証明である前に、身体を持った相手との共同作業なのだと思う。

だからこそ、そこに必要なのは、ドキドキだけではない。

もっと地味で、もっと切実で、もっと生活に根ざしたもの。

擦り合わせと、想像力。

大切なのは、それなのだと思う。

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