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欲しかった愛と、渡せる愛。

雨の日だったのよ。

団地の窓に細い雨がついてねぇ。

ベランダの物干し竿から、ぽたり、ぽたりって雫が落ちてたの。

洗濯物なんて乾くわけないのに、なかなか取り込む気にもなれなくてねぇ。

お茶を淹れて窓際に座ったの。

こういう日は昔のことを思い出すわ。

人間って不思議ねぇ。

昨日の晩ご飯は怪しいのに、何十年も前の会話は急に帰ってくるんだから。

昔、スナックで働いてた頃の話よ。

その女はねぇ。

雨の日によく来る人だったの。

派手じゃないのよ。

でも綺麗だったわ。

若い頃はきっともっと綺麗だったんでしょうねぇ。

そういう面影が残ってる人。

いつもカウンターの端に座ってね。

焼酎の水割りをゆっくり飲むの。

お酒を飲みに来てるというより、考え事をしに来てるみたいな飲み方だったわ。

その日も雨だったのよ。

店のドアが開いて、濡れた傘を畳みながら入ってきたの。

肩のあたりが少し濡れててね。

「やだわぁ、降ってきちゃった」

なんて笑ってたけど、なんだかその日は疲れて見えたの。

氷を入れたグラスを置いたら、しばらく黙ってたわ。

カラン。

氷だけが鳴るのよ。

それでねぇ。

急に言ったの。

「10年前に別れた人から、たまに連絡が来るんです」

って。

10年よ。

やだもう。

味噌だってもう少し早く処分するわよ。

でもその人は笑わなかった。

グラスを見たままなの。

指で水滴をなぞりながらね。

「忘れられないって言うんです」

って。

それから少しずつ話してくれたわ。

長く一緒に暮らしたこと。

本当に好きだったこと。

結婚したかったこと。

子どもが欲しかったこと。

未来の話をすると嬉しかったこと。

でもね。

相手は違ったらしいのよ。

結婚の話になると黙る。

将来の話になると話題を変える。

嫌がるわけじゃない。

怒るわけでもない。

ただ、どこか遠くへ行っちゃうの。

それが何年も続いたんだって。

「別れる時もね」

って彼女は言ったの。

「嫌いになったわけじゃなかったんです」

って。

その時ねぇ。

笑ったのよ。

でも幸せそうな笑いじゃなかった。

泣くのを我慢してる人の笑い方だったわ。

人間ってあるでしょう。

泣く代わりに笑う時。

あれよ。

それからグラスを握ったまま、小さな声で言ったの。

「好きなまま離れたんです」

って。

店の中は騒がしかったのよ。

常連のおじさんたちはカラオケ歌ってたし。

酔っ払いは大声出してたし。

氷も鳴ってた。

でもその言葉だけ妙にはっきり聞こえたわ。

好きなまま離れた。

あれはねぇ。

たぶん嫌いになるより苦しいのよ。

それから何年も経って、その男が言ったらしいの。

「こんなに愛してくれた人は君しかいない」

って。

聞いた時ね。

あたし、

グラスを拭きながら思ったのよ。

あぁ。

この人たち、

同じ恋をしてたようで、

違うものを見てたのかもしれないねぇって。

だってね。

男が話してるのは、

ずっと自分の気持ちなの。

忘れられない。

会いたい。

愛してくれた。

全部ね。

でも女が欲しかったのは、

たぶん、

結婚しよう。

一緒に生きよう。

家族になろう。

そういう言葉だったんじゃないかしら。

好きって言われなかったわけじゃない。

愛されてなかったわけでもない。

でも寂しかった。

隣にいるのに、ずっとひとりだったのよ。

その女ね。

帰る前に言ったの。

伝票を見ながら。

ほんとに独り言みたいに。

「彼は悪い人じゃなかったんです」

って。

それから少し黙って、

「だから苦しかったんです」

って。

あの言葉、

今でも残ってるわ。

悪い人なら離れやすいのよ。

でも本当に苦しいのは、

好きなまま離れること。

理解したから離れることなの。

死んだじいさんなんかねぇ。

愛してるなんて一回も言わなかったわよ。

ほんとに。

口下手だったし。

頑固だったし。

でも冬になると、

あたしの布団だけ先に温めてた。

灯油が切れる前に買いに行ってた。

腰が痛い日は黙って風呂掃除してた。

そういう人だったの。

今になって思うのよ。

愛って、

「忘れられない」

より、

「今日は寒いから早く帰りな」

の方に住んでるのかもしれないねぇ。

まぁ。

そんなこと考えてたら、雨の中に出しっぱなしだった洗濯物を思い出したのよ。

愛の話は分かるのに、洗濯物は毎回忘れるの。

人間って不便ねぇ。

#創作大賞2026 #エッセイ部門

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