「新しい人」―未来のためにできること
きっかけは大江健三郎の訃報だった。
還暦で教職を定年退職し、その後、縁あって東京から移り住んでいた鎌倉市で文化担当の責務を担っていた。
50歳を迎えた頃、自分自身には教員の経験・世界しかない、とその狭量を顧みて、しばらく呻吟していた。たまたまその時期募集のあったweb新聞文化欄担当に手を挙げ、映画・演劇等のレビュー執筆によって、未知の畠を耕し始めることになった。それ以降、活動範囲が思っていた以上に広がった。定年後の第二の人生として教職以外の道が拓けたのは、十年間ささやかながら継続させた新たな経験を堆積させた結実と受け止め、市職員としての責務に精勤した。
第二の人生で与えられた使命を完遂するにあたり、引き続き周辺分野での責務を模索していた。せっかく拡がった世界での経験値を引き続き積み増しすることで獲得できることへの期待感が大きかった。ちょうど、その時だった。大江健三郎、老衰により死去の報が内外に大きく報じられた。
大江健三郎は、十代からずっと憧れ、私淑していた個人的に最も重要な作家である。30歳になるとき大学研究者への将来に見切りをつけ、公立高校での教職を選択した。そこから定年まで教えることに邁進した。常に自らの中軸に据えたのは、大江健三郎に教えられた「発願」と「新しい人」という二つの語であった。
定年退職の日には、100人を超える教え子たちが拙宅に参集し、賑やかに職を全うしたことを祝ってくれた。教職は、自分なりに完結しえたとの思いが大きかった。
その教員人生の支えとした大江健三郎の喪失は余りに内的打撃大きく、悲痛は日々沈潜するばかりだった。実人生で、第二の人生と重く受け止め向き合い続けていたその特命・使命を終えようとしていたそうしたタイミングの妙であったのかも知れない。ある日突然大江健三郎の「新しい人」という声が聞こえた。
世相混乱し、未来がいつしか見えにくくなってしまっている今、この現況を打破する人材の育成こそ重要なのでないか。どんな困難な時代になろうとも、それを革新する「新しい人」が必ず現れる。大江健三郎はそう言っていた。
再び教育現場に復帰し、「新しい人」となる可能性を有する者たちと時空を共有すること。それこそが名もない自分自身が「未来のためにできること」と思い至り、悲しみから脱して、今、日々彼らにエールを送り続けている。

