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憑 狂 ~ツキクルウ~ Ⅲ

 百合子の住まいは高級そうなマンションだった。大基のアパートとは比べ物にならない。オートロックのガラス扉をくぐると、エントランスには来客との接見用だろう、座り心地の良さそうなソファとローテーブルが置いてある。掃除も行き届いていて、床には塵一つなくピカピカに輝いている。
 間接照明でいつまで乗っていても苦にならなそうな、居心地の良いエレベーターで三階に上がる。通路にはドアが三つしかない。

「ほんとうにありがとう。重かったでしょう? どうぞ、上がって」

 ドアを大きく開けてくれた百合子の脇を通り、玄関に足を踏み入れる。

「どこに置けば?」

「突き当たりの部屋まで持って行ってもらえるかしら?」

 靴を脱ぎ、荷物を肩にかついだまま部屋に上がる。
 玄関からすぐ、廊下をはさんで左に洗面所。右は和室だろう、襖が閉まっている。整頓された広いダイニングキッチンを通って、奥の洋間に入る。
 ここが百合子の部屋なのだと、すぐに分かった。この部屋もやはり、大基の部屋と同じように筆やら絵の具やらスケッチブックやらであふれている。片付き方は格段に違うが。
 部屋の中央に置いてある大きめのイーゼルに、運んできた荷物を立てかけた。

「今、コーヒーをいれるから、休んでいってね」

 台所で水音をさせながら、百合子が声をかけた。

「あ、どうぞ、おかまいなく」

 そう答えて帰ろうと動きかけたとき、壁にかかった小さな額が目に入った。思わず動きが止まる。

 橋田坂下はしだばんげの絵だ。

 はしだばんげ。
 どちらが苗字か名かわからない雅号のこの画家の絵を、大基はもっとも愛している。
 もともとは日本画が専門の作家だったのだが、最近は油画の作品で人気がある。狂気の画家と呼ばれ奇行で有名だが、その画風は繊細で優雅だ。
 そうだ、何故、気付かなかったんだろう。
 百合子はまるで、橋田坂下が描く美人が絵から抜け出して来たようじゃないか。まるっきり、生き写しではないか。

 大基はぎこちない動きで絵から目を引き剥がすと、転がりだしそうな勢いで、どたどたと足音を鳴らし台所に駆け込んだ。百合子がびっくりして目を丸くする。

「ゆ、ゆりこさん。は、は、はしだ、ば、ばんげの……」

 どもりながら、なかなか二の句が継げない大基に、百合子は微笑んで答える。

「ああ、やっぱり。大ちゃんは橋田先生の絵が好きなのね。大ちゃんの絵を見て、そうじゃないかと思っていたの」

「あ、あの、絵……」

 震える指で奥の部屋の壁をさし示す。

「あの絵は、大学進学のお祝いに、先生がくださったの。私、中学生の頃から先生のところでアルバイトしていたから」

「……モデル、ですね」

 百合子は微笑み、うなずくと、手にしたメッツナーのマグカップを食卓に置く。

「こんなカップでごめんなさい。手狭なもので、なかなか物が揃えられなくて。どうぞ、召し上がれ」

 大基はうながされるまま椅子に座り、マグカップを両手で掴んだが、
視線は百合子に注がれたままだ。カップが熱いのか冷たいのか、そんなこともわからないほど、大基は興奮していた。

「は、橋田画伯は製作中、誰も、アトリエには入れないって……」

 百合子はコーヒーを注いだ湯飲み茶碗をかかえて椅子にきちんと座ってから答える。

「そうなの。だから先生が絵を描いている間は、私と先生、二人きり」

 正面から大基の目を見て、にっこり笑う。

「でもそれは私が人に見られるのが恥ずかしくて、先生にお願いしたからなの。よかったら、大ちゃんが見学できるように、頼んでみましょうか?」


 突然、舞い込んだ幸運に、大基は呆然としたまま数日を過ごした。
 おかげで牧田の講義の単位は落としてしまったが、そんなことは苦にもならない。

 橋田坂下の制作工程を見ることが出来る。どんなメディアにも、有名画廊にも非公開の秘密を垣間見られるのだ。

 大基が絵の道を志したのは小学生の頃のこと。夏休みの自由研究のために初めて訪れた美術館で、橋田坂下の絵を目にした時だった。

 双幅の掛け軸だった。
 一幅には所せましと居並ぶ天人天女が無数に描かれ、もう一幅には今にも血の臭いが立ち上りそうな地獄絵図が描かれていた。
 それまで絵画とは美しいものを、お行儀良く描くものだと思っていた大基は、地獄絵図の汚らしさ、凄まじさに衝撃を受けた。

 痛み、苦しみ、吐き気、後悔、臭気、快楽、憎悪、怒号。
 地獄絵図からは、ありとあるすべての苦しみと対峙するしかない、生あるものの悲しみが、見えない炎となって立ち昇り、掛け軸自身をごうごうと燃やしているかのように見えた。手を触れれば、その炎に骨まで燃やされそうだった。

 対する天上の絵は、ただ気高く、厳しく、香り高く、何ものをも寄せ付けない、ゆるしも慈悲も与えない冷徹さを持っていた。

 こんな絵が描けるなら、死んでもいい。

 それ以来、大基は紙の前に座り続け目に映るあらゆるものを描いてきた。
 しかし描いても描いても、紙の上にあるものは、モノの絵以外の何ものでもなく、臭いを感じ、熱を帯びることは一度たりとも無かった。

 ある時期から、橋田坂下は美人画だけを描くようになった。日本画を捨て、油画に転向した。
 天女であったり、娼婦であったり、子供であったり、大人であったりしたが、その美人はすべて一人の女性をモデルとしている事は一目瞭然だったし、有名だった。

 奇矯な行いと奇抜な画風で、熱狂的なファンはいても一般に知られていなかった橋田坂下の評価は、美人画のおかげでうなぎのぼりだった。橋田の弟が経営する画廊が市内の一等地に居を移したのも、ひとえに美人画のおかげだと言われている。
 幸運の女神だと言って、橋田の美人画を買い求める人も多いという。


 アパートに遊びに来たさゆみに、靴を脱ぐ暇も与えず、大基は事の顛末を話して聞かせた。

「ね、すごくない? オレが百合子さんの弟に似てたってのも運命かもしれない」

「ふーん。良かったじゃない」

 さゆみはそう答えると、きびすを返し、帰ろうとする。

「ちょっと、何だよ、それ。何むくれてるんだよ」

 笑顔を隠せず、ゆるんだ顔のまま、さゆみの肩に手をかけたが、さゆみはバシっと音がするほど強く大基の手を振りほどいた。

「よかったじゃない美人とお知り合いになれて、憧れの画家に会えて! ついでに就職先も、百合子さんとやらに斡旋してもらえばいいんだわ! 馬鹿!」

 怒鳴ると、さゆみは走って玄関を出て行ってしまう。

「おい、さゆみ?」

 玄関から首を突き出して呼びかけたが、さゆみは振り向きもせずに走って行った。

「なんだ、あいつ……」

 大基は首をかしげたが深くは考えず、部屋にもどって自分の妄想に没頭した。
 橋田画伯に会ったら、どんなことを話そうか? 色々質問したら失礼だろうか? とりとめもなく考えていると玄関が開き、人の足音がした。
 さゆみが戻ってきたんだろうと思って廊下をのぞいたが、誰もいない。

「あれ? 空耳?」

 玄関へ立って行き、開けっぱなしだった鍵をかけた。

 大基の幸運の女神から、橋田坂下のアトリエを見学する許可が取れたと連絡があったのは、それから一週間ほど後のことだった。大基は幸せのあまり眩暈を感じた。

 ただし訪問日程は、夏休みが終わってから。九月初旬が都合が良いと言われた。大基は橋田坂下に会えるならいつでも大歓迎と気安く返事をした。

 しかし日にちが経つにつれ、これから一ヵ月半も待ちぼうけなんて苦行のようだと思うようになった。憧れの画家に会える期待とルーティンワークのつまらなさの落差に、平衡感覚がついていけていないようで、しばしば眩暈を感じる。

 倒れるほどではないので放っているが、さゆみにでも知られたら「病院へ行け!」と命令されてしまう。
 大基は医者がこの世で三番目に怖い。なんとか、さゆみにばれないように健康なフリを続け、夏休みをむかえた。

「もう! またゴロゴロしてる! 補講にも出ないで!」

 部屋に入ってくるなり怒るさゆみの方へ、ベッドの上の大基はゆったりと寝返りをうった。

「よ。いらっしゃあい」

「牧田先生、怒ってたよ。このまま補習受けなかったら、後期の単位もやらんから、そう思えって。伝言」

 有頂天に浮かれていたためか、大基の前期試験の結果は酷いものだった。しかし夏休みに入った、これであと一ヶ月待てば橋田坂下に会える。
 大基は笑いがこみ上げるのを堪えきれず終始ニヤニヤしている。あまり外でニヤニヤしていると怪しいヤツだと通報されかねないので、大基は毎日アパートに篭って過ごしていた。

「なんだ、さゆみ、学校行ってるの。夏休みなのにごくろうさま」

 手枕でノンビリと言う大基の言葉に、さゆみの目が吊りあがる。肩にかけたカバンから書類を取り出すと、大基の顔の上に投げつけた。

「あいた。何するんだよお」

「ほんとに! どこまで寝とぼければ気がすむわけ! 文書修復口座の申し込み、今日だってば! 受けるんでしょ!」

「ああ……。忘れてた。なんか、もう、いいかなあ」

 さゆみの目はほとんど三角形になるほど吊りあがり「バカ!」と叫ぶと、ミシミシと足音高く廊下を歩き、出て行ってしまった。

「カッカしちゃって……。ますます暑くなるぞ」

 大基は一人ごちて、ごろんと寝返った。

 数日すると、さゆみの怒りは消えたようで、大基の部屋にやって来ては海に行こうよ、山に行こうよ、どこか行こうよと大基の腕を揺する。
 その言葉が聞こえているのかいないのか、大基がニヤケ顔でただ頭をなでてやると、さゆみは頬をふくらませて帰って行く。そして三日とあけずに、またやって来ては同じ事を繰り返し続けている。

 大基はさゆみの言葉にかまわずニヤニヤダラダラし通した。前期の単位をいくつか落としたのに補習講義にもまったく出ない。そんなことも気にならないほどに夢見心地だった。

 だが、一日中部屋にいると今まで気付かなかった近隣の音が気にはなった。
 とくに上階の住人は子供でもいるのか、朝から晩まで時を選ばず、ぱたぱたぱたぱたと足音を響かせている。ニヤけているから良かったものの、もし暑さでイライラしている隣人であれば、刃傷沙汰になったかもしれないな、とニヤニヤしながら考えていた。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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