「私」が考える「差別意識」
今回、13ページ目では、下記の記事で「私」が使った「癲狂院ーてんきょういんー」という言葉について、お話ししていこうと思います。
「私」は双極性障害という病気を持っていて、世間的な立場としては「社会的弱者」であり、または「差別」の対象にもなってしまう人間です。
「私」についてはこちらのページで綴っています。
「私」は差別の対象になる可能性がある人間。それは、これまでの人生で十分に実感させられた事実です。
その「私」が、あえて差別用語とされる「癲狂院ーてんきょういんー」を使った理由は、今からお話ししていくことが理由です。
差別用語である「癲狂院ーてんきょういんー」とは
まずは「癲狂院ーてんきょういんー」という言葉について、お話ししていこうと思います。「癲狂院」とは、今で言う「精神科」を指す言葉です。
現代ではうつ病などの存在は少しずつ認知され、それに理解を示してくれる人もいますが、その一方で「根気がないからだ」「甘えている」と言う人も確かにいます。
「癲狂院」というのは、差別用語です。
「私」もこんなことを、当事者である「私」自身が綴るのは辛いことではありますが、当事者であるからこそ、あえてハッキリとお伝えします。
辞書で「癲狂院ーてんきょういんー」という言葉を調べると「精神病院」とでます。しかし「私」のような精神障害を抱える人たちを「頭がおかしい」だとか「気が狂っている」などと断じて、本来ならば「病院」という、病気になれば誰でも通うであろう場所である「癲狂院ーてんきょういんー」を、蔑(さげす)みや差別の意味を込めて呼ぶ人たちがいました。
現代において「癲狂院」などという言葉を使う人はいないでしょうが「精神科」という言葉を、先に記した通り、蔑(さげす)みや差別の意味を込めて使う人もいます。それこそ「癲狂院」のように、差別用語として扱っている人が一定数いるのです。
そして、現代において、しかも精神科に通い、双極性障害の治療を受けている「私」が、あえて「癲狂院ーてんきょういんー」などという言葉を使ったのには、ある種の「こだわり」があるからです。
「当事者」であるというのに、なぜわざわざ「差別用語」を使ったのか?
その背景を、きちんとお伝えしなければ「私」が本当にお伝えしたいことも伝わりませんよね。ですから、どうかこのまま「私」の話をお聞きください。
実の祖母が「私」にぶつけた「癲狂院に入ればいい」
「私」は3歳の時に母・ママを亡くし、父であるパパの実家で祖父母、パパと私の4人で暮らすことになりました。こちらの記事の『幼い日の「私」』で少し触れています。
「私」は、祖母のことを「家族」であると思ったことはありません。
これについても同記事の『「私」を最初に「おかわいそう」にした人』で綴っていますが「私」は、ある時から祖母と不仲になっていきました。
祖母と不仲になり、「私」と祖母は何かと衝突しては、あちらから罵られ、けれども気が強く短気な質だった「私」も黙ってはいませんから、お互いに罵声を浴びせ合うことになりました。
祖父・おじいちゃんが仲裁に入ると、まず私に注意したことも、ますます「私」が祖母を嫌う原因でした。大好きなおじいちゃんが祖母に責められているのを見て「私」が我慢ならずに祖母に反抗する、というのが大体の流れだったので、背後から撃たれる、裏切られるとは全く思っていなかったのです。
今となれば、それしか場を収める方法がなかったのだと理解はできますが、今でも納得できない部分があるので、まだ小学生、中学生、高校生だった「私」では、なおさらです。
ある時、いつものように祖母と言い合っていました。そして、その頃には精神科に通うようになっていた「私」に、祖母が「癲狂院に入ればいい」と怒鳴り散らしました。意味は分からずとも、祖母のことだから良い意味の言葉ではないとは察したので、その場がとりあえずは収まった後、言葉の意味を調べました。
パパやおじいちゃんは、私が精神科に通うことを、病気の治療のためだと、常に「病院にかかる」と言っていましたが、祖母はわざわざ「癲狂院に入ればいい」という言葉を「私」に投げました。意味が分かれば、それは「私」を貶(おとし)め「私」を傷つけようとして言ったのだと分かります。ですが、身内であるはずの祖母が「頭がおかしい」「気が狂っている」と実の孫にぶつけたのだとは、いくら私が祖母を嫌っていたとしても、思いつきもしませんでした。
要するに「私」は結局のところ、傷ついたのです。
それと同時に「人とは違うこと」に対して激しい劣等感を覚え、そうした差別意識を持っている人は他にもいるのだろうなと、どこかで受け入れてしまいました。いくら不仲であろうとも、身内ですらそうした言葉を使うのだから、赤の他人ならばどうだろうか?と思った時、差別をする人はいない、とは思えなかったからです。
「私」がなぜ、実の祖母と不仲になっていったのか?それは、祖母の言動や行いを見ていて「私」が疑問を持つようになったからです。
これについてはまた、落ち着いてお話ししたいと思います。
「私」は、もうこの世にはいないとしても、ずっと祖母のことを嫌い続けているせいか、つい感情的になってしまいます。それでは、うまくお伝えすることができないだろうと思うので、それはまたの機会に。
当事者である「私」が、あえて「癲狂院」を使う理由
実の祖母が、血の繋がっているはずの祖母が「私」を傷つけようと、わざわざ「癲狂院ーてんきょういんー」などという言葉を使った。
祖母がそういう人間だっただけだろうと言われてしまえば、確かにそうでしょう。しかし、孫に対してまで差別用語を使うのであれば、祖母はこれが他人であったならどうしたのか?想像にかたくありません。
そして、差別言葉である「癲狂院ーてんきょういんー」を投げつけられた「私」は、当事者であるからこそ、いくら嫌っている祖母が相手だったとしても傷つきました。激しいショックを受けました。そして、精神障害に対して世間からの風当たりが強い、ということは理解していましたから、祖母のように「私」を「頭がおかしい」と断じて、そうしたレッテルを貼る人もいるだろうことを「癲狂院」という言葉によって再認識させられたのです。当事者であるからこそ、傷つきました。差別されている、差別される可能性があるのだと、強く感じました。
だからこそ「私」は、この記事の冒頭にもリンクを貼った記事において「癲狂院」という言葉を避けませんでした。
「癲狂院」という言葉が「差別用語」であることを理解していながら、当事者でありながら、この言葉を使ったのです。
確かに、精神障がい者であることは「一般的」には「普通」から外れるのでしょう。しかし、それイコール「おかしい」とまとめる方が、よほど「おかしい」のでは?と、当事者であるからこそ「私」は思います。
よく言われる「一般的に」「普通は」というのは、一体誰が決めたことでしょうか。
この『「つらい」を他人にゆだねない』という記事で、私は「感じ方は人それぞれである」ということ「考えること」について綴りました。
多数決の結果、右に倣(なら)えの結果で「一般的」「普通」という言葉で、何もかもを一括りにするのでは、誰かに寄り添うこともできなければ、自分に寄り添ってもらえることもないと「私」は思います。
考えることを放棄しないでもらいたい。
だからこそ「当事者」である「私」は、あえて「癲狂院ーてんきょういんー」という言葉を使いました。
「私」のような経験をしてしまう人が、どうかいなくなってほしい。人を傷つけるために憎まれる人が、どうかいなくなってほしい。
「私」が伝えたいことは、多数決、右に倣(なら)えの結果というだけの「普通」が当たり前の世の中では、誰もが傷つく可能性があるのだということです。
だから「私」は「普通」に抗(あらが)おうと思うのです。
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