「つらい」を他人にゆだねない
ふとした瞬間、浮かんだ疑問
5ページ目の今回は、今日、私がふと疑問に思ったことについて綴っていきます。
「私」は何かにつけて考えずにはいられない質なのか、一度「どうして?」と感じると、自分なりの答えを出せるまで、延々と同じことを頭の中でリピートすることがやめられません。
そして、今日「どうして?」と思ったのは「つらいと言った時、それを否定されることがあるのはなぜ?」ということです。
「私」が考える「人間」という生き物
まず、私の疑問はちょこんと隅に寄せます。
私たち人間には、理性という機能が備わっています。そして、これによって振る舞いが決まるというのが「私」の考えです。
たとえば、話すには言葉を使います。言葉を知らなければ、他人との意思疎通はむずかしいでしょう。この時、私たちは考えているはずです。話す内容、その内容が相手に伝わるような言葉は何か、聞いている相手のリアクションはどんなものか……などなどです。話す、というたった一つの行動だけでも、考える材料はたくさんあります。つまり、何かをするという行動そのものに、理性という名の考える力が大きく関わっているのではないかと思うのです。
人間は理性の他に、感性というものも持っています。心で感じることが得意な人のことは、よく「感受性が豊か」というように表現されていますよね。何かを感じることが得意な人は、理性と同じように人間に備わっている機能・感性が磨かれている人だと「私」は思います。
次は、その感性について、もっとよく考えていこうと思います。
「個」である以上「在り方」は一つじゃない
あなたと、あなた以外の誰か(家族でもお友達でも、誰でもいいです)二人の目の前に、一枚の絵があるとします。笑顔を浮かべている女の子の絵です。あなたと一緒にその絵を見ている人は、その絵を見て「なんだか悲しそうだな」と言いました。
「あなた」はその絵について、どう思うでしょうか?考えてみてください。
答えは出たでしょうか?
けれど、どんな答えでも間違いなんてものはありえません。答えは一つではないし、一つだという方がよっぽど不自然です。「あなた」も「あなたと一緒に絵を見た人」も、そして「私」も同じ人間です。けれど、全部が全部同じというわけではありません。「あなた」にはあなたの感性のかたちがあり「あなた以外の人」にはその人の感性のかたちがあり、そして「私」にも「私」のかたちをした感性があります。それぞれ、違ったかたちをしているのです。
それはどうしてか?
私が最初の1ページ目でお話ししたように、全員が過去にも現在にも未来にも、世界にたった一人しかいない「個」だからです。
笑顔を浮かべている女の子の絵を見て、あなた以外の誰かは「悲しそうだ」と感じました。けれど、あなたは「嬉しそうだな」と感じました。「私」も、きっと違う感想を口にするでしょう。ここで少し複雑なのは、同じ「悲しい」「嬉しい」という言葉を使ったとしても、その感じ方は全く同じとは言えないところです。そして、それが「個」の面白いところであると「私」は思います。
つまり、あなたは「あなた」という存在で「あなた以外の誰か」も「私」も、それぞれが違う「個」ですから、同じ言葉を使ったとしても、全く同じように感じているとは限りません。むしろ、違うはずです。違っているからこそ、同じ言葉を使っていても、伝わらないことがあるのです。
つらさは「あなた」にしか分からない
一番初めの「私」の疑問を、よっこいせと真ん中に戻してあげてください。
何かが起きた時、人は「つらい」と口にすることがあります。私は卑屈な人間であると同時に(それゆえに、かもしれません)気にしいでもあるので、この「つらい」という言葉を当てはめるようなことはしょっちゅうです。今朝も、大の親友に「気にしすぎ」と言われました。多分、一日に一回は誰かしらに言われているんじゃないかと思います。
卑屈で気にしいな私は、ちょっとしたことでも考えすぎて、その考えすぎによって余計に自分を苦しめてしまいます。そして「つらい」と口にした時、人によっては「そんな大したことないじゃん、大袈裟に言いすぎ」と考える人もいるし、過去、そう言われたことも実際にあります。けれど、これについて今回こうしてよく考えてみたら、それは当たり前のことだと「私」は思いました。「私」と「その人」は別々の「個」だからです。
反対のことも起こりえます。もしも、誰かが「つらい」と口にした時、あなたは「そのくらいのことで……」と思うかもしれません。
「私」は、その考えが間違っているとは思いません。ただ、大切なのは、私たちは同じ人間同士であっても、それぞれ全く別々の「個」であることを忘れないことではないか?というのが「私」の疑問に対する「私」の答えです。
365日、毎日毎日「絶好調!」という人はいないし、誰だって「つらい」と思う出来事に直面するシーンは必ず訪れるはずです。その「つらい」を誰かに打ち明けた時、もしも否定されたとして、気落ちする必要はありません。いや、こう書いている「私」がそれを実践できるのかというと、即答はできないのが現状ですが。
けれど、仕方ないのです。それぞれが違う「個」なのですから。
ここで気をつけたいのは、誰かに「あなた」の「つらい」を否定された時、それを鵜呑みにしないということ。「あなた」の「つらい」は「あなた」だけのものです。他人の感性で考えられた答えを「あなた」という「個」の答えにする必要はないのです。もちろん「私」の感性でこうして綴っている考えも「私」という「個」の答えです。
「あなた」の「つらい」はあなたの感性で考えられた「あなた」の心の答えです。
その答えを、全く別の「個」である他人の感性で考えられた答えに合わせて「間違い」にする必要はない。だから私も「私」という「個」の「つらい」を、別の「個」の誰かの言葉によって左右されることはないんじゃないだろうか?と思います。
さて、今日の「私」の感性によって考えられた「つらいと言った時、それを否定されることがあるのはなぜ?」の答えはこれです。けれど、明日の「私」がもう一度この疑問を考えたとしたら、どんな感性でどう考え、何を答えとするでしょうか?
こうやって、私は「私」という「個」を深めて、極めていけたらいいなと思います。
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それでは、5ページ目はこれでおーわり!
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