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「結局のところ、自己中でいいじゃん」

「私」はとても気にしいで心配性、そして双極性障害という病気を抱えていることで、余計に卑屈な気持ちになって、内に内に……と向かっていったところ、気づけばドン底にまで辿り着いてしまった……なんてことは、しょっちゅうあります。

▼「私」について

この「気にしい」「心配性」「卑屈屋」という要素が、何らかでブワッと大きくなってしまうと「私なんて……」とエンエンし始めて、周りからのどんな励ましの言葉も、素直に受け止めることができなくなってしまいます。

要するに、他人の顔色を窺(うかが)って「相手に不快な思いをさせないようにしよう」と思うあまり、先回り先回りした結果、それが自分の首を絞めているのです。

これについて、人の力を借りつつも、最近思ったこと。

それが「結局のところ、自己中でいいじゃん!」です。

どうしてこの結論に至ったのか?今回はこのお話をしていこうと思います。

「空気を読む」は「言葉を飲む」

いつの間にか定着して、いつの間にか「そうすることが当たり前」というような世の中になったんじゃないかなぁ?と思う代表格だと思うのが「空気を読む」です。

この「空気を読む」とは「場の雰囲気に合わせて、発言や行動する」ということだろうと思います。少なくとも「私」はそう捉えて「私」なりに空気を読んで生きてきました。まぁ、その方が角が立たないとか、最終的には丸く収まってめでたしめでたし……という場面があることは、誰しもが一度は経験したことがあるのではないかな、と思います。

ですが、場の雰囲気に合わせて、発言や行動をするということは、本当に思っていること・感じていることを内に秘めているわけなので「空気を読む」とは「言葉を飲む」ということと、イコールではないでしょうか?

もちろん「言葉を飲む」ことが必要な場面はありますから、いつでも思ったこと・感じたことをそのままに口に出していい、ということではありません。言葉は使い手によって、その力の表し方を変えるからです。悪意を込めれば「人を傷つけるもの」になりますし、反対に優しさや愛情を込めれば「人を幸せにするもの」になります。

ノリおじちゃんという自由人

さて「私」が今回のタイトルのように考えたのには「ノリおじちゃん」が関わっています。ノリおじちゃんはママの弟、つまり私のおじさんです。

私のことをよく可愛がってくれていて、私も頼りになるノリおじちゃんのことが大好きです。博識でなんでもできるノリおじちゃんは「私」にとって「なんでも屋さん」「困った時の駆け込み寺」的な存在ですが……この人も、まぁ変わっています。

▼ノリおじちゃんは、こちらの登場人物紹介にも載っています。

このノリおじちゃん、どこが変わってるかって、多角的に物事を見る能力にあまりにも優れていて、人が気づかない点から生み出した持論を徹底的に守って突き進むエネルギーと、人からの批判にまっっっったくダメージを負わない「何製なのか分からんが、とにかく割れないどころか傷一つつかん!!!!」という心の持ち主であること。

そこで私は、登場人物紹介の記事にて、ノリおじちゃんのことを以下のように書きました。

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すると、すぐさま苦情のLINEが入りました。

※パァのステッカーは「私」の本名なので隠させてくださいね。

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ノリおじちゃん自身は「色んなものに縛られてるから、そんなふうに言われるのは心外!悲しい!」ということだったようですが、ズケズケと、キッパリと、バサッと痛快に人の意見をぶった斬るのがノリおじちゃん。「気にしい」「心配性」「卑屈屋」と三重苦の上、人の顔色を窺(うかが)ってばかりの「私」からすれば、十分に「自由人」です。

ですから「切羽詰まってる人よりいいじゃん!」と返したのですが……それに対する返事が「色んな事を考えて、ただ答えが他のひとと違うだけ」です。「私」はこれを受けて「やっぱりノリおじちゃんって変わってる」と思いました。

先に綴(つづ)ったように、ノリおじちゃんは多角的に物事を見る能力に優れているし、だからこそ、人が気づかない点から生み出した持論を持っている。そして、何パターンもの選択肢を作り、その結果、自分の出した答えを信じて徹底的に守り、突き進む。だからこそ、人からの批判にまっっっったくダメージを負わないんだなぁと「私」は感じました。

自分で考えて、自分で選んだ選択だからこそ、迷わない。

人から批判されたとしても、それも「自分」で考えて「自分」で選んだ選択だからこそ、ただ「それは違うよ」と人から言われても、まったく動じないのではないかと思います。

人によっては、こうした振る舞いをすると「空気が読めない人」と感じるかもしれないし「自己中心的な人」とも受け取れると思います。実際、ノリおじちゃんのかわいい姪っ子である私すら「身内じゃなかったら関わらないタイプだな!(おじちゃんごめんね!大好きだよ!)」なんて思うタイプなので、なおさら「敵」を作りやすいのではないかな?とすら考えました。

……が、生きやすさを重視する・自分という「個」を大切にする生き方ってどんな?という質問に対して、これは一つの答えになるのではないでしょうか?

「我慢」は「共感」ではない

何をもってして言っているのかは謎に包まれていますが、ノリおじちゃんは「まぁちゃんは賢い子だから」と、よく言います。「気にしい」「心配性」「卑屈屋」の「私」は、もちろん自分が賢いだなんて思ったことはありません。

けれど、ある時に「こういうことがあってね……」と、私の駆け込み寺でなんでも屋さんのノリおじちゃんに相談した際に、こう言われました。

「みんな、まぁちゃんみたいに色んなこと考えてないよ。まぁちゃんよりみーんなバカ。でも、おまえは賢いから、こうかな?ああかな?って想像しちゃうし、相手の真意を探ろうとするんだよ。気にすんな。それは、まぁちゃんが賢いからこその悩みだから」

ヒエーッ!と思いました。けれど「私」が賢いというのは、ノリおじちゃんなりのフォローだとして、つまりは「赤の他人を気にして、空気を読んで言葉を飲み込む=我慢することは、ただ自分を押し殺すだけのことであって、誰かに寄り添うための共感ではないってことかな?」と「私」はこの時、思いました。

確かに「空気を読む」ことは、場面によって必要とされるスキルでしょうし「私」も空気を読む=人の顔色を窺(うかが)って行動することは、しょっちゅうあります。

ですが、自分という「個」の魅力を解放するには「結局のところ、自己中でもいいじゃん。いや、むしろ自己中であるべきだな」と近頃は思うようになったのです。

▼「自分」の「在り方」について考えた記事はこちら

だからこそ「私」はノリおじちゃんを「自由人」だと思います。

もしも、ノリおじちゃんが「何も考えず、ただなんとなく流されているだけの人」なら「私」は登場人物紹介で「自己中な人」と書いたはずです。そうであれば、私は人に「うちのノリおじちゃんってすごいの!」なんて自慢できるはずもありません。

そして何より「私」が「自由人」と称するノリおじちゃんは、たくさんの人に愛されています。

それは、自分で考えて、自分で選んだ選択によって生きる。

このポリシーが、何も考えていないワガママ放題の「自己中」ではなく、自分で考えて選ぶことができる「自由さ」の表れであり、それがノリおじちゃんの魅力として輝いているからではないかな?と思うのです。

空気を読んで言葉を飲む前に、まずは問題に対する選択肢をいくつも出す。

それから選んだ答えが、他人と違ったとしても「自分で考えて選んだ」という強みがある分、心も強くいられるのではないでしょうか?

▼こんなことも書いてました!

「私」も「自由人」になれたらいいなぁ……なんて思いつつ、これからもノリおじちゃんという駆け込み寺での「ノリおじちゃん流カウンセリング」を受けていこうと思います。

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世の「普通」に抗う表現者>松本ゴッホちゃん(3歳) 私という「個」を応援してくださると嬉しいです。このnoteで行っていきたいあなたの「進化」のお手伝いにて、恩返しできればと思います。