「財務省/大蔵省解体」の歴史を振り返る:デモの意義を考えるために
昨年くらいから始まったんですかね、これ?
あんまり関心なかったんだけど、NHKとか大手新聞が取り上げるようになったし、一度書いてみようかと思った。
といっても、一応学者の端くれなんでね。エモーショナルに煽るようなことを書いてもしょうがない。
私は、デモというのは、民主主義社会の市民の権利だし、やりたい人はやればいいと思いますよ。そこにはなにかしらの民意があるのは間違いない。権力側はそれを受け止めねばならないと思う。
ただ、学者としては、ニュートラルな立場でいたい。学者が書くとすれば、財務省/大蔵省解体の動きの歴史かな。
財務省/大蔵省解体というのは、古くて新しいテーマだと思う。過去の歴史を振り返れば、みなさまがこのデモを評価する一助になればと思います。
それでは、どうぞよろしく。
大蔵省は、第二次世界大戦の敗戦で内務省や軍部が解体された後、「最強の官庁」の座についた。日本の民主化の一環として、財政・財政改革が実行された。GHQは「公債の発行による資金なくして近代戦の遂行は不可能だった」と分析した。国の財政を処理する権限を国会に移行した「国会中心主義」「財政の民主化」が打ち出された。
ここから、大蔵省は政治との闘いに悩むされ続けることになった。その中心は、政治が大蔵省から予算編成権を奪い取り、内閣にそれを移管すべきという主張「主計局分離論」との闘いだった。
「主計局分離論」が初めて浮上したのは、占領期にGHQによって、経済安定本部(安本)に予算編成権を移管する案が提案された時だった。
大蔵省が主計局を守りきれたのは、予算編成の専門性が必要とされたからだった。GHQは安本に、自前で複雑な予算編成をする専門家を確保できなかったので、大蔵省と共闘関係を築かざるを得なかった。
日本が独立を回復した後も、鳩山一郎内閣、池田勇人内閣の行政改革の主要テーマとして、主計局の内閣移管が浮上した。
河野一郎(河野太郎の祖父)、広川引禅、川島正次郎ら、「党人派政治家」と呼ばれた、官僚出身でないたたき上げの政治家が、大蔵省を攻撃した。
しかし、福田赳夫、野田卯一ら、大蔵省出身の政治家が、予算編成の専門性の必要性を訴え、大蔵省を守り切った。
高度経済成長期には、歳入が毎年増加し、政治の利益配分の要求に大蔵省が容易に応えられたので、「主計局分離論」は一旦沈静化したようにみえた。
端的にいえば、おカネが十分にあれば、みんな幸せなので、争いはなかったということだ。
しかし、高度経済成長が終焉し、歳入が少なくなり財政赤字に陥り、政治の予算分捕りが激しくなると「主計局分離論」は再燃し始めた。
70-80年代の鈴木善幸・中曽根康弘内閣の臨調では、「シーリング」という大蔵省の予算編成に制限をかける方法が導入された。だが、主計局自体を大蔵省から分離する議論は出なかった。
90年代に入り、バブル経済の処理や不良債権問題、スキャンダルで大蔵省への批判が高まり、橋本内閣では組織そのものを解体する「大蔵省解体論」が吹き荒れた。その中心は、政治改革で現れた「新党さきがけ」(現在の野党系の源流の1つ)などの新しい政治家だった。
橋本龍太郎内閣では、大蔵省が持つ広範な権限を解体する改革が取り組まれ、財政と金融の権限を分離する「大蔵省改革」が行われた。
現在の、財務省と金融庁への分離である。
そして、日銀の大蔵省からの独立も実現した。その他にも、金融ビッグバン、財政構造改革など、大蔵省の権限を削減する動きが続いた。
大蔵省は、これらの改革に積極的に取り組んだ。それは、改革が「主計局解体論」におよぶのを防ぐためだった。
結局、橋本行革でも、主計局の予算編成権に政治が手を付けることはなかった。
ただし、橋本内閣時の行革で「省庁再編」が断行されて内閣府が発足したことは重要だった。内閣府には「経済財政諮問会議」という会議体が設置され、小泉純一郎内閣で予算編成の「司令塔」として用いられた。
小泉内閣は、予算編成の一部を財務省主計局から奪取することに成功した。だが、財務省は、族議員を抑えて財政赤字の削減を実現するために経済財政諮問会議を利用した。小泉内閣と構造改革の実現で「共闘」関係を築いて予算編成権を守り切った。
民主党政権は、「国家戦略局」構想を打ち出した。経済財政諮問会議は内閣府内の会議体だった。一方、国家戦略局は国家戦略相という大臣をトップとしてより強力な権限を持つ「局」を設置して、予算編成権の掌握を狙った。
民主党政権は、「コンクリートから人へ」という国家のグランドデザインの変更を目指した。しかし、財源不足を解決できず、公約の実現に挫折した。むしろ、政権担当によって財政赤字の深刻さを理解し、財務省と協力して消費増税の実現に動くようになった。
安倍晋三政権は、90年代以降の行政改革で財務省の権限が弱体化したことを利用して「主計局分離論」とは違うアプローチをとった。
財務省からの独立を果たしていた日銀に直接国債の無制限の買取りを約束させる「アコード」を結んで、いくらでも国が借金できるような体制を築き、「アベノミクス」という異次元の金融・財政の拡大を可能にした。
「内閣人事局」の設置によって、首相官邸主導体制が一定の完成をみた。主計局を財務省に置いたまま、予算編成権そのものを掌握することが可能になった。
幹部官僚に対する人事権を行使し、財務省を直接掌握した。それは、「最強の官庁」だったはずの財務省の首相に対する「忖度」を生んだ。森友学園問題での「公文書書き換え」という深刻な問題も生むことになった。
また、安倍政権の「アベノミクス」は、その「大衆迎合的」なスタイルで、大蔵省/財務省解体論を新たな局面に移行させる効果があった。安倍首相自らが財務省を「悪」をみなして批判する姿勢を国民にみせたことで、国民が直接、財務省に対する怒りを募らせるようになったことだ。
その後、「増税メガネ」という言葉があった。岸田文雄首相の頃、主にネット界隈で呼ばれたあだ名だ。だが、岸田首相は増税を実行していない。所属税減税、住民税減税を打ち出し、消費増税も表明していない。それなのに「どうせ増税したいのだろう」と見透かされたようにあだ名にされた。
岸田首相の背後に、財務省がいると国民が思った。所得税・住民税の税率をいったん引き下げたが、いずれ大増税をする。岸田は財務省の言いなりだ。財務省の代弁者だと思う人が多かったということだ。
そして、今回の財務省デモである。
従来の大蔵省/財務省解体論というのは、業界や自民党支持者など特定の利益を代表する「族議員」が予算編成権を奪おうとすることから始まりで、それを苦々しく思った「改革派」の政治家が、財務省を叩くようになった。
財務省は、「族議員」と「改革派」の双方から挟撃されるようになった。ただ、予算編成権を政治が奪うことはできなかった。
私からみれば、それは財務省が「最強」で、国民から血税を吸い上げ続けているというよりは、予算編成権を守るために財務省に対する攻撃を緩めさせるために、政治家にカネを出し続けてきたようにみえる。一方、それをけしからんとする改革派からのまた攻撃されてきたと。
要は、大蔵省/財務省が政治の攻撃で弱体化していく歴史であったということ。その弱体化が決定的になったのは安倍政権の時。
ただ、それは永田町・霞が関の話であって、国民生活とは解離した世界で起こっていたことだった。財政出動も、特定の利益集団へのもので、国民に届くものではなかったからね。
ところが、政治が「大衆迎合化」することで、国民が直接「財務省解体」を叫ぶようになった。国民にまで下りてきたんだね。
それは、一部の極端な人たちがやっていることと思われていたが、どうも一般国民に広がりつつあると、NHKなど大手メディアが取り上げるに至っている。
こういうの、どこにいくんでしょうねえ?(笑)
今日は論評を避けますが、一応歴史を時系列的に整理しておくことも大事かなと思ったので、noteにしておきますわ。
それでは、またね。
