エッセイ ぎこちない道化を演じることについて①

 お笑い芸人の明石家さんまさんが、「お笑いは緊張と緩和」と言っているのを聞いたことがある。私も確かに、と思って日常生活で気の利いたことを言いたいと思った時に、どうにかこの金言を応用できないか考えたことがあったが、素人には全くマネのできないことだと思った。むしろその言葉を忘れていた方が、人生には笑いが生まれるのではないか。プロのお笑い芸人は話術や動き、その場のコントロールや心理などを巧みに操ることで笑いの打率をあげているのだと予想している。作為的に、ワザと笑いを生もうとした時から、人は「笑い」とか「おかしみ」から一定の距離を置いた、冷静な自分が存在することを知るのかもしれない。そう思うと、お笑い芸人という仕事は凄まじいものがある。

 「そこで考え出したのは、道化でした。
 それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。」太宰治『人間失格』

 私は太宰治の作品をほとんど読んだことが無い。恐らく教科書で読んだ『走れメロス』と『人間失格』の一部くらいである。もしかすると読んだことがあるかもしれないが、全く記憶に残っていない。テレビでも度々紹介されるし、日本文学の本やSNS、動画サイトでも紹介されているので、他も読んでみるかと思ったことは一度や二度ではないのだが、何故か手につかない。しかし、過去に教科書で読んだ一部分だけは強烈に印象に残っている。手記の語り手である葉蔵が家の者たちに道化として振る舞う所と、中学の同級生にワザと道化を演じているのを指摘される所の二か所である。

 「この作品は私のことを書いたものだ」そう思う人がいるらしい。気持ちはわかるが、そこまで断定したことは、私はない。作中人物になりたいと幾度も思ったことはあるから、五十歩百歩なのかもしれないが。太宰治の書く小説は「これは私だ」と思わせる魔力が強いらしく、私も一瞬そう思ってしまいそうになる。人との付き合いが苦手な人間が、何とかコミュニケーションをとるために笑いという手法を用いるのは、どうも珍しくないようだ(当時はもっと珍しかったのだろうか?)。

 小さい頃からお笑い番組が好きだった。吉本新喜劇が最低週一でテレビ放送されている地域で育ったのもあり、私が演者のボケにリアクションを取ると、母は「将来お笑い芸人になるの?」と笑っていた。私はすごく恥ずかしかったことを憶えている。お笑い番組で慣れていたこともあって、自分が道化になることに抵抗があまりなかった。今もそう変わりはないのだが、私は人とコミュニケーションを取ることが苦手で、幼稚園でも随分苦労していた。仲良くなりたいが、運動も勉強も容姿も不味く、引っ込み思案で不愛想。そのままの自分ではどうにも他の子どもたちと仲良くすることが出来ない。そこで私は道化を演じることにした。ワザと変な動きをすることで人を笑わせようとしたのである。

 相手が幼児だということで、その作戦は幾分か上手く行っていたし、私自身もまぁ、あの子たちが笑っているならいいかぐらいの気持ちで道化を演じていた。しかし、数日たったころ、幼稚園の先生に叱られたのである。詳細は正直憶えていないし、記憶の捏造があるかもしれない。

 「君がいいんだったらいいよ」と先生は言った。

 その言葉を聞いて私は一応自分から道化になることはやめた。叱られたということは理解していたのだ。しかし、その言葉の意味はわからなかった。今思うと先生だって、20代くらいだったろう。もしかすると、感情が先行したために私たちを叱ったのかもしれない。彼女の真意はもうわからない。

 自然な柔軟性《しなやかさ》のなかに出現する機械的な硬直性《こわばり》
(ベルクソン『笑い』P275 解説より 光文社古典新訳文庫)

 哲学者のベルクソンは笑いの本質は、生と機械の対比にあると考えていたようである。我々はぎこちない動きをしている人を見ると、何らかの感情を起こす。そして、その人と距離がある場合、「笑い」や「おかしみ」が生じてしまうことがあるらしい。

 そう思うと、幼稚園の先生は私のことを真剣に思って、叱ってくれたのかもしれない。道化を演じる私と距離のある他の子供たちは笑っていたのだから(幼稚園の子供に責任などは全くない)。あの若さで先生は道化を演じることの凄まじさと演じ続けることの苦労を知っていたのだろうか、と私は空想している。

 「君がいいんだったらいいよ」と先生は言ったのだから。

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 太宰治『人間失格』は青空文庫などで無料で読めたり、Amazonでもダウンロードできます。また、「この作品は私のことを書いたものだ」ということに関して『恥』という作品もあります。

 今回のエッセイを書くにあたってベルクソン『笑い』(光文社古典新訳文庫)を読み切ってから書こうと思っていたのですが、やはり哲学書(文芸評論と言った方が近いらしいですが)の難度は高く、最後まで読めませんでした。来週も『笑い』を読みながら何か「笑い」について書きたいと思います。


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