東海道を歩く「走り井餅」
山科から逢坂山へ向かう途中、生八つ橋の井筒で休憩。
駐車場では何故か「坂上田村麻呂」像と「中大兄皇子」像が、玄関前には走井があります。

ここは1階が生八つ橋「夕子」などを売る店舗で、試食がいっぱいできるので、時々寄るのです。「走り井餅」もここで売っています。
試食していると、お姉さん(年上)が お茶と生八つ橋セットを提供してくれました。

試食はできるし、2階では生八つ橋製造マシーンを見学できるし、大津算盤、大津絵、車石、針など追分地域の歴史に関する史料が展示してあり、なかなか楽しい施設ですよ。
最近広重の絵で「走井」を良く見ていたので、走井と走井餅について質問。
走井の本物はこの先の「月心寺」にあったとの事。
走井餅屋もそこにあったが、廃業して井筒さんが引き継いでここで売っているとの事です。

ここが月心寺か、おや?広重さんの絵と方向が違うぞ、

広重さんの絵では、右側が峠、という事は走井は北側にあります。(実際の月心寺は南側)
この付近の車道(「くるまみち」牛の曳く荷車が通る通路)は北側で一段下がった所にありました。広重さんの時代1797-1858は車石の整備1805の後なので、このような絵にはならないはず。
どうも色々な元ネタを組み合わせて描いた絵のように思われます。
先日も矢橋の渡しの挿絵を使おうとして広重さんの絵を引用しようとしましたが、どうも丸子船の姿ではなく海で使う船をそのまま書いているんですよね。現代と違ってそのへんは大らかだったと思いますので目くじらを立てる事ではないですが、史料として使えるかという点では広重さんの絵はちょっと・・・と思っています。

東光園 大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション
上の写真は大正7年発行のもので、
「広重の図の走井茶屋は大津の駅を西に離れて逢坂山に懸からんとするところに在りしが今はこの辺り東海道線及び京津電車の軌道を敷きて大いに面目を改め、茶屋の跡は写真の右手板塀の中に僅かに形見の礎を残せり。」
とキャプションがあります。
右側の線路が京津電車(大正元年開通)で左の線路が東海道線(明治13年開通)です。東海道線は大正10年に路線変更となりこの区間の線路は廃止されていますので、京津電車と東海道線が並走していた極めて短い時期の貴重な写真です。
なお当地においては、昭和6年から内務省が、時局匡救事業の一環として「京津国道改良工事」を実施しており、膠石コンクリート舗装の施工と共に京津電気鉄道の移設を行っています。

昭和8年は京都国道事務所写真
京津電気鉄道は南側から北側に移設されている。

このあたりの交通の変遷を概略すると以下のようになります。
1805文化2 :車道に車石を敷設
1880明治13 :東海道線開通
1911大正元年:京津電気鉄道開通
1921大正10 :東海道線廃止
1933昭和8 :京津国道改良工事
1963昭和38 :名神高速供用
さて広重さんの絵は、ほぼコラージュと断定して間違いないと思うのですが、この付近は車道が無く、月心寺の向いにも走井があって餅を売っていたという条件なら見て描いたという事もありえますが、無理っぽい。

おそらく元ネタになったのが、この絵で、土塀をめぐらした屋敷に茅葺屋根の店舗の組み合わせはかなり特徴的な物であり、そうそう何軒もあるような建物ではないでしょう。
ちなみに右下に描かれている崖は、人道と車道の間に設けられていた段差を表したものと思われますので、この点からも広重さんの絵は否定される訳です。

走井の中の様子です。
疑り深い性分なもので、この絵を見ると、後ろの滝からサイフォンで水を通してたんじゃないのか?と思ってしまいますが、渇水期でも涸れないと書いてあるので、正真正銘の自噴井戸だったのでしょう。
この辺りは谷間で水が集まりやすい地形ではありますので、地下に被圧帯水層があれば、自噴する井戸が有ってもおかしくはないですね。
実はこのあたりは今でも時々土砂崩れが起こり、国道1号が通行止めになるのです。その関係で地下に自噴井戸の条件を満たす地形が形成されているのかもしれません。

同じ本の車道の描かれ方です。牛車が通る車道は人道から一段下がった形で描かれています。(なお、この時はまだ車石は整備されていません。)この描かれ方からして、2つ前の絵の崖は車道との段差だと思う訳です。
本日はここまでです。
「走り井餅」と分家の石清水八幡宮「やわた走井餅」の話については、機会があればまた。
