悪役令嬢転生MBA~趣味は事業再生、特技は市場分析ですの~42
42・第十七章:リヒトハーフェンからの独立
エリザベートの頭脳は、燃えるような速度で回転していた。 目の前で起こっている、この、不可解な事象を理解するために。
対象:イザベラ・フォン・アークライト。
現状:公爵令嬢という、全ての、社会的地位、資産、未来の期待収益を、自発的に放棄。
要求:当方、エリザベート・フォン・リヒトハーフェン男爵の、私的な、パートナーシップを希望。
提示された、対価:『愛』。
算出される、期待利益(リターン):ゼロ。いや、マイナス。
(――非合理的。非論理的。理解不能)
彼女の、MBAとして構築された、完璧な論理思考、思考回路が激しく警鐘を鳴らしていた。 イザベラのこの行動は、あらゆる経済合理性の原則に反している。ハイリスク・ノーリターンの愚行。あり得ない選択。 だが。 なぜだろう。 握りしめられた手の温かさが。 自分を見つめるそのサファイアの瞳の、あまりにも、まっすぐな輝きが。 彼女の思考の根幹を揺さぶってやまないのだ。
「…イザベラ様」
エリザベートは、かろうじて声を絞り出した。それは、彼女がこの数ヶ月発した、どの言葉よりも不確かで、そして、か細い響きを持っていた。
「あなた様のお気持ちは理解しかねます。ですが、そのご提案は、あまりにも、あなた様にとっての損失が大きすぎる。お受けすることはできません」
それは、経営者としての最も誠実な回答だった。 不良債権と分かっている投資案件を断るのは当然の判断だ。
だが、イザベラは、静かに首を横に振った。
「いいえ、エリザベート。あなたには、まだ、分かっていらっしゃらない」
彼女は、握りしめたエリザベートの手に、さらに力を込めた。
「わたくしにとって、最大の『損失』は、父や家を失うことではありませんわ。あなたという、光を、失ってしまうこと。それこそが、わたくしの、人生における、最大の損失なのです」
「……」
「あなたが、全てを忘れてしまったあの森で。わたくしは、誓ったのです。今度は、わたくしが、あなたの光になる、と。あなたが、失ってしまった、温かい記憶の代わりになる、と。…ですから、これは、わたくしにとっての投資なのですわ。わたくしの、人生の全てを懸けた、最高の投資」
その、言葉は、もはや、エリザベートの、脳ではなく、魂の、最も深い場所に直接響いてきた。 彼女の胸の奥で、何かがきしむような音を立てた。 固く、錆びついていた歯車が、無理やり動かされようとしているかのような軋轢音。 それは、痛み、だった。 忘れていたはずの、感情の疼き。 長谷川梓が、一度目の人生で殺しきれなかった心の、残骸。
「――セバスチャン」
エリザベートは部屋の隅に控えていた執事を呼んだ。
「はっ」
「至急、父上…リヒトハーフェン辺境伯に、面会の手配を。議題は、『リヒトハーフェン男爵家の、完全独立について』、と」
その言葉に、今度は、セバスチャンが目を見開いた。 そして、イザベラも。
「エリザベート…? あなた…」
エリザベートは、イザベラの手を、そっと解くと、彼女に向き直った。 その、碧眼には、まだ、深い困惑の色が浮かんでいる。 だが、その奥底には、これまでなかった、新しい光が灯っていた。 それは、『覚悟』の光だった。
「わたくしは、まだ、あなた様の仰る、『愛』というものを理解できません。それは、わたくしの経営理論には存在しない概念ですわ」
彼女は、正直に、告白した。
「ですが。あなた様という、『予測不能な、最大のリスク(不確実性)』を、このまま放置しておくことは、わたくしの、今後の事業計画において、あまりにも危険すぎる」
彼女は、にっこりと微笑んだ。 それは、かつての、リーザの悪戯っぽい、笑みとは違う。 だが、あの、冷たい、鉄の仮面のような無表情でもなかった。 初めて見る、不器用で、しかし、どこか人間味のある微笑みだった。
「ですから、あなたという最大のリスクは、わたくしの最も近くで、『管理(マネジメント)』させていただくことにいたしますわ。…それが、現時点での、わたくしの、最も合理的な判断です」
それは、彼女なりの答えだった。 愛の告白に対する、あまりにも、MBA的で、あまりにも、エリザベートらしい不器用な、『イエス』。 イザベラの目から再び、大粒の涙が溢れ落ちた。 だが、それはもう、悲しみの涙ではなかった。
数日後。 リヒトハーフェン辺境伯領の城館。 あの重々しい空気が支配する父の執務室で。 エリザベートは、再び、父、ダリウスと対峙していた。 だが、今度の彼女は、もう、父の腕に甘えるか弱い娘では、なかった。
「――以上の、理由により、わたくし、エリザベート・フォン・リヒトハーフェンは、本日をもって、リヒトハーフェン辺境伯家より、完全に、独立し、自らの、男爵家を興すことを、ここに、宣言いたします」
彼女の隣には、イザベラが、凛とした表情で寄り添っている。 ダリウスは腕を組み、その、巨大な体で仁王立ちになっていた。 その、深い皺の刻まれた顔には、怒りと、寂しさと、そして、ほんのわずかな誇らしさが、複雑に入り混じっていた。
「…そうか。行ってしまうのか、お前は」
「はい、お父様」
「あの、忌々しい公爵家の娘と共にか」
「はい、お父様」
長い長い沈黙。 やがてダリウスは、深い深いため息をつくと言った。
「……好きにしろ」
それは、突き放すような言葉だった。 だが、その声の奥に隠された、不器用な愛情を、イザベラは確かに感じ取っていた。
「ただし、一つだけ覚えておけ、エリザベート」
ダリウスは、娘の碧眼をまっすぐに見据えた。
「お前がこれから歩む道は、我々が歩んできた道よりも、遥かに険しく、そして、孤独な道だ。だが、もし、その道に疲れ、歩けなくなった時は…」
彼は、一度、言葉を切ると、ぶっきらぼうに言い放った。
「…いつでも、帰ってこい。ここがお前の家であることだけは、生涯変わらん」
それは、武骨な父親からの、最大級の愛の言葉だった。 エリザベートの胸の奥で、また、あの錆びついた歯車が、ぎしり、と、音を立てた。 彼女は、深く、深く、父に頭を下げた。 顔を上げた時、その、碧眼には、透明な膜が張っていた。 だが、彼女はそれが何なのか、まだ、理解することができなかった。
こうして、エリザベートは全てを手に入れた。 独立した領地。 莫大な富。 そして、かけがえのない、ただ一つの、愛。 だが、彼女は、まだ知らない。 その、輝かしい成功の光が強ければ強いほど。 その影もまた、より深く、より濃く、彼女の、足元に忍び寄ってきていることを。 本当の戦いは、まだ、始まってもいなかったのだ。
43・【後編】終章へ→
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