小説・悪役令嬢転生MBA ―追放から始まる国家再建、その損益分岐点について― 7
最終章:愛の貸借対照表 ―記憶なき告白―
リヒトハーフェン辺境伯領の「奇跡のV字回復」から、三年の歳月が流れた。
かつて王国北端の不採算部門と揶揄されたこの地は、いまや最新鋭の魔法コンテナが列をなし、休むことなく荷を捌く大陸最大の物流拠点(ハブ)へと変貌を遂げていた。隣国からの難民は、かつて飢えに震えた手を動かし、いまや世界を驚かせる熟練工として、リヒトハーフェン製の魔法具を磨き上げている。
領主館の最上階にある執務室。
そこには、三年前と変わらず――あるいは以前にも増して精密な動きで、数値を精査するエリザベートの姿があった。
彼女が算出する需要予測に、狂いはない。彼女が下す投資判断に、失敗はない。領民たちは彼女を「救世の女神」と呼び、異国の商人たちは彼女を「時計仕掛けの女王(クロックワーク・クイーン)」と畏怖した。その瞳には、一切の揺らぎも、悦びも、そして怒りさえも宿っていないからだ。
「エリザベート。少しはお休みになってはいかが? システムの稼働効率を維持するには、適切なダウンタイムが必要だと、あなたの教科書にも書いてあったはずよ」
扉を開け、当たり前のように入ってきたのは、イザベラ・フォン・アークライトだった。かつて学園でエリザベートの横暴に頭を悩ませていた公爵令嬢は、いまや領地の最高外交官として、そして「空っぽの女王」の唯一の隣人として、その美貌に大人の余裕を湛えている。
「……アークライト様。これは来期の事業計画に関わる重要な損益分岐点分析(ブレークイーブン・アナリシス)ですの。邪魔をなさらないでくださいまし。……それと、現在の私の疲労度によるエラー率は許容範囲内ですわ」
エリザベートは顔も上げずに応える。
その声は、かつての氷のような冷たさではなく、ただ純粋な「無」だった。彼女にとって、イザベラは「代えの効かない高度な人的リソース」であり、それ以上の意味を持たない――はずだった。
「では、せめてこれを。セバスチャンが腕に縒りをかけて淹れてくれたのです。……あなたの『好きな』、東方の茶葉ですわよ」
イザベラはくすくすと喉の奥で笑うと、白磁のカップを、計算尺と報告書が並ぶ机の端にそっと置いた。
その香りが室内に広がった瞬間、エリザベートの羽ペンが、ふと止まった。
それはかつて、彼女が学園で「独占」し、周囲との不和を決定的にした、あの高価な茶葉。いまやリヒトハーフェン・ロジスティクスが独占輸入権を持ち、領地の特産品として世界へ送り出されている「始まりの香気」だった。
エリザベートは、何も言わずにそのカップを手に取り、一口含んだ。
芳醇な香りと、優しい温かさ。
「……懐かしい、反応が出ましたわ」
ぽつり、とエリザベートが呟いた。
「思い出せましたの? 学園であなたがこれを巡って、どれほどの騒ぎを起こしたかを。……そして、それを私がどれほど馬鹿げていると笑ったかを」
「いいえ。データのインデックスは確認できますが、主観的な情景としての記憶は出力されません。……ただ、この香りを検知すると、私の思考回路のノイズが消去され、数値化できない安らぎを示す。……これは論理的な因果関係を超えた、私というシステムへの『正の干渉』ですわね」
エリザベートは、空になったカップの底を見つめた。
感情を失った彼女の脳内では、常にすべての事象が利益と損失の天秤にかけられている。三年前、自分という「個」の感情をすべて一括償却して手に入れた、この豊穣。その代償として、彼女は自分自身の幸福さえも「必要経費」として処理してしまった。
「イザベラ様。……私の前世の辞書には、そうした目に見えない価値を説明する言葉がありましたわ」
「……何て言うの?」
「無形資産(インタンジブル・アセット)。あるいは――のれん(営業権)」
エリザベートは、ゆっくりと立ち上がり、バルコニーへと歩を進めた。彼女の表情は依然として変わらない。けれど、窓から差し込む夕陽が、その白い頬を柔らかく染めていた。
「帳簿上の数字だけでは、事業は継続(ゴーイングコンサーン)しません。そこには長年培った信頼という名のクレジットがあり、献身という名の資本準備金が必要になる。……イザベラ様。私は、あなたという存在を、私の人生の貸借対照表において『負債』として計上したことは一度もありませんわ」
イザベラの瞳が、大きく見開かれる。
「あなたは、この領地が、そして私が持ち得る最高の『のれん』なのですわ。……私の心が空っぽになっても、あなたの存在が私というシステムを支え、価値を付加し続けている。……計算上、私はあなたなしでは、もはや正常な統治を継続できませんの。あなたは私の、非公開の、そして最大の資産ですわ」
それは、感情を捨てた女が、ロジックの最果てで見つけ出した、世界で最も不器用な「愛の告白」だった。
学園で茶葉を奪い合い、互いを蔑んでいた日々。
泥にまみれてコンテナを叩いた日々。
そして、難民の波を前に、一人で泣き明かしたあの夜。
エリザベートの記憶からはその「熱」は消えてしまったが、その「事実」が積み上げた信頼という名の資産だけは、消えることなく彼女の人生を黒字で支え続けていた。
イザベラの瞳から、一筋の涙が溢れた。
彼女はゆっくりと歩み寄り、エリザベートの冷たい手に、自分の温かな手を重ねた。
「……光栄ですわ。最高の経営者にそう言っていただけるなら。……私は生涯、あなたの『心』という非公開資産を守り抜く、専属の管財人になりますわ。あなたが忘れた愛のすべてを、私が貸借対照表の余白に書き込み続けてみせる。……たとえあなたが、それを『データ』としてしか認識できなくても」
二人の影が、夕暮れの執務室に長く伸びる。
一人は、ロジックという名の刃で世界を救い、自らをコストとして支払い切った女王。
一人は、その数字の羅列の中に、消えかけた情熱の残響を見つけ出し、寄り添い続ける乙女。
バルコニーの下では、港に帰る漁師たちが歌い、魔法コンテナを積んだ馬車列が、夜の配送に向けて灯りを点し始めていた。
前世で「頭でっかち」と蔑まれた孤独な知識は、いま、数万人の空腹を満たすパンとなり、絶望に沈んでいた人々の明日の希望へと昇華された。
エリザベート・フォン・リヒトハーフェン。
彼女が失った「心」の代わりに手に入れたのは、自分以外の誰かが笑える世界。
愛とは、最も予測不可能な変動リスクであり。
そして、この世界で最も偉大な「リターン」なのだから。
たとえその温かさを、彼女自身が二度と「喜び」として感じることができなかったとしても。
彼女の引いた一本の線、一つの数字が、今日も誰かの命を繋いでいく。
リヒトハーフェン領の貸借対照表。
その最下段、目に見えない資産の項目には、今日も消えない「愛」という名の黒字が、鮮やかに刻まれ続けている。
(了)
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