あの春、確かに父はいた
今年もまた春がきて、夫と2歳4か月の息子と花見をした。芝の上にレジャーシートを敷いて、お弁当を食べていると「ごはん、もういーの」と突然、息子が走りだす。ちょっと待って!と追いかけて着いた場所は、あの春、父がいた場所だった。
2021年12月28日。芋不足により、マックのポテトはSサイズしか販売されていない時期だった。
「あんたはロビーで待ってなさい」
父の主治医に声をかけられた母は、そう言って面会室に消えて行った。
2021年2月、父の身体に癌が見つかった。検査も治療も長期入院も耐えているのに、神様は味方をしてくれない。その8か月後、父の余命は一年だと宣告された。父は一年後にはいないのかもしれない。
そんな嘘みたいな話、信用したくもないけれど「もっと会っておけばよかった」だなんて悔いが残らないように毎日、母と一緒に父の病室に通った。母が主治医に呼ばれる姿は何回か見てきた。でも、いつもなら「あんたも一緒に来ていいよ」って言ってくれるのに、今回は違った。
ロビーで待っててという母の指示通り、私は一人で父の部屋がある12階からロビーに向かった。時刻は19時30分ごろだったと思う。ガラス張りのロビーから見える外の景色は、ただの真っ黒だった。
たまに警備の人が来たけどロビーにいるのは自分だけで、昼間のごちゃついた雰囲気に戻ってほしいと思った。一人で過ごす12月の夜の病院は、あまりにも静かで暗くて寒かったから。
ロビーにあるエスカレーターを降りてすぐの場所には、ファミリーマートがあるのに行く気にはなれなかった。母は今、先生から何の話を聞いているんだろう。病状についてだろうか。父に何かあったとき延命治療をするかどうかの相談だろうか。深刻な話であることは間違いない。
普段はコンビニの新作スイーツを見るのが好きだけど、今はそれを見たって心が癒される気がしなかった。だから、少し冷えたソファーに座って母を待った。
40分は経ったと思う。ポーンと響くエレベーターの音と共に母がやっと来た。「お待たせ〜!」なんて言ってくれるいつもの明るい母はいない。
「はぁーふぅ」
母が深い溜息をつく。
怖い。何、その溜息。
そのあと、母は言った。
目を見開いて。
「お父さん、あと、3か月だって」と。
せっかく母が強く自分の気持ちを押し殺しているのに、私が泣いたらだめだ。目を瞑って唇をかみ、「そっか」と答えることしかできなかった。
帰り道、重たい空気の車内で母が言った。「お母さん、お父さんには、このこと伝えないから。生きる希望を持っている人に、そんなこと言えない」と。
溜息まじりに一言一句丁寧に、一生懸命に話してくれた母は強いと思った。でもきっと、あの頃の母の心は今すぐにでも砕け散ってしまいそうで、いつだって溢れてしまう涙を必死にこらえていたんだと思う。
それ以外に、母と会話した記憶はない。真っ暗な外を見ながら、主治医からの話が病状についてだったらよかったのになと思った。
今までは、父の病気の話を聞くには覚悟が必要だったけど余命宣告されるくらいなら、どれくらい癌が進行しているかとか、どうやって治療していくかって話をされたほうがマシだ。主治医から治療方法を話されるなんて、幸せなことなんだと知った。父にはもう、治療の術がない。
家に着いたのは20時45分くらいだった。車を降りて、待ちぼうけにされた柴犬の愛犬マルの散歩にすぐに行った。いつもなら寒くて暗い散歩はちょっとめんどくさいって思ってしまうけれど、できる限り早く、それも一人で行きたいと思った。母にマルの散歩を奪われないように、家の中に入らずそのまま散歩に行った。薄着だったけど寒さなんてどうでもよかった。
散歩中、一人になれてやっと泣くことを許された気がした。今日だって父はニコニコしていたじゃないか。むくみだって引いていたじゃないか。顔色もよかったじゃないか。元気だったじゃないか。病室で母がマスクがないって騒ぎだして、父を見たらなぜか母のマスクを着けててみんなで笑い合ったじゃないか。
それなのに、春がこれば、父はいないかもしれない。そう考えると込み上げたものがボロボロボロボロ溢れて止まらなかった。こんな顔で家に帰るわけにはいかない。マルには悪いけど、永遠に散歩していたいと思った。
とかいって、結局ちっとも帰って来ない娘を心配して探しに来た母に見つかってしまったのだけど。
この日、誓ったことが日記に残してある。
病院に通おうと思う。
お父さんに会えることに感謝する。
お父さんが今までしてくれたことに感謝する。
可能な限り、お父さんとお喋りする。
お父さんと握手する。
お母さんを守る。
父はいつも、私たちが病室を出るとき握手をしながら目を見て「またね」と言う。でも近い将来、父と握手ができなくなる日が来る。またねと言えなくなる日がいつか必ず、来てしまう。
2022年1月13日。父が退院した。父のために親戚で集まって、2回目の「お正月」をした。お雑煮がおいしいと幸せそうに食べる父を見守る家族は、餅を詰まらせないかヒヤヒヤしていた。
2022年2月。余命宣告が当たってしまうのならば、父はあと、2か月しか生きられない。今思えば、家族全員で、父に余命のことは伝えないと誓ったのに隠しきれていなかったように思う。
父が自分で運転してauショップに行くと言いだしたときは、「運転?!送るよ!」とか言っちゃうし、一人で歩いてワクチン接種会場に行くと言いだしたときは、誰か車で送れる人はいないのかとザワザワしちゃうし。父はとても心配されて笑っていたけれど、きっと何か気づいていたんじゃないかなと今になって思う。
2022年3月。ついに春がきた。
余命宣告なんてやっぱり嘘なんじゃないかと思うくらいに父の体調は、よさそうに見えた。温かい日には、外で飼っている愛犬マルの小屋近くに折りたたみ式の椅子を置き、ラジオを聴いていた。
ご主人様が側にいてくれてマルは嬉しそうで。しっぽをフリフリさせて、父のふくらはぎにへばりつく。そんなマルを見て、「やっぱり家はいいなあ」と父は呟いた。
3月が終わり、60歳の父は無事に定年退職できた。そして、父と一緒に迎えられないと思っていた4月。あちこちで綺麗に桜が咲き始めた。
テレビも新聞もウクライナ情勢で溢れていた4月2日。父の体調がよかったから桜を見ようと、地元民が集う池に行って花見をした。その池は1周1キロ程度の大きさで、普段は池の周りを散歩したり走ったりする人がちょくちょくいる場所だ。池の隅のほうには芝生スペースがあり、そこには桜の木がずらりと並んでいる。そこに父、母、祖母、私で行った。
普段なら、こんな勢揃いのメンバーで花見に行かないけれど。母も祖母も、来年には父と一緒に桜を見られないことを分かっている。これが最後の花見だってみんな思ってたと思う。
芝の上にレジャーシートを敷いて、みんなで並んで座った。母が用意してくれた天むす弁当を食べながら桜を眺める。
「花見なんていつぶりだろう。来れてよかったなあ」と、父が呟いた。その父の横にいる母の表情はとても穏やかで、でも少し寂しそうで。私は、桜と父と母が一緒に写るように何枚も何枚も何枚も写真を撮った。
あの日、桜を見に行っておいて本当によかった。
花見をした次の日、父は救急車で運ばれた。
それから2か月が経って、父は本当にいなくなった。
2025年。今年もまた春がきて、地元の定番花見スポットに行った。お弁当を食べていたはずの息子が突然走りだして、追いかけた先にあったのは、あの日、父と一緒にお弁当を食べた場所だった。
「おはな、きれいだねえ」と目をキラキラさせる息子。「ここに君のおじいちゃんがいたんだよ」って心の中で呟く。でも、あのとき君はお腹の中にいたから知ってるのかもしれないけれど。
あのとき、まだ心拍確認もできていなかった息子は2歳4か月になった。彼の成長ぶりを見ると父が亡くなってから、かなり月日が経ったのだと思い知る。
父が亡くなった頃は、ふとした瞬間に涙が出た。毎月かかさず、父の月命日である15日には、実家に帰って父が好きだったシャトレーゼのバターどら焼きをお供えした。それなのに、最近は気がつけば15日を過ぎていて、お供えしに行くのを忘れてしまうこともある。それくらいに、父がいない生活に慣れてしまった。
それでも毎年、春になると思い出す。
あの日、あの場所で桜を眺めていた父の姿を。
あの日、父が座っていた桜の木の下に行ったって、父はいない。そんなことは分かってるけれど、きっとまた次の春も同じ場所に行って、父を思い出すんだと思う。そこで桜を見ると、確かに父は生きていたと思えるから。
このnoteの見出し画像は、父と見た最後の桜。
