キャラクターとしての「クマ」
朝の情報番組を流し見ながら、なるほど現代日本は高齢ドライバーとクマの脅威に晒されているらしい。理不尽の極み。前者は社会構造の問題、どうにかならんのか。
さて言うには及ばぬここ数年の「クマ」の人的被害、もはや日本の社会問題である。
この被害が大きく報道され始めた当初は、「人々が思っている以上に凶暴な獣である」という文脈で取り扱われていたと記憶している。
およそ15年前、なぜか取り憑かれたようにクマの生態を調べていたわたしは(まじで何で)、その習性を多少なり知っていた。よって、クマの出没ニュースに色々な想像を巡らすことができた。
テディベア然りチャーミングなキャラクターとして愛される「クマちゃん」だが、実はその習性は、(ヒトから見れば)執念深く残虐性が高い。「羆嵐」で有名な三毛別羆事件や大学のワンダーフォーゲル部への襲撃など、背筋の凍るものばかりだ。
現在報道されているクマ被害についても、内容によってはその詳細が語られ、人々を震撼させている。
ただこの感想も、たとえばライオンとかトラとかの所業であれば恐怖の質は違ったのではないかと思う。
人々がクマの襲撃に恐れ慄いたのは、そもそも我々が抱いていたイメージとのギャップがあったからだ。(無論、本来クマがいるべきではない「ヒトの生活圏」に現れているという異常事態、神出鬼没な存在と化している衝撃が恐怖の大前提である。)
人々の思い描くクマの姿についての考察を述べたい。学術的根拠ゼロの100%主観だ、悪しからず。
熱意を持ち絵本育児に取り組みおよそ7年、毎月およそ10〜20冊の作品を手に取ってきた。
幼児の世界で、生きとし生けるものすべては「友だち」だ。そこにはあらゆる種類の動物が登場する。そしてその二大巨塔は、断トツで「ネズミ」と「クマ」。(次いでウサギ、しかしここには圧倒的な差がある)(わたし調べ)
「身近な動物」として思い浮かべるのは間違いなく犬猫なのだが、物語の世界では違う。
なぜならばワンニャンは四足歩行だから。「お友だち」であるには、擬人化する必要がある。よって、前足を器用に使える動物の方が描きやすいのだろうと容易に想像可能。結果ネズミとクマ、いずれもヒトにとって親しみ深い存在ではないにも関わらず凄まじい登場率である。
因みに物語における犬猫あくまで「動物として」登場する機会が多い気がする。

しかしこの「幼児界・二大アニマル」、それぞれの描かれ方は分岐している。ネズミは「ネズミの世界」を生き、クマは「ヒトと一緒に」生きている。
理由は明解で、サイズの問題だ。ドールハウス、シルバニアファミリーの感覚で物語が展開するのが前者。結果として、物語の世界は「ネズミ社会」が基本となる。(いわむらかずお「14ひき」シリーズなど)他種共存の世界線でもそのサイズ感は守られている。(なかえよしを「ねずみくん」シリーズなど)

一方、後者に関しては先述の通りヒトと共存している。
先日のクマ出没ニュースでは、監視カメラが捉えた衝撃場面を放送していた。勢いよく立ち上がり、被害者男性に覆いかぶさるように襲いかかるクマの姿。実際の迫力は半端ないだろう。そこで出ていたテロップは「クマは男性と同じくらいの背丈」…。
クマと遭遇した人からの「最初は人かと思ったら…」というコメントもよく聞くものだ。そのサイズ感はヒトと同等ということ。(これを書くにあたり人間サイズのネズミを想像してみたことをわたしは後悔した)
また、知能が高く一説ではヒトの2歳児程度のものらしい。アニマルサーカスでも活躍するイメージがあるし道具も工夫して使える。
つまり、クマの姿はヒトとの親和性が高い。よって、物語の中でクマとヒトは仲良しなのだ。
クマを身近な存在として捉えてきた文化も多い。生息数の多いロシアでは、この動物を肯定的な意味で国家の象徴としているらしい。ことわざにも多く登場するのだとか。同国の画家、シーシキンによる「松林の朝」は、森の中たわむれる4頭のクマを描いた名画である。たとえば絵本でも、ロシア民話・ウクライナ民話にはクマの登場率が高い。(こういう民話を両国比較して読むとその毛色に通ずるものを感じ、もともと同じ文化圏なのだよなぁ、とやるせない気持ちになる)

一方で、この大国を敵視する諸外国からは「残忍さ」の象徴として風刺画等でクマを用いてきたそうな。同じ動物なのに、対照的にも捉えられることが興味深い。
いずれにせよ、クマがヒトにとって脅威であったことは間違いない。それなのに何故「物語」では好意的な存在として描かれてきたのだろう。
ここで、悪役として描かれることが多い動物と対比してみたい。たとえば、オオカミやキツネ。「赤ずきんちゃん」「おおかみと7匹のこやぎ」「3匹のこぶた」…オオカミが悪役として描かれる作品は枚挙に暇がない。キツネについては「ずる賢い」「ヒトを騙す」キャラクターのイメージだ。総じて彼らはヒール・アニマルである。(そういえば、似た動物の「コヨーテ」を、秩序を乱す存在として描く北米先住民の神話を聞いたこともある)
なぜこのように悪者に仕立て上げられてしまったのか。それは彼らが「侵入者」だったからではないか。人々の生活圏に突如現れ、危害を加える存在。牧畜中心の西洋諸国であればその被害は直接的だったに違いない。だからこそ人々は彼らを恐れ、憎み、「悪」の象徴とした。


一方で、クマの脅威についても知らなかったはずはない。しかしこの場合、「侵入者」は我々人間の方だったはず。森は動物たちの聖域。そこで圧倒的な存在感を持つクマはある意味、畏怖の対象だったのではなかろうか。
愛嬌ある動き、知性を滲ませるクマたちの姿に親和性を覚えながらも、ひとたび牙を向けられればヒトは無力。
ヒトとオオカミ達との関係は「対立」であり、クマとのそれは「服従」だったのかもしれない。
中学生の国語の教科書に、「作られた『物語』を超えて」という論説文が掲載されている。近代、人間の勝手な解釈により「凶暴な動物」と見做されてしまったゴリラが理不尽に殺されたり檻に閉じ込めらたりしてきた、しかしゴリラは果たして獰猛な生き物なのだろうか、という問題提示から始まる。
筆者は、ヒトの作り上げた「物語」(ここでは、ドラミングするゴリラの姿に「凶暴な怪物」のイメージを植え付けたこと。ひいては、人間社会に蔓延する差別意識や民族問題のアナロジーでもある。)を鵜呑みにせず、自分で真実を追求しようとする姿勢が必要だ、と述べる。(曖昧な記憶だが…)
クマも同じだ。先人達は「おはなし」を紡ぐ中で、恐らくクマへの畏怖と親しみを込めその姿を描いた。その系譜の末に、今のコミカルでチャーミングなキャラクターイメージがある。
だからこそクマの出没ニュースが取り沙汰され始めた当初、彼らが猛獣であるという「当たり前」が意外性を持つ文脈で語られ、人々はそのギャップに強い恐れを感じたのだろう。
(それこそパンダが人身被害を起こしたら、その衝撃はとんでもないものであるはず。)
人間は動物にさえ、勝手にイメージを作り上げている。
こうしてわたしなりに、キャラクターとしての「クマ」への考察をしたのだが、はたと「じゃあネズミは?」と思い至る。「幼児界・二大アニマル」の片割れ、彼らがポジティブなキャラ設定となったのはなぜだ?クマはまだ分かる。しかしネズミには、何の好意も持てない。不潔の代名詞(歴史上あらゆるパンデミックの蔓延に一役買っている)、これまた意外と獰猛、食べ物や家を荒らす悪者。
少し考えて、それこそ、イマジナリー。ヒトは物語を作らずにはいられない生物なのだ。お得意のそれを駆使し、先の人々はこの生き物が暮らす、小さな世界を思い描いたのだろう。
クマにせよネズミにせよ、彼らへの想像はあくまで人間本位。先人たちは現代の我々よりはるかにその習性を熟知していた。動物たちと対立・共存し、時に恐れ時に信仰の対象としていたであろう。そして、何より彼らを身近に感じていたはず。その姿を注意深く見つめる瞳があったからこそ、今の「キャラクターとしての動物イメージ」が確立されているのだろう。
