白いカーネーション┃エッセイ
中学一年生の春のことだった。
給食の時間、友達と談笑する私に担任の先生が言った。
「今すぐ家に帰るから、荷物をまとめて」
この春就任したばかりの、いつでも元気な若い先生。
彼女は、私の顔を見るなり歯を食いしばり涙をこぼした。
(ああ、母に何かあったんだ)
すぐにそうわかった。
嫌だな。だって今ちょうど友達に母のことを話していた。若くして私を産んだ母が、三人の子どもを育てながら勉強して、この春やっと看護師さんになったのだと自慢していたところだった。
「わかりました」
私は泣かなかった。
むしろ、この場を立ち去れることに少し安堵していた。
嘘の幸せを語るのは虚しいだけだったから。
本当のところ。看護師になった母は、働き始めると同時に、私たちを置いて家を出ていってしまった。
中学の入学式が終わった夜。お祝いに夕飯を食べに行こうと家を出た。途中で、母が忘れ物をしたと言って家に戻った。それきりだった。
荷物をまとめて外に出ると、学年主任が車で待機していた。後部座席に乗り込む。
「何があったんですか」
返事はない。
担任の先生は泣きじゃくっていて、学年主任が嗜めながら言った。
「家に着いたら説明するからね」
(帰りたくない)
嘘の幸せすら終わってしまう予感に、ただぼうっと窓の外を眺めていた。
家に着くと、真ん中の妹の泣き叫ぶ声が聞こえたきた。覚悟を決めて、手に力を入れる。指先が震えているのを、認めたくなかったから。
父が出てきて、先生たちに頭を下げている。私は遠巻きにその様子を見ていた。家に入ると祖母が嗚咽混じりに言った。
「お母さんが、死んじゃったよ。後で引き取りに行くからね」
涙は出なかった。
それどころか、お母さんに会うの久しぶりだな。とすら思った。
でもそれも一瞬のこと。
五歳の妹があどけない顔で私を覗き込んだ。
「お姉ちゃん、死ぬって何? お母さん帰ってくるの?」
説明しようとして、決壊した。
帰ってくるけど、もう動かないんだよ。と言おうと思ったけれど、口は勝手に音を出した。
「……お姉ちゃんにもわからない」
気がついた時には父に抱きしめられていた。妹も一緒に。
久しぶりに見た母は、綺麗だった。
お気に入りの水玉のワンピースを着ていた。あんなに痩せたいと言っていたのに、すっかり細くなってて、口からは綿の塊が覗いていた。
私はいつも怒られてばかりだった。でもこうして動かなくなった母の顔を前にして、思い出すのは笑顔だけだった。
それが余計に堪らなかった。
通夜や葬儀のことで覚えていることは少ない。
祭事を乗り越えるのにいっぱいいっぱいで、何かを感じる前に過ぎ去ってしまったから。
その中でも、鮮明な記憶が二つある。
棺に石で釘を打つ時、私の手で母を閉じ込めなければいけないのが怖かった。あまりに泣いたせいで、両鼻から血が出た。それでも石を打った。母の友人の一人が、私を抱きしめてくれた。
炉の扉が閉まる時だった。
突然、父が母の名を叫んだ。
炉に駆け寄り、縋るように母を呼んだ。係の人に宥められて離されるまで、何度も母の名を繰り返していた。
後にも先にも、父が泣くのを見たのはその時だけだ。
母の失踪と死。
この出来事は、私の心を揺さぶるには十分すぎることだった。
※ ※ ※
あの日以来、私は前髪を伸ばした。哀れみばかり向けられる中で、人の目を見るのが嫌になってしまったのだ。
全てを疑って、母に教えられたことの、逆ばかり試した。
乱暴な言葉を使い、大人を困らせた。
それでも担任の先生は、私を腫れ物みたいには扱わなかった。怒る時は怒り、放っておかず、何でもない顔で隣に立っていた。
そのおかげで、私は学校に居場所をなくさずに済んだのだと思う。
中学二年生。母の日が近くなると、クラスでカーネーションの注文表が配られた。学校でまとめて頼んでくれる、学校注文だ。
クラスのほとんどが、一輪の赤いカーネーションを注文するという。
私の母の死は、親同士の繋がりがあった一部の生徒しか知らない。場を盛り下げたくなくて、私も一輪注文した。
フリルのような赤くて華やかなカーネーション。
仏花ばかりの仏壇に備えたら、母が喜んでくれるかもしれないと思った。
母の日が少しだけ、楽しみになった。
その日、教室にカーネーションが届いた。
名前を呼ばれて、一人一人教卓へ行き受け取っていく。
私は、そういえば今日だったな。くらいの気持ちで、名前が呼ばれるのを待っていた。受け取り手のいない贈り物は、こんなにもワクワクしないものなのか、などと考えながら。
買ったことを後悔し始めた頃、私の名前が呼ばれた。
いそいそと教卓に向かうと、手渡されたのは『白いカーネーション』。
ポカンと先生を見上げると、先生は微笑みながら言った。
「白い方がいいかなと思ったから」
私は先生の言っている意味がわからなくて、少しの間フリーズした。
注文表に白いカーネーションが載っていたかは覚えていない。ろくに見ずに、みんなと同じ赤いものを注文したから。
私は先生の手からひったくるようにカーネーションを受け取ると、机に伏した。
クラス一面の赤の中で、私のだけが白い。
それを見ることも、見られることも嫌だと思った。
先生は困っていた。悪意なんてまるでないこともわかっていた。でも、何でもないふりも出来なかった。
ただ、何もかもが消えてしまえばいいのに。そう思った。
放課後、遠回りをして帰った。
いつもの通学路を外れて、広い空き地へ向かった。緑の野原に、小さな花がいくつも咲いている。桃色、黄色、水色、そして白。
私は花たちの間に寝転がり、空を見上げた。ささやかな風に、草の揺れる音がした。
死者は星になり、空から見守っていると誰かが言っていた。
じゃあ、太陽の光に遮られた今ならどうだろう。
私から母が見えないように、母からも私が見えないはずだ。
私はおもむろに土を掘ると、そこに白いカーネーションを埋葬した。
爪の間に入り込む土も、指に絡む草の根も、顔を出した蚯蚓も、私を止めることは出来なかった。
胸に荒れ狂う行きどころのない想いを、土に託して花を隠す。カーネーションは苦しそうに、土の下に消えていった。
あの日、打ち付けた石の音が聞こえた気がした。
「みんなと同じがよかった」
私の声を、色とりどりの野花だけが聞いていた。
彼らは私を責めたてるようにざあっとそよぐと、悼むように沈黙した。
あの日からずっと、私の心には白いカーネーションが揺れている。
湿った土の中で、真っ白なまま。
