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日記。。。拗ねたりひねくれてるわけではないけれど、思ったこと。

「『を大切にしましょう

今では、ごく当たり前の言葉になりました。
多様性が重視される時代、一人ひとりの価値観や事情を尊重することは、間違いなく大切だと思います。

けれど最近、少し気になっていることがあります。

個を尊重すること」と、「自分の考えを押し通すこと」が、いつの間にか同じ意味で使われてはいないだろうか、ということです。

会議や話し合いの場では、さまざまな意見が出ます。
それ自体は健全なことです。少数意見が議論を深めたり、見落としていた問題を教えてくれたりすることも少なくありません。

しかし一方で「私はここまで配慮できます」「こんな可能性も考えています」と、自分の視点を示すことそのものが目的になってしまう場面にも出会います。

議論とは、本来、結論をよりよいものにするためのものです。
ところが、意見を出すことが自己表現や自己証明へと変わってしまうと、
話し合いは前へ進まなくなります。

そのことを強く感じた出来事がありました。

ある児童クラブのキャンプについて話し合う会議で、子どもたちの安全確認のため「黄色い帽子を着用する」という案が出されたことがあります。
その案自体は是非はともかく、目的は単純で、キャンプ場での他団体との区別や人数確認をしやすくするためでした。

ところが、提案された途端、「黄色は嫌がる子もいる」「おしゃれな帽子をかぶりたい子はどうするのか」といった意見が次々と出されました。

もちろん、その意見にも意味があります。

でも、その日は帽子の話だけで時間が終わり、本来もっと話し合うべき安全対策や運営方法にはほとんど触れられませんでした。

議論の目的だった「子どもたちの安全」よりも、「個々のこだわり」のほうが大きくなってしまったのでした。

この出来事を通して、「個を尊重すること」と「個を優先すること」は、必ずしも同じではないのだと感じました。


実は、自分自身も少数派の立場にあります。

色覚特性を持っています。男性では約5%が該当するとされますが、日常生活では色の違いが分かりにくく、不便を感じる場面があります。

それでも、多様性やマイノリティについて語られるとき、この問題が取り上げられることは決して多くありません。

「個を大切に」という言葉を聞くたびに、本当に必要な「個」がきちんと見えているのだろうか、と考えてしまいます。

もちろん、どの困りごとが重要かを比べることには意味がありません。

ただ「声の大きさ」と「困っている深刻さ」は、必ずしも一致しないということだけは、忘れてはいけないと思うのです。


会議の後、その議論を主導していた方(「黄色い帽子は恥ずかしい」って言った人)から「どう思いましたか」と意見を求められました。

けれど、その場で感じたのは、「率直な感想を聞きたい」のではなく、「自分の考えに賛成してほしい」という空気でした。

対話とは、自分の考えを理解してもらうだけではありません。
相手の考えによって、自分の考えが変わる可能性も受け入れることです。

もし最初から答えが決まっているなら、それは対話ではなく確認作業になってしまいます。

「個」を尊重する社会とは、一人ひとりが好きなことを主張する社会ではないと、思います。

それぞれの事情を認めながらも、「みんなが安心して暮らすにはどうすればいいか」「目的を達成するには何が必要か」を考え続ける社会ではないでしょうか。

自分の意見を語ることは大切です。
けれど同じくらい、自分の意見を少し脇に置いて、相手の話を聞く勇気も大切です。

本当に
「個」が尊重される社会とは、
誰もが自分だけを語る社会ではなく、
お互いの「個」が共存できる落としどころを探し続ける社会
なのだと思います。

「個」と言いながらも「他」を思いやることが、
「個」を尊重することにつながるのでしょう。

「 情 け は ひ と の た め な ら ず 」「 善 因 善 果 」「 因 果 応 報 」

これは自分の感想ですが、一般的に「個」を声高に主張される「個」とは、
大きく言えば「本人(とその周囲)」であって、
「(全体的な)個」ではないように思います。

ふと、マンガ「鋼の錬金術師」(荒川弘 著:ガンガンコミックス 刊)で
出てきた「全は一、一は全」と似ているのかなぁって思いました。

たかだか、小さい集団の会議の様子を、
「男女平等」とか「人種差別解消」「マイノリティ問題」など、大きな問題にあわせてはいけないのでしょうが、ふとそんな感じに思いました。

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