映画「ロングウォーク」観てきました。(ネタバレ)
「ロングウォーク」観てきました。
映画「ロングウォーク」を観終えて、最初に頭に浮かんだのは、
「これは『バトル・ロワイアル』だ」ということでした。
もちろん内容がまったく同じというわけではありません。
ですが、「極限状態に置かれた若者たち」「生き残りをかけたゲーム」「それを見守る観衆」という構図が、あまりにもよく似ているように思えたのです。
スティーブン・キングがリチャード・バックマン名義で1979年に発表した小説「死のロングウォーク」の映画化作品だそうです。
聞くところによると、何度も映画化の企画はあったものの、実現は非常に難しかったそうです。
原作小説は未読ですが、逆に思ったのは、
「もしかすると『バトル・ロワイアル』の原作は、この作品から少なからず影響を受けているのではないか」ということでした。
改めて思うのですが、スティーブン・キング作品は、観終わったあとに「スッキリした!」という気持ちには、あまりさせてくれません。
「ミスト」しかり。
「グリーンマイル」しかり。
「キャリー」しかり。
「黙秘」しかり。
どの作品にも、不条理さ?があります。
極限状態に追い込まれた人間の心理があり、簡単には割り切れない苦しさがあり、観終わったあとも心のどこかに引っ掛かるものが残るのです。
爽快感ではなく、トラウマにも似た感情を持ち帰らせる作家・作品なのだと思います。
「ロングウォーク」も、まさにそういう作品でした。
「バトル・ロワイアル」と似ている理由は、「デスゲームだから」だけではありません。
自分が強く感じたのは、
参 加 者 を 見 て い る 人 た ち が い る
という点です。
「バトル・ロワイアル」では、中学生たちが殺し合いをします。
そして、その様子を社会は眺めています。
映画では表現されていませんでしたが、中継番組やダイジェスト番組があったのではないでしょうか。
映画冒頭で「いま、一人の少女が生還しました!」と興奮気味に叫ぶ女子アナウンサーの姿は、異様でありながら、その世界では当たり前になっています。
「ロングウォーク」でも同じです。
沿道には観客が集まり、子どもたちが見守り、トラクターに乗ったおじさんは「頑張れよ」と声をかけます。
中には、道路脇にビーチパラソルを立て、まるで休日のティータイムでも楽しむかのように競技を眺めている人たちまでいます。
その表情までは覚えていませんが、その光景自体が妙に恐ろしく映りました。
彼らに悪意があるようには見えません。
むしろ純粋に応援しているのです。
だからこそ怖いのです。
考えてみれば、この構図はもっと昔からありました。
古代ローマの剣闘士。コロッセオで命を懸けて戦う者たちに、観衆は歓声を送りました。
命を懸けた戦いを「娯楽」として消費する構図です。
もちろん、その「娯楽」性だけで言えば、現代のボクシングやレスリング、プロレスとは同列なのかもしれませんが、そうではないと思います。
ちなみに私はプロレスが好きです。ハルク・ホーガンとかタイガーマスクとか。大仁田さんは‥‥💦
それでも、人は「戦う姿」に熱狂する生き物なのかもしれません。
「ロングウォーク」は、その根源的な感情を突きつけてくるようです。
映画の中で、少佐(マーク・ハミル)は、このゲームには希望がある、と参加者を募り、参加者を煽り立てる、支配者でした。
でも、本当に「希望」があるのでしょうか。
最後まで歩き切った先に、「希望」があると思えたのでしょうか。
少し立ち止まって考えれば、このゲームには救いも希望もないことくらい分かるはずです。
それなのに、人々は参加者を讃え、勝者に夢を託し、熱狂します。
それは「バトル・ロワイアル」で「BR法」を成立させた大人たちと、本質的には変わらないようにも思えました。
つまり、それ程、その社会・世界が疲弊しきっているモノだったということでしょうか。
でも、一番ゾッとしたのは最後です。
映画を観ていた自分自身も、その「観客」の一人だったのではないでしょうか。
ラストで何を期待していたのでしょう。
救いでしょうか。
逆転でしょうか。
それとも「ミスト」のようなやりきれなさや、
「グリーンマイル」が見せた永遠にも似た孤独、
「黙秘」の閉塞感などの時と同様に、カタルシス?を得ようとしたのでしょうか。
それとも、スティーブン・キング作品に、どこかでハッピーエンドを期待していたのでしょうか。
スティーブン・キングの作品は、観客に爽快感を与えるためではなく、人間の弱さや残酷さ、不条理さを静かに突きつけてきます。
「ロングウォーク」もまた、その系譜に連なる一本でした。
観終わって晴れやかな気持ちにはなれない。
けれど、しばらく経っても考え続けてしまう。
「ミスト」ほど観る者をトラウマにする作品ではありません。
けれど、「ロングウォーク」には別の種類の苦しさがありました。
最後のクーパーの選択。
そのクーパーを最後まで支え続けたデヴィッドの静かな慈愛。
そして、母ジュディの「来てはダメ」という一言。
あの場面は、とても印象に残っています。
沿道に駆け寄ってくる息子に向かって、母親は「来てはダメ」と叫びます。
もちろん、それはゲームのルール【時速4.8キロを下回れば警告を受け、射殺される】を知っているからです。
だからこそ、その言葉の本当の意味は「死なないで」。
抱きしめたい。
近くへ来てほしい。
それでも近寄れば死んでしまう。
母親としての愛情と現実との板挟みになった末の叫びだったのでしょう。
もし私が物語を書くなら、安易だと言われるかもしれませんが、ジュディはクーパーへ駆け寄り、抱き締め、ともに運命を受け入れる――そんな結末を書いてしまうかもしれません。
この物語には、その選択に至るまでの背景があります。
クーパーの父親は、少佐による独裁体制の中で禁じられた教養を教えたために拘束されます。
少佐は妻と息子の目の前で「従うのか、それとも抗うのか」と迫り、父親は信念を曲げませんでした。
文化や教養を守ろうとした父は、その場で射殺されます。
その出来事が、クーパーの人生を決定づけました。
彼がロングウォークへ参加した理由は復讐です。
優勝者は望みを一つ叶えられる。
その願いは、少佐を自らの手で撃つことでした。
しかし、最後に生き残ったのはクーパーではなくデヴィッドでした。
二人だけになったとき、デヴィッドは歩みを止め、このゲームを終わらせようとします。
家族のいない自分ではなく、母の待つクーパーを帰したい。
そんな思いがあったのでしょう。
ところがクーパーは、それを許しません。
そして最後は、クーパー自ら歩みを止めます。
それは、デヴィッドの夢を叶えさせえるためだったでしょう。
だから、「生きろ」とそんな言葉が聞こえてきそうな幕引きでした。
デヴィッドは、褒賞としてかなえられる一つの望みで、少佐を撃ちます。
その瞬間、デヴィッドは何を思っていたのでしょう。
達成感ではなかったはずです。
勝利の喜びでもなかったでしょう。
すべてを失った末に残された、空虚さのほうが近かったように思えます。
最後の勝者が決まり、周囲の人々はそれを見守ります。
歓声が上がっていたかどうかは正直よく覚えていません。
けれど、もし歓声があったのだとしたら、私にはとても気味の悪い光景に映ります。
「バトル・ロワイアル」との違いは、参加者が自らこのゲームを選んでいることです。
その意味では、不条理さは少し薄れているのかもしれません。
それでも、命を懸けたゲームを娯楽として見つめ、熱狂する人々の姿には嫌悪感しかありませんでした。
そして、その嫌悪感は、そのまま自分にも返ってきます。
映画館でこの作品を観ている自分は、彼らとどこが違うのでしょう。
命を懸けた物語を見届けたいという欲求は、程度の差こそあれ、同じ場所から生まれているのではないでしょうか。
そう考えると、少し居心地が悪くなります。
それでも私は、きっとこれからもスティーブン・キング作品を観るでしょう。
デスゲーム映画も観るでしょうし、スラッシャーホラーやサイコスリラーにも惹かれると思います。
爽快感はない。
後味も決していいとは言えない。
人間の弱さや残酷さ、そして観る側の心理まで映し出してしまう。
だからこそ、スティーブン・キング作品は何度でも観たくなってしまうののかなぁと思います。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしくお願いします。頂いたチップは書籍代、映画チケット等に使わせていただきたいと思います。
