AI使える側。でも、最初からじゃない。 ― 楽しかったから、続いただけ。
最近、読んだ記事をきっかけに、
こんなことを考えた。
生成AIって、
言語化がうまい人だけのものなんじゃないか。
的確な指示が出せる人だからこそ、
「便利になった」と感じられるのではないか。
もともと効率よく仕事ができる人が、
さらに加速しているだけなんじゃないか。
そんなふうに思った日もあった。
① 私はいま、使えていると思う
いまは、文章の構造は自然と整う。
動画生成も、失敗しながらでも楽しめている。
たぶん私は、「使える側」なのだと思う。
でも——

② 最初は、本当にぐちゃぐちゃだった
曖昧な指示。思った通りに出ない出力。
何度もやり直した。
でも、不思議と怖くはなかった。
「便利なアプリを見つけた」感覚だったから。
デジタルでうまく絵が描けない私にとって、
言葉だけで思い描く作品が形になるのは、
ただただ、楽しかった。
③ 差をつくったのは、能力じゃなかった
きっかけは、推し活のAIファンアートだった。
言語化が特別うまかったわけじゃない。
完璧なプロンプトが書けたわけでもない。
画像生成から始まり、
日常の調べものへ、
そして仕事へ。
段階的に使えるようになったのは、
たぶん——
楽しかったから、続いただけ。
それだけだった。
④ 5年後も、ちょっと苦手な人の隣に
AIが当たり前になったとしても、
「ちょっと苦手」と感じる人は、きっといる。
そのとき私は、できる側に立つよりも、
隣に立つ人でいたい。
だから、続けている。
今も。
もし、今ちょっと苦手でも。
それでも大丈夫だと思う。
あなたは、どうですか。
※このnoteは、AIとのつきあい方を4コマとエッセイで綴るシリーズです。
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