【連載小説】 ともだち Chapter2
※ Chapter1はこちら。引き当てたカードの情報の後に、本編が始まります。長編の予定です。
病院を後にして少し歩いたところで、香夜はスマホを取り出して、電源を入れた。すると直後に電話が鳴り始めた。あまりのタイミングに彼女は驚き、スマホを取り落としそうになりながら、画面に目を落とし、発信者を確認した。電話の相手は相棒の土井涼介だった。香夜よりも三年先輩で、二人は昨年からタッグを組んでいる。
香夜は急いでイヤホンを装着すると、通話ボタンを押した。
「土井さん!驚かさないでくださいよ!心臓が止まるかと思いましたよ!」
「なんで?」
「なんでも何も、スマホの電源入れた途端に電話鳴らすとか、神がかってますよ。もしかして、私のストーカーですか?」
「…お前をストーキングして何が楽しいんだか…それにな、わざわざ狙ったわけじゃないぞ、さっきっから何度も電話してる。捜査の一環としての見舞いなんだから、いちいち病室内で電源切んなよ。消音でいいだろうが…」
「すみません。」
とりあえずそう言いながら、香夜はスマホの着信履歴を確認して、目を丸くした。今回の着信の前に少なくとも三回はかけていたらしい。留守電が三回記録されていた。
「この短時間にこんなに…これじゃ、もう完全にストーカーですよ!」
「お前なぁ…素性不明の人間のところに一人で行かせているんだ。相方としては責任があるだろうがよ。本来なら二人で行くところを、相手を緊張させないために年齢が近い自分が一人で行ったほうがいいなんて無茶なアイデアを上司の目の前で出しやがって…承諾する上司も上司だけどよ…」
「心配してくれてたんですね。ありがとうございます。」
「今頃かよ…で、昨日と同じ場所に車止めてるから、早く来い。」
「はい!」
そう言って、すぐに電話を切ってスマホをカバンにしまうと、昨日と同じ場所、角を曲がって100メートルほど先にある歩道橋まで、香夜は嬉しそうに小走りで向かった。
角を曲がると昨日同様、歩道橋の少し手前に慣れ親しんだシルバーのセダンが停車しているのが見えた。香夜は足取り軽く近づくと、後部座席の扉を開けて中に入った。
バックミラー越しに土井は香夜と目を合わせると、眉根を寄せて一つため息をつき、目を逸せて鏡をずらした。香夜は申し訳なさそうな表情をして、下を向いた。
「いつまで、後ろに座る気だよ。いい加減、助手席に座れよ。」
「でも、そこの席は、溝口さんの席です…」
「もう…いねぇよ…。」
二人の会話が途切れた。溝口は香夜の前に土井とタッグを組んでいた刑事だった。香夜が配属されていた派出所の管轄で事件が起きた際一緒に働いたことがあり、それ以来溝口は香夜の憧れの存在だった。しかし、二年前、プライベートで外出中、爆発に巻き込まれて帰らぬ人となっていた。
重い空気に耐えられず、最初に口火を切ったのは、土井だった。
「で、どうだった?病院出るまでにこれだけ時間かかったってことは、意識戻ったんだろ?」
「さすが、察しがいいですね。」
「あたりまえだ。誰に言ってんだよ…」
土井の言葉に、香夜には少し笑顔が戻った。肩からずり落ちかけていたバッグを外して、座席に置くと、座り直してから上半身を前に屈め、助手席の背もたれに手をかけて、土井に少しだけ体を近づけた。
「…意識は戻っていたんですが…」
香夜は病室の様子や、病室での会話、そして、相手の男の印象についての詳細を土井に伝えた。彼は少し厳しい表情をして頷きながら報告を聞き終わると、顎に手を置いて俯いた。
「なるほど…記憶がない以外は普通の青年か…まあ、収穫なしってことかな…」
「あ、でもですね。話し方が少し気になるんです。」
「話し方?」
「はい。」
香夜は男と交わした数少ないやり取りを一つ一つ思い出しながら、続けた。
「なんていうか…誰かに指図されているような。何か口止めされているような、そんな口ぶりが見受けられたんですよね…。」
「誰かとすでに接触しているなんてことはないよな?」
「それはないと思います。今朝意識が戻ったばかりで、ICUを出ることができたという真部さんの言葉は本当だと思います。それ以降は誰も訪れていません。」
「じゃ、お前が気になる話し方ってのは…例えばどんな?」
土井の問いかけに香夜は少し言葉を切って、病室での会話を頭の中で整理した。話している時の雰囲気は、現実を確かめながらといった感じで、意識が戻ったばかりだという状態を考えれば納得のいくものだった。しかし時折、話し方が誰かを意識しているような、まるで誰かに指図をされているようにも見える言葉の選び方をしていたのに、少し不自然さを感じていた。
「違和感があったのは、所持品について聞いた時と、名前を聞いた時です…」
香夜は記憶を確かめながらゆっくりとした口調で続けた。
「荷物を持っていたか聞いた時、持っていたかどうかわからないことを答えるのって、記憶喪失だったら『わかりません』とか『思い出せません』とか言う気がするんですよね…でも、彼の答えは『覚えていません』でした。それも言い方が、なんか不自然だった気がするんですよね。言われた通り言った的な…」
「ふーん、まぁ、どうかな…個性の範囲と言える気もするが…お前がいうなら可能性はあるのかな…」
『それは考えすぎだ』と土井がはっきりと言い切れないのは、香夜の勘の良さは自分よりも上を行っていると認識し始めていたからだった。メチャクチャな理由を言っているようでも、蓋を開けてみれば遠からずという経験が一度や二度ではなかった。
「あとですね、名前を聞いた時の方がもっと違和感で…『さ』って言いかけたように思ったんです。それなのに、『さぁ…名前も思い出せません…』のようになって…でも、表情が辛そうだったんで、無理させて悪かったなと思ったので、こちらから謝ったら、『僕こそすみません。何も言えなくて』って言ったんです。『何も言えなくて』って…記憶がなくて答えられないんじゃなくて、言えない何かがあるように聞こえませんか?多分、記憶がないなら、『何も思い出せなくて』とか、『わからないことばかりで』とかになりませんかね…」
この部分については、土井も少し違和感を覚えた。『言えなくて』という言葉の選び方から考えると、言いたいが言えないというようにも聞こえる。さらに、この男が正直な人だという印象を受けたという香夜の情報を踏まえれば、やはり何か記憶がない以外の理由を抱えているように思えた。
「一応、明日も病院に行ってみるつもりですが、とりあえず、今日のところは以上です。明日は、電源切らないようにして病室に入りますね。」
「頼むわ…電源入っているだけでも俺の気苦労が一つ減る。」
そういうと土井は口元に笑みを浮かべた。それを見た香夜は申し訳なさそうな笑みを浮かべると、後部座席の背もたれに背をつけて、一つ息をついた。報告を終わらせた達成感だった。
「よし!じゃあ、遅めの昼でも行くか?」
土井の言葉に香夜は目を輝かせながら勢いよく体を起こし、運転席の方に身を乗り出した。
「もしかして、土井さんの奢りですか?」
「おう!お前の奇策のせいではあるが、今回は任せっきりだからな。愛想尽かされてコンビ解消されないように機嫌取っておこうと思ってさ。」
「またまたぁ、私なんてまだまだですよ。コンビ解消なんておこがましくて出来ません。」
香夜は人懐こい笑みを浮かべながら土井を見た。一人前として認めてもらえているようで嬉しさもあった。
「何食いたい?」
「なんでも良いんですか?」
「おう!なんでもいいぞ、良心の範囲内でな。」
香夜はその言葉に吹き出した。
「良識の範囲内じゃないんですか?」
「いや、良心だ。三年くらいのキャリアの違いじゃ、それほど給料に差はないぞ。その点を考慮しろよ。俺の懐が寒くならない程度の心遣いが欲しいってことだ。」
「じゃ、なんでも良くないじゃないですか!」
「その範囲で、なんでも良いって言ってんだよ。」
「じゃあ…牛タン!」
「牛タン!?お前の良心はそんなもんなのか?」
「え?土井さんのこと評価してるんですよ!あんまり安いランチじゃ逆に失礼かなって!」
香夜はイタズラっぽい笑顔を土井に向けた。「ものは言いようだな…」と言いながら彼は満更でもなさそうに、ニヤッとした笑みを浮かべた。彼女の機転の効いた軽口は聞いていて飽きない。
そして目を閉じて一つため息をつくと「ま、いいか。」と言って、体を前に向けた。本当のところ、『回らない寿司』とリクエストされたって、なんだかんだ言ってから連れて行っただろう。
土井の様子に嬉しそうに満面の笑みで運転席の背もたれに香夜は両手でしがみついて、顔を土井の横に出した。
「土井さん!今からならランチの時間ギリギリ間に合いますから、お財布に優しいですよ!すぐ出発しましょう!!」
「じゃあ、いくか!ちゃんとシートベルトしろよ。」
「はい!」
香夜は後部座席の背もたれに背をつけると、シートベルトを掛けた。準備が整ったことをバックミラーで確認すると、土井はすぐにエンジンをかけハンドルを切った。
秋風を受け、葉がまだらに染まりかけている並木道に男はいた。心地よい向かい風を全身に受け、少し長めの髪の毛を揺らしながら足取り軽く歩いていた。
『どこにいくの?』
狭山の不安そうな声が頭の中に響いた。その声は何かに怯えているような響きを含んではいるが、もはや黙り込むことはできない状況になっている事がうかがえて、男は作戦が成功した事を実感していた。
面倒見のいい狭山のことだ、もし万が一、彼が原因で何かが起きる可能性があるのであれば、向こうから忠告してくるだろう。多少、強硬手段ではある。しかし、男にとっては、病院でじっとして悶々とするよりもずっと良かった。
「どこにいくか気になる?」
『まぁ…』
「そのうちわかるよ。」
男が運び込まれた病院は、行政関係の建物がたくさん建てられているエリアの一角にあった。大きな建物と、のびのびと枝葉を伸ばして大きく育った欅並木が数百メートルにわたって続くこのエリアを、こんな風に歩くことができる日が来るなど、夢にも思ったことがなかった。
あまりの心地よさに男は何回か大きく深呼吸して、空気の味を確かめた。生まれてからずっとこの街を離れたことがなかった男にとっては慣れ親しんだ場所であり、事件前となんら変わることはなかった。街並みも、風の匂いも、何も変わっていない。だが、全てが新鮮に感じられるのは、この新しく手に入れた体のおかげだろうか。
外から見た自分が全く別人であるという現象は、道ゆく間あちこちにあるウィンドウやミラーで確認するうちに徐々に実感を伴って見慣れていった。
自分はよく知り尽くした街並みの中を歩いているのに、周りから見れば外から来た人間が歩いているようにしか見えない。そう考えると、とても不思議な気もしていた。
「あんたはこの街良く知ってんだね。」
「うん…逆に、ここしか知らないって言った方がいいかもな。2泊3日ぐらいの旅行はしたことあるけど、車で行ける範囲しか行った事ないんだ。」
「オレは車で旅行もないよ。ここに来たのが一番の遠出…」
「え?」
男にとって、狭山の言葉は意外だった。今この体で歩いている感覚からいって、事故による痛み以外は全く問題がないと言っていい。とても良く動く、運動神経が良さそうな体だ。
こんな体があったならもっとたくさんの事ができるし、色々な場所に行けるものではないだろうか。男は狭山の言葉に少しの違和感を感じた。しかし、同時に親しみも感じた。自由に動く体があっても、制限があるものなのだと知り、ある意味で自分の状況と似ているのかもしれないと感じたのだった。
そんな話から始まり、街中を歩きながら時間が経つにつれ、狭山は気を許してきたのか、ポツリポツリとこの街のことについて男に質問し始めた。歩いて15分も経つころには、ICUで初めて話をした時のような語り口調に、すっかり戻っていた。
すると、突然彼は『あっ』と何かに気づいたような声をあげた。
「何?」
『あんたの名前を聞いてなかった。』
狭山に言われて男は笑った。朝から色々なことが起きすぎて、すっかり名乗りそびれていた。
「僕は、加賀暁人。今更だけど、よろしく。」
幸い周りに誰もいなかったが、暁人は独り言のように見えている姿を想像して苦笑いした。
先ほどから何度か心の中で狭山に語りかけてはみたものの、全く聞こえないようだった。逆に彼からも何度か挑戦してもらったが、彼の心のつぶやきが聞こえることはなかった。結果として、そういうものなのだと二人は理解し、声に出して話しかける方法にした。
しかし、この方法の場合、狭山の言葉は外に聞こえることはないが、加賀の言葉は普通に音を伴って発せられる。周りから見ると、加賀が精神的に問題を抱えているように見えなくもない。そのため、狭山に話しかける時には、加賀は周囲に細心の注意を払いながら声を顰めて語りかける必要があった。
途中からそれに気づいた狭山はそれを面白がって、色々な質問を加賀に投げかけるようになっていた。少し周りの目を気にしながら話す必要はあるものの、加賀にとってこの状況はある意味、最初彼が目指したゴールに近いものではあった。
「加賀くんか…いや、加賀さんかな。多分オレより年上だよな。」
「暁人でいいよ。」
「そうなの?」
「うん、みんな名前で呼ぶから。」
「そうか…自分の名前…好きなんだ…」
濃い影が加賀の頭の中に広がった気がした。狭山が名前を言いたくないことと、この彼の発言は関連があるのだろう。漠然と感じた。背景はわからないが、その声色からは先ほどまでとは打って変わって、ポジティブな印象は全く感じられなかった。
「好きなのかな…考えたことなかったな…でも、嫌いって思ったことはないかな…」
「ふーん…」
「僕はさっきから何となく君のこと『狭山くん』て呼んでるけど、この呼び方でいい?」
「…オレは…」
そう言うと、狭山は黙ってしまった。加賀はやってしまったと心の中で後悔した。やっと開きかけた狭山の心が閉じかけたのを見て焦り、つい質問してしまったのだ。この状況を打開するいいアイデアが浮かばず、加賀も言葉を続けることができず、二人の間には沈黙が生まれた。
振り出しに戻ってしまったかもしれない。どんな言葉を繋げたところで、受け入れ難い状況に陥っているのかもしれない。状況がはっきりと読めず、加賀は少し諦めに近い感覚になった。
「暁人が…付けて?」
「え?」
「名前。」
突然の狭山の発言に加賀は一瞬面食らった。
名前を付けてくれと言われるとは 全くの想定外だった。それだけ、心を許してくれたと言うことかと嬉しくなる反面、更に深い闇を彼の後ろに見た気がした。
「名前つけるの、初めてでどうしたらいいか…」
「どんな名前になるか…楽しみ…」
「本気?」
「…うん…」
狭山に何があったのか。名前をつけるよりもそちらの方が気になった。しかし、加賀は質問したい気持ちをグッと抑え込んだ。
狭山が加賀に対して心を開き始めているのが明らかだ。この分ならばおそらく、質問をしなくても、話してもいいと思えるタイミングでいずれ向こうから話し始めるだろう。加賀はそう自分に言い聞かせた。
名前を新しくつけることを本当にワクワクしている様子で、先ほどよりも明るい声が頭の中に響いた。
「アキトのアキはどの漢字?」
「僕のは『暁』っていう字だよ。」
「ああ、夜明け?」
「そうだよ。良く知ってるね。」
「中学の時やった。」
「あ、ということは、君、中学生じゃないんだね。」
加賀はそれとなく、年齢の目安をつけるために話を振ってみた。
「え、中学に見えるの、オレ?」
「童顔だよね。」
「マジかよ…って言っても、まだ未成年だけどさ…まぁ、今年卒業したばっかだからそう見えるのかな…」
高校に行っているとすれば狭山は高一だ。義務教育は終了しているとはいえ、成年するまでには、まだ二、三年ある。保護者がいるはずだ。捜索願いが出ていてもおかしくない。だが、未だに身元が判明していないことを加賀は不思議に思った。
昏睡状態は六日間あった。さらには、事故は早朝だ。その時間に彼があそこにいたということは、夜行バスで移動してきたのだろう。そう考えれば、移動日に最低一日あるはずだ。少なく見積もっても、一週間も行方不明になっているということになる。高校生が一週間音信不通の状態で姿を消したら、普通の環境であれば、捜索願いが出され、意識が戻るまでの間に身元が判明していてもおかしくないのではないか。
狭山に聞きたいことは先ほどからさらに増えたが、とりあえず今は彼の名前を決めることに集中することにして、加賀は自らの好奇心を心の奥に押し込めた。
「まぁ、大人になったら若く見えていいかもね。」
適当な加賀の返しに対して、狭山は鼻で笑った。
「そんな風に思えるようになるまで、まだ何十年もあんじゃね?…あ、そうだ。オレの名前、暁人と出会ったことを絡めてよ。」
「どうやって?」
「うーん、例えば季節とか、時間帯とか…」
「秋とか早朝をってこと?」
「まぁ、そんなとこかな。」
「でも、それ、全部僕の名前に絡んでるよね…『秋』ではないけど音はアキだし、『暁』は早朝よりも少し早い時間帯だけど、夜明けに近いっちゃ近い…」
「確かに…」
「ああ、じゃあ…この際思い切って、ICUとか?」
「……オレ真面目にお願いしてんだから、ちゃんと考えてくれよ…」
狭山は不機嫌な声を出した。本気で名前を考えてほしいと思っていることがはっきりわかり、加賀は申し訳ないという気持ちと同時に姿勢を正した。
「ごめん。じゃ、伝言ゲーム的に考えて…早朝の『早』を『ソウ』か『ハヤ』って呼んで、別の漢字を充てるってどう?」
「あんた、天才!そうしよ。」
「じゃ、何の漢字がいいかな…結構色々あるよね、漢字…」
「オレね、アキトの『ト』が欲しい。」
「僕の名前から一字ほしいの?」
「うん…オレ、兄弟いなくてさ…暁人みたいな兄弟いたらいいなって…話してて楽しいし…『ト』が一緒だと、兄弟みたくね?」
加賀は悪い気はしなかった。狭山のような弟がいたら楽しいだろう。まだまだ気になることはたくさんあるが、基本的に彼は悪い人間ではないし、会話は楽しかった。今まで一般の人と話をしてこんなに楽しかった記憶はなかった。
「じゃ…『ソウト』はあんまり聞かないから、『ハヤト』の方がいいのかな…どう思う?でも『ハヤト』だと、今の名前と似てない?」
「確かに…」
苦笑いしているのか、少し罰の悪そうな、そして忌々しげな声が頭に響いた。
「じゃ、「H」取ろう。」
「Hを取る?」
「アヤトはどう?」
「すげぇ!それがいい!!しかも二文字も一緒!」
大喜びの声が頭いっぱいに響いた。病院を後にした時からは想像がつかないほど、狭山は生き生きしていた。加賀は嬉しくなり自然と笑みが溢れた。
加賀は進行方向を突然変えて、横にあった公園に入ると、地面に落ちていた小枝を拾ってしゃがんだ。
「どうしたの?」
アヤトの質問に加賀は答えることなく、砂っぽい地面に漢字を三つ書いた。どれもアヤと読める文字だった。すると、一番最初に書いた文字を加賀は小枝で指した。
「この『彩』は僕の初恋の人の名前だから、ダメ。」
そう言うと、加賀はその文字を手で優しく撫でて消した。
「マジ?暁人の初恋?」
「ああ、まぁ、それは置いておいて。『綾』と『絢』どっちがいい?」
加賀は柔らかい表情で、アヤトの質問に答えることは避けつつ、二つの文字を交互に指し示した。
もっと初恋について質問したかったが、今は加賀の質問に答えて名前の漢字を決めた方が良さそうだ。アヤトは二つの文字を見比べた。
「うーん…『絢』って豪華絢爛の絢だよね…ちょっと重いから、『綾』がいいな。」
「漢字に詳しいんだね。」
「記憶力だけはいいんだ。」
その時、幼児連れの親子が二組入ってきた。加賀は独り言を話していると勘違いされないよう声のボリュームに配慮しながら「よし、じゃ決まり!よろしく、綾人。」と囁くと、握手やハイタッチをする代わりに右手を静かに左胸に当て、小枝を地面に置いて立ち上がった。
「ねぇ、DAPって知ってる?」
綾人からの不意の質問に加賀は首を傾げた。聞き慣れない言葉だった。
「NBAの選手とかがやるハンドシェイクみたいなやつなんだけど、ハイタッチとかフィストバンプとか握手組み合わせた仲間内でやる感じの…」
「ああ、あの、チームメイト同士でやる複雑な手遊びみたいなやつ?」
「手遊びって…」
綾人のカラカラとした笑い声が頭いっぱいに響いた。つられて加賀も、手で顔を覆いながら笑みをこぼした。野暮な物言いをしてしまって恥ずかしかった。しかし、それ以上に、周りから見たら一人で笑っていると思われているかもしれないと気づき、余計に可笑しさが込み上げてきた。
これ以上公園にいたら、親たちに不審者に思われるに違いない。顔を覆ったまま加賀は足早に公園を出た。加賀の気苦労をよそに、綾人は楽しそうに続けた。
「オレね、あれやるの夢なんだ…」
「あ、そう言えば僕、映画の中でもDAPやってるの見たことあるな…その映画では兄弟でやっていたよ…」
「暁人とやりたかったな…さっきみたいに、オレにいい名前つけてくれた時とかにさ。達成感を二人で味わう的な感じで…」
「一緒にできる方法、何か見つかるかもしれないから、諦めるのはまだ早いよ。」
「すげぇ。暁人って前向きだよね。」
そこからはさらに会話が弾んだ。加賀は時折、声を顰めて話すことを忘れるほどだった。
しかし、話の主導権は常に綾人が握っていて、話に一区切りつくたびに、すぐに次の質問を加賀に投げかけた。それはまるで、加賀から質問されらことを恐れているようだった。
だが、全く自分のことを話さないわけではなく、加賀の話に繋がりがありそうな内容で、個人情報に関係がないことはポツリポツリと話すようになっていった。
「オレ、結構運動神経はいい方でね…」
「何かスポーツやってるの?」
「全然…見る専門だな…」
話の途中で突然、加賀は足を止めた。目的地に到着した。彼は周りを見回した。壁の近くの電柱のところには、たくさんの白や水色の淡い色の花束が置かれていた。
綾人もすぐにその場所がどこなのかがわかった。二人はしばらく無言でその場に静かに佇んだ。柔らかな秋風が優しく体を撫でていった。
「ここって…」
「そう…僕らが出会った場所だ…」
六日前の早朝、ここで二人は出会った。事故に巻き込まれるという形で。そして、そこは、加賀が綾人を突き飛ばし、肉体を失った場所だった。
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