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追悼 美輪明宏 〜多様性の先駆者

私は東京の下町で生まれ育ち、高校も東京の東側(下町)から多様な人間が集まる都立高校に通っていました。

そこには特定の主義や宗教、個人の特性、生い立ちなど、異なる背景を持つ仲間が数多くいました。私のスタンスはシンプルで、自分の領域に踏み込んでこない限り、どんな背景があろうが友人としてフラットに付き合う、というもの。もし入り込もうとする人がいれば、「そこは自分の領分だから」ときっぱり拒みましたし、それでも距離感を測れない人とは付き合わないようにしていました。

都立高校ならではの自由で多様な空気感。それが、その後の私の生き方の基礎になったことは間違いありません。相手の思想やバックグラウンドがどうあれ、一人の「人」として向き合う。その代わり、互いの不可侵領域は守る。

この価値観は、子育てにもそのまま反映されました。子どもに対して「お金は出す。だからやりたいことがあるなら、自分で考えて選びなさい」と言い切り、親の価値観を押し付けることは一切しませんでした。周囲からは「放任」と見えたかもしれませんが、自分で思考し、自立した大人になってくれた今、あの教育方針は間違っていなかったと確信しています。まあ、かみさんも同じ下町育ちで都立高校の出身。共通認識があったからこそ、こうした方針を貫けたという側面もあります。

とにかく、高校の校是だった「自主性」は、今も私の中に深く息づいています。

▼バラ色の人生 - 美輪明宏

■多様性
この「自主性を重んじる」姿勢は、音楽への向き合い方にも通じています。特定のジャンルに縛られることなく、「自分が良いと感じる音楽が好き」というスタンスです。高校のバンド仲間も「この曲、最高だからやろうぜ!」と、やりたい曲をひたすら耳コピするような自主性に溢れていました。

しかし卒業後、別のバンドをいくつか経験する中で、少し毛色の違う人たちにも出会いました。「市販のバンド譜(楽譜)があるから、この曲にしよう」というアプローチです。「いや、楽譜があるかどうかじゃなくて、やりたい曲をやろうよ」と、幾度となく伝えたことか。既製品の枠に収まろうとする演奏スタイルに、私はどうしても拭えない違和感を抱くこともありました。

そんなわけですから、日本のフォークや歌謡曲から、クラシック、洋楽ロック、ジャズ、R&B、レゲエ、ラテン音楽など……良いと思った曲はジャンルを問わず貪欲に聴いてきました。たまに「ジャズとはこうあるべき」や「ロックとは」と型にこだわる方にも接しましたが、自分のスタンスとは違うなと思いつつも「そういう考えもあるよね」と受け流し、余計な議論はせず、ただ相槌を打つ大人の会話をしていた気がします。

結構私に「ポリシーがない」など言う人もいました。それはそれで内心嫌な思いもしましたが……。ポリシーがないのもポリシーです。

また、かつて演劇の音楽を担当していたとき、メイク担当にゲイの方がいたり、俳優にレズビアンやシングルマザー、障害を持つ方などがいたりしました。メキシコ料理の店で働いていたときも、とても優しいゲイの方が職場にいました。今でいうLGBTQ(当時はそんな言葉はありませんでしたが)の方々とも日常的に接する機会が多かったため、世間にまだ強い差別意識が残っていた時代においても、私は特に気にも留めていませんでした。

ただ一度、新宿のサウナでゲイの方に誘いとして声をかけられたときは、「ちょっと私はそちら方面ではないので、ごめんなさい」と丁重にお断りしたことがありました。それでも、きちんと意思表示をすれば、それ以上のことはありませんでした。やはり、互いの領域を侵さないことが大切なのだと思います。

ちょっと枕が長くなりすぎました。ここから追悼の意も込めて、先日亡くなられた美輪明宏さんの話をします。

▼愛しの銀巴里 - 美輪明宏

■生い立ち
日本芸能界の「多様性」の先駆者として、真っ先に名前が挙がるのが美輪さんだと思います。

美輪さんは私の母親より1年早い1935年、長崎県に生まれました。4歳のときに養子に出され、丸山姓を名乗るようになります。ご実家は、かつて坂本龍馬率いる海援隊(亀山社中)も出入りしたといわれている「丸山遊廓」の近くでカフェや料亭を経営しており、ビジネスで成功を収めていました。

美輪さんはこうした非常に豊かな、そしてさまざまな文化や人々が交差する環境で幼少期を過ごされました。美輪さんの中に息づく「多様性」のベースは、間違いなくこの場所で育まれたのだと思われます。

しかし10歳のとき、長崎への原子爆弾投下によって、一家の運命は一転します。戦後の混沌とした社会の中で、それまでの豊かな暮らしから一変し、厳しい貧乏生活を余儀なくされてしまったのです。

中学時代、たまたま映画で観たボーイ・ソプラノの声に衝撃を受けた美輪さんは、長崎で声楽とピアノのレッスンを始め、1950年に国立音楽高等学校(現在の国立音楽大学附属高等学校)を受験、合格を機に上京します。しかし、実家からの仕送りを止められたことで、中退を余儀なくされました。そこから自活のために進駐軍のキャンプでジャズを歌い始めたことが、歌手としてのキャリアの始まりだったそうです。

その後、複数のアルバイトを掛け持ちする日々が続きます。そんなある日、銀座にある名門シャンソン喫茶「銀巴里(ぎんぱり)」の『ボーイ兼歌手』募集の張り紙を見て応募。1956年に専属契約を交わすと、その境界線を超えたユニセックスな歌姿で瞬く間に人気を博し、三島由紀夫をはじめとする当時の最先端の文化人たちから熱狂的な支持を得るようになります。若い頃の美輪さんの写真を見ると、本当に、息を呑むほど美しいです。

私も「銀巴里」での美輪さんのシャンソンやパフォーマンスを見たかったですね。

▼メケ・メケ(ME-QUE ME-QUE)(1957年) - 丸山明宏

■俳優として
1957年、シャンソン「メケ・メケ」の日本語カバーが大ヒットを記録。そこから俳優としても活躍の場を広げていきます。この頃はまだ本名の「丸山明宏」を芸名にしていました。ある年代以上の方にとっては、「美輪明宏」という名よりも「丸山明宏」のほうが馴染み深いのではないでしょうか。

1965年には、美輪さん自らが作詞作曲した、友人の亡き母を回顧する歌「ヨイトマケの唄」をリリースします。同性愛者であることをカミングアウトしたことで一時期低迷していた人気は、この歌をきっかけに再び爆発的な脚光を浴びることとなりました。

しかし、歌詞の中に差別用語(とみなされた表現)が含まれているとして、日本民間放送連盟の「要注意歌謡曲」に指定されてしまいます。以降、民放の電波で流れることはなくなってしまいました。最近では桑田佳祐さんや泉谷しげるさんなど、さまざまなミュージシャンがカバーして歌い継いでいるため、当時の厳しい規制の空気も今ではどこか曖昧になっているように感じます。

一方で、舞台俳優としての美輪さんも凄まじい足跡を残しています。寺山修司の「劇団天井桟敷」への参加や、江戸川乱歩原作・三島由紀夫脚本の舞台『黒蜥蜴(くろとかげ)』での主演など、アングラから商業演劇まで、舞台を中心に圧倒的な存在感を放ちながら、映画やテレビドラマの世界でもその唯一無二の才能を発揮していくのです。

▼ヨイトマケの唄(1965年) - 丸山明宏

■美輪明宏誕生
私は小学生の頃から、テレビを通じて美輪さんの存在を知っていました。
ただ、その当時はどちらかというと、美川憲一さんやピーター(池畑慎之介)さんと同じような「キャラクターの濃い芸能人」という括りで、幼心に眺めていたように記憶しています。しかし後になって歴史的に振り返れば、美輪さんこそが全ての先駆者であり、おすぎとピーコさん、ミッツ・マングローブさん、マツコ・デラックスさんらへと続く、日本の芸能・文化界における多様性の「礎」を築いた方だったのだと分かります。

当時は今よりも遥かに世間の偏見や風当たりが強く、想像を絶する苦労があったはずです。しかし、美輪さんの周囲にいた人々の顔ぶれ――三島由紀夫、江戸川乱歩、吉行淳之介、大江健三郎、川端康成、澁澤龍彦、中原淳一、遠藤周作、なかにし礼、東郷青児、横尾忠則、寺山修司、蜷川幸雄といった、日本の文学・芸術界の巨星たちの名を見るだけで、美輪さんが自らの生き方や存在そのものを、いかに高次元の「芸術」へと昇華させていたかが分かります。

なかでも三島由紀夫との関係は深く、互いの魂の領域まで理解し合った、唯一無二の同志だったようです。1970年、三島由紀夫が衝撃的な自決を遂げた翌年の1971年のこと、美輪さんが三島由紀夫を供養するために読経をしていた最中、頭の中に突然「美輪」という二つの文字が浮かび上がったといいます。

気になって姓名判断で画数を調べてみたところ、「完全無欠」といえるほど非常に素晴らしい運気を持つ組み合わせであることが判明しました。このスピリチュアルな体験が決定打となり、1971年、正式に「美輪明宏」への改名を発表することになります。こうして、私たちがよく知る「美輪明宏」が誕生したのです。

▼黒蜥蜴の唄(1968年) - 丸山明宏

■スピリチュアルと人生哲学
私の回りにも美輪さんのファンは多く、私の母親や義理の姉などはよくコンサートに足を運んでいたようです。

美輪さんは2000年代に入ると、江原啓之さんとともにテレビ番組などを通じて「スピリチュアル・ブーム」を牽引されていました。「死とは肉体がなくなるだけで、魂は永遠である」という死生観のもと、霊的なメッセージや、愛、そして美意識の大切さを説き続けました。混沌とした現代社会において、そのメッセージによって救われたという方も本当に多くいると思います。

私自身はといえば、霊的なものやスピリチュアルなことには全く馴染まない性分です。そのため、当時の美輪さんの番組もあくまでエンターテインメントとして眺めていたのですが、不思議と嫌な気持ちにはなりませんでした。美輪さんから発せられる言葉は、単なる霊能力によるものではなく、ご自身の波乱万丈な人生経験に裏打ちされた「確固たる人生哲学」だったからではないでしょうか。霊的な存在を信じるか否かを超えて、私たちは美輪さんの紡ぐ「言葉の力」そのものに惹きつけられ、時代を共有していたのだと感じます。

だからこそ、巷にある他の辛口な人生相談よりもすんなりと耳を傾けられましたし、説教くささを感じさせない上品な印象が残っているのです。私個人は占いの類も苦手ではありますが、美輪さんの言葉によって心がポジティブになり、明日を生きる活力が湧いてくる人がいるのであれば、それは本当に素晴らしいことだと思うのです。

また、長崎で被爆し、戦争によって人生を狂わされるという壮絶な体験をした美輪さんが最期まで訴え続けたのは、「愛」と「平和」の尊さでした。亡くなる直前に直筆メッセージに記されていたのは、簡潔にして万感の思いを込めた一言でした。

こんな世の中を生き抜く武器は愛の言葉しかありません。
この世のすべての問題を解く鍵は愛です。
愛があれば戦争なんか起こりません。

美輪明宏 最後のメッセージ:公式サイトより

平和を願い、差別と戦い、迷える人々の心に寄り添った91年。美輪さんが残した「愛の哲学」は、これからも時代を超えて、私たちの心の中で生き続けることでしょう。

いろいろな側面があった美輪さんですが、私個人としては「歌手」としてのアイデンティティーが非常に強いです。ご冥福をお祈りいたします。

▼愛の讃歌 - 美輪明宏


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