寒さ残る日々~俳句三句
寒空に曲がりくねって竹伸びる
草木の枯れた雪の中でも、常緑の緑は輝いている。
竹は緑が少し色あせたとしても、緑を残して揺れている。思えば去年の春に芽を出したばかりの竹も、ぐんぐん伸びて、今では一本の竹となっている。けれど、まっすぐ伸びたかというと、そうではない竹もある。途中で曲がった竹も、また軌道修正して上へ上へと伸びてゆく自然の力。
もうすぐすると、今年も竹の子が芽を出す。筍ではなく竹の子というべき新しい命が生まれてくる。
生きているものは、自分の命を新しい命につないで連続している。
人間は、自分とは血がつながっていない人間にも、自分の思いを伝えることができる。こうしてnoteに書いて誰かに向かって何かを伝えようとする。
そんな人間の営みから文化というものが伝わっていく。
足下に桃の絨毯山茶花や
春の木という椿の花は、ポトッとまるごと落ちていくが、冬に花咲くサザンカは、花びらを一枚一枚落としてゆく。椿のような真っ赤な花より、淡いピンクがかった花が多い。そんな花が桃色に地面を染めていた。
桃は果物の桃ではなく、文化的に桃色といわれるピンクのことだ。桃色は今は白桃の多い桃の実の色というよりも、桃色は桃色で、桃の実とは別の言葉となっている。
今まで生きていた名残の花びらではあるが、花が散れば新しい命の実ができる。椿もサザンカも同じような実をつける。
花は開いて、実をつけて散っていく。それが自然の営み。
赤い実が灰色の中で自己主張
秋から冬へと草木が枯れ、灰色の世界になる。まだ春の緑も見えない中で、秋に実った赤い実がパッと目に入る。もうすぐ春になれば、この実も見えないようにあたりは緑に覆われる。毎年繰り返される自然の営みは、人間の喜怒哀楽とは関係なく、今年も繰り返されている。
灰色の中にある赤は、遠くからでも目をひく。小鳥にとっては赤い色は食料として命をつなぐものなのだろう。
人間にとっても、森の緑が心安らげる場所として認識されているが、その緑の中にある赤い色は、これまた原始の人間の命をつなぐ果物の色だった。
だから原始から続く私も赤い色がすぐに目についた。
赤い実は赤い実で、自分をみつけてほしい。自分を食べてほしいと思っている。食べられたらどうなるか。鳥や動物が糞をすると、その中に種がある。親とは離れた場所に新しい命を生み出すことができる。動くことができない植物が移動し、分布を広げることができる。
互いに命をつなぐための赤い色でもある。
自然とともに生きて来た日本人が、自然を歌った俳句をつくってきた。
毎日の通勤の道で、ふと周りを見ると、いつもは気づかずにいた自然が、今の季節を示している。そうか、俳句の季語は季節を示すためのものだった。季節の変化を歌うのが俳句なのだ。自然の変化を見ながら、まったく当たり前のことを改めてしみじみ思った。
自然を見てはっとする。
久しぶりに五七五を詠んでみた。
