草双紙年代記①~黄表紙に至る江戸絵本の歴史
草双紙とは、江戸時代に発行された絵入りの本。子ども向けのものが中心だったが、遊里をあつかった大人の絵本として黄表紙がうまれた。
道ばたの草のようなものだという卑下した名称でもあっただろう「草双紙」というのと同じように、当時の文芸は「戯作」といわれた。漢詩や和歌のような高級なものではなく、戯れにつくった作品だという、これまた卑下した名称となっている。
身分社会の江戸時代において、上級職につけない下級武士や、士農工商の一番下になる町人が、自分たちを卑下して創作していたのだろう。
こんなつまらないものだけど、どうだ、すごいだろう。百年後には、絵入りの作品、マンガは芸術になるぞ。マンガ原作の映画やドラマもたくさんつくられるようになるぞ。勲章だってもらえる。
当時の作者は、そう思っていたのかもわからない。
「草双紙年代記」は、岸田杜芳(?~?)作、北尾政演(山東京伝、1761~1816)画で、天明三年1783和泉屋市兵衛刊行の上下二巻の黄表紙。
草双紙の歴史を、その挿絵からたどる年代記。
それを二回に分けて現代語訳(かなりの意訳)して紹介する一回目。
上巻
序

寄ってらっしゃい見てらっしゃい。古くさい趣向と新しい通なこと、あれやこれやを岸田杜芳が自慢げに、「これを見よ」と投げてくれば、眠気覚ましになるだろうと見れば、何の訳にも立たぬもの、「わからねえ」と投げ捨てれば、通人に、「不通不通」と笑われるので、通人以外は見ないでね。
天明三年初春
南杣笑楚満人
岸田杜芳戯作
さればとて香はうつされず梅暦
一 鱗形屋孫兵衛発行の黒本、青本の鳥居清信、清倍らの絵をまねる

第五十七代陽成天皇の御代、天下日照りして、万民おおいに苦しみ、雨乞いをすべしと、小野小町を召す。
帝「いかに小町、このたびの雨乞い、首尾良くできれば、褒美は四方のあか(銘酒)か、ひきの屋のあんころ餅じゃ。合点か合点か」
そもそも小野小町と申すは、出羽の郡司小野良実の娘なり。有名な歌が多い中に、
蒔かなくに何を種とて浮草の
波のうねうね生ひ茂るらん
この歌を、はれものができたときに、三回ずつ、毎日唱えれば、傷跡もなく治るなり。
作者「草双紙のウソと思うなよ」
二 鱗形屋孫兵衛発行の黒本、青本の鳥居派の挿絵をまねて構図もまねる

そのころ、四位の少将兼連という、色好みの美男子が、いつのころからか、小町と相思相愛となり、
契りきなかたみに袖をしぼりつつ
末の松山浪こさじとは
と、関係を結ぶ。
少将「わたしとあなたの仲は、将来、市川家橘羽左衛門と瀬川路考菊之丞が歌舞伎の舞台で演じて、拍手喝采をうけるはずじゃ」
小町「おまえ様、必ず心変わりしやんすなえ。人が見ているけれど、ああ、ままよ」
小町のボディーガード般若五郎がお供する。
大友黒主は、かねがね小町に思いをよせていたが、この様子を見てむかむかする。
黒主「くそったれ。少将に先をこされた。ふてぶてしいやつめ。あいつを困らせてやろう。てんやわんやの物語が今から始まるぞ」
修験者寂莫僧都という悪僧、黒主と心をあわせ、悪事を企む。
五郎「黒主めが、あの合羽屋の看板のような面で色事とは、大木の根元で太いの根、ときたもんだ。ずうずうしいにもほどがある」
三 富川吟雪の黒本「二面凱草刈鎌」(1770)をまねる

大友黒主、恋のかなわぬしかえしに、少将を讒言して追い払い、小町を奪い取らんと騒ぎ立てる。
黒主「やれ、者ども、討って取れ」
小町のボディーガード般若五郎、二人を切り捨て、首を切り取る。
五郎「やあ、うんこらしょ」
家来「痛い痛い」
寂莫僧都は踏み殺さるる。
四 富川吟雪の青本「虚言八百根元記」(刊年不明)をまねる

寂莫僧都の一念、般若五郎に恨みを言う。
寂莫僧都の首「ヒュー、ドロドロ。うぬ、今に食い殺してやる」
五郎「坊主の首が出てきたな。首から火を吹くのも、草双紙ではおなじみさ。もう古い古い」
赤本、黒本、青本の時代の挿絵の変遷を紹介をしながら、次回につづく、
江戸時代になり、木版印刷が発達し、本も大量に印刷されるようになった。
木版だから文字を彫るだけでなく、絵もつけた草双紙はA4用紙を半分に折った大きさで、本文は五枚、十ページで一冊。それが二、三冊で終わる。
最初は昔話などの子ども向け作品で、赤っぽい表紙だったので赤本と呼ばれ、正月に多く出版された。その後、表紙の色が黒や萌葱色(こい緑)になり、黒本、青本と呼ばれ、歌舞伎のあらすじなども描かれた。
この時代は、浮世絵版画も発展したが、草双紙では、鱗形屋孫兵衛発行の黒本、青本を中心に鳥居派の絵が中心となった。
「草双紙年代記」の挿絵を描いている浮世絵師北尾政演は、黄表紙作者山東京伝でもある。彼の代表作というよりも、黄表紙全体の代表作「江戸生艶気樺焼」の現代語訳は、こちら、
この後半部分に、他の黄表紙の紹介もあるので見てほしい。
