書かずにはいられなかった。(7)
という、著者北村匡平氏がwebちくまから始まった「藤井風論 ー救済の音楽」。
16回連載予定の中、7月上旬に14回目と、先週15回目がアップされました。
まずは、第14回目「グルーヴすること」。
彼らが大切にしているのは、規模の拡大ではない。クリエイティビティを発揮できるチームの風通しのよさと機動力、そしてファンとの距離の近さである。
チーム風。
この言葉だけでも、温かみが感じられて、胸がキュンとしてしまう。
初めてグッズを購入した時、納品書の斜め上には、風くんの手書きのコメントが添えられてありました。
こんなことがあるんだ・・・

彼の活動は、本人の音楽的才能だけで成立しているのではない。その思想を理解し、翻訳し、現実のライブ空間、映像表現、ファンとのコミュニケーションへと落とし込むチーム風の存在によって、はじめて私たちのもとへ届いているのだ。
特に、マネジャーの河津さんのことを
「思想の伴走者」として、表現されてますね。
河津は、藤井風が背負わなくてもいいように、いつでも辞められるようにしている。(略)彼は藤井風にすべてをかけているにもかかわらず、藤井風を所有しようとはしない。この一見矛盾した態度のなかに、藤井風の「執着しないこと」「手放すこと」という思想にも通じる、チーム風の根本的な倫理が宿っている。
美しいですね・・・・
上記はあらゆる状況から自然に伝わってきて・・・
自然に惹かれていくのでしょうね💕
河津が第一に考えているように見えるのは、藤井風の才能をいかに効率よく収益化するかではない。藤井風の思想をいかに傷つけず、音楽を通じてハッピーバイブスを社会へと届けるかである。
これは、単なるトップダウンによるプロデュースではない。風の思想の伴走である。藤井風は、以前から音楽を通じて社会の役に立ちたいと語ってきた。
うんうん、なるほど。
風さんの曲は、もちろん・・・
チーム風によってつくられた、ステージその他の全てに感じさせられるのです。
本当に凄いことですよね...…
この奉仕/利他の実践が、もっともはっきりと形になったのが、2021年の日産スタジアムでの無観客生中継ライブだった。(略)
重要なのは、これが河津の企画であると同時に、藤井風の思想の延長でもあったことだ。河津は藤井風の代わりに考えているのではない。藤井風の思想と共に考え、それを現実の企画へと翻訳しているのである。
そうそう、無観客ライブを見た時、衝撃をうけましたね。
こんなことをしてしまう人たちが、いるんだ!!!
今、この時代に。。。
彼は完璧なスターとして君臨するのではなく、不完全さを抱えたまま、繕うことなくそこにいる。その柔らかく温かい雰囲気が、周囲の人びとを安堵させる。だからこそ、スタッフは彼を支えたいと思う。藤井風のリーダーシップとは、周囲の人が自ずと手を差し出したくなる空気をつくる力なのである。
チーム風のグルーヴは、この「想像力を働かせる」プロセスのなかで生まれている。
チーム風の活動それ自体にファンが魅了されるのは、そのためだろう。
まさしく、これからの時代の・・・
「リーダーシップのあり方」とも、いえますよね。
チーム風のケアはステージ上の演出にとどまらず、観客の多様な身体、移動、待機、食事、退場、そのすべてに及んでいる。
ライブを支えているのは、ステージ上のアーティストや演奏者だけではない。(略)
藤井風と河津は、そうした人目につきにくい人びとにも目を向ける。自分の仕事が大切にされているという実感が、人をもう一段深く動かす。これもまた、チーム風のグルーヴなのである。
観客や、ステージにかかわっている人たち。
そんな、ひとり、ひとり全てに・・・
チーム風は、きめ細やかに出会っていく・・・
藤井風の歌詞は、しばしば抽象的で、固有名詞や具体的な物語が少ない。(略)
MV監督たちは、風の歌詞にある余白を読み取り、そこに物語や身体や風景を与えてきた。抽象的な歌の世界を、映像として具現化すること。チーム風における映像表現とは視覚的メディアによる翻訳の営みなのだ。
同じことは、衣装にもいえる。風の衣装は、単なるファッションを超えている。ジェンダー感覚、宗教性、ローカル性、グローバル性、祝祭性、動物性、神性を身体にまとわせるメディアである。
風さんの思想が・・・
身の回りのすべてに、「芸術作品化」されて、表現される。
チーム風とは、藤井風という一人の天才を支える組織であると同時に、藤井風の思想そのものに仕える組織である。
チーム風のグルーヴとは、藤井風の思想を、それぞれの場所で支えあいながら現実のかたちへと変えていく、その協働のリズムなのである。
そのチーム風の素晴らしさを
もう一度、再確認させられました!!!
次に、第15回目「透明になること」。
ありのままの藤井風とは、どのような人物なのか。(略)
達観したハイヤーセルフではなく、高次の自己から叱咤激励されるほうの風、すなわち、超俗的な風ではなく、等身大の風を描き出す回となるだろう。
ありのままの、等身大の風さん。
どちらかというと、そちらの方が愛おしくて~~、いいですねぇ♪
藤井風という人物を考えるうえで興味深いのは、ステージ上で放つ圧倒的な神々しさと、舞台裏で見せる拍子抜けするほど無防備な日常とが、ほとんど矛盾なく同居していることだ。
脱力した日常とのギャップは、独特の安心感を与えている。(略)
ここにも、「遠さ」と「近さ」、「超俗性」と「親密性」を同時に体感させ、ファンの心理的な距離感を揺さぶる藤井風という人物のエッセンスが見出される。
なるほど~~!!
「遠さ」と「近さ」、「超俗性」と「親密性」が、同時になんて・・・
「心理的な距離感を揺さぶる」、なんて・・・
そうそう、そうそう、そんな感じなんです。
ことばの選択が、美しすぎます💕
藤井風は、音楽以外のことには驚くほど無頓着である。(略)
河津によれば、考え方や生き方、ベジタリアンとしての生活などにおいてその精神年齢は109歳くらいなのに、赤ちゃんのように無知な部分もある。たいして興味のないことに関しては、本当に何も知らないのである。
そこがねぇ~
たまらないんですよねぇ~~~♪
こういう方って、なかなか、いませんよねっ?!
藤井風は、その時代へのアンチテーゼともいえる飾らなさを呈示し続けてきた。もちろん、それは作り込まれた無垢ではない。風の透明性は、自己演出への執着の薄さ、あるいは見られることへの警戒心の希薄さから生まれている。
「透明性」=「執着の薄さ」 なるほど!!!!
ここで、透明性が・・・・・きました!!!
藤井風は、物怖じせず、肝が据わり、いつも堂々としているタイプではない。事実、本人も雑誌のインタビューで、自分は「凄い臆病」で「緊張しいのビビリ」だと答えている。(略)
彼が怖さや緊張を隠しきらず、脆弱な姿を見せるからこそ、「ありのまま」という言葉は、抽象的な理念ではなく、実際に生きられている態度として受け取られるのである。
「ありのまま」が、抽象的な理念ではない!!!
実際の生きられている態度・・・・・本当にそうですね。
まだ使えるものを捨てないこと。食べられるものを残さないこと。水を当然のように使い捨てないこと。どれも些細な行動に見えるが、藤井風にとっては、世界のどこかにいる他者や、人間ではない生命、身近な人から受け取ったものとつながるための所作なのだろう。
なんと・・・
風さんにとって、日常の些細な行動が
世界の生きとし生けるものと、繋がるための「所作」とは!!!
愛おしいですね・・・・
彼は上から引っ張っていくのではなく、自分の圧を消すことで、他者がそこにいられる余白を作る。その身を小さくする感覚が、藤井風の透明性を支えているのである。
「透明性」を、支えるもの。
それはご自分の圧を消して、身を小さくするという感覚が・・・
そこに居ることができる「余白」を、他者に作っている。
その居場所が、あまりにも心地よすぎるから・・・・💕
藤井風は、完全無欠であるがゆえに神的に見えるのではない。不完全な自分を隠さず、その弱さを抱えたまま、内側を磨き続けようとするからこそ、そこに愛や祈りのようなものが通り抜ける余白が生まれる。透明になるとは、欠点や弱さを消し去ることではない。藤井風が神的に見えるのは、彼が神として君臨するからではない。自分を中心から退かせ、大いなるものが通り抜ける場所になること。そして、その透明さによって、みんなのなかにある神的なものを思い出させるからである。
自分を中心から退かせ・・・
大いなるものが通り抜ける場所になること・・・
そして、風さんのその透明さによって
私たちの中にある「神的なものを思い出させる」。
本当に風さんの存在の全てが
「役に立つ」生き方、そのものを実践されてますよね。
あぁ~、美しすぎます♪
次回はついに、最後の回になりますが…..
この間、風さんへの熱い想いが、深く深く心に沁みわたり..…
より風さんを理解することができました!!
本当にありがとうございます。
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拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。
できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡