書かずにはいられなかった。(5)
という、著者北村匡平氏がwebちくまから始まった「藤井風論 ー救済の音楽」。
今年の5月まで16回予定の中、4月上旬に10回目と、先日11回目がアップされました。
まずは、第10回目「映し出すこと」。
YouTube育ちの藤井風にとって、「音楽を映像と共に聴くのが当たり前」であり、「ミュージックビデオを撮るためにデビューしたようなもん」というほど、映像が作品の重要な一部であることは疑いようがない。
なるほど、そうだったんですね!!!
毎回発表されるミュージックビデオに、度肝を抜かされるのですがw
なぜそこまで?!という疑問が、なかったわけではありません。
しかし風さんのMVには、同時にとても中毒性があって・・・
その度肝を抜かされることに、快感さえも覚えているのです♪
今回の「It’s Alright」は、特にぶっ飛んでしまいw
何度もリプレイしてしまったという・・・
毎回全力でMVに賭ける、藤井風さんの真髄を・・・
この記事によって、しっかり理解できました。
本当にありがとうございます!!
またMV制作においても、同じインドを舞台にした英国を代表する世界的ロックバンドのMVと、「grace」MVの比較が興味深かったですね。
オリエンタリズムの眼差しは、自らの優位性や欲望を映し出す他者として「魅惑的な東洋」を作り上げ、西洋の自己像を補強するのである。(略)
引き立てる背景として、インドの宗教性や貧困を切り取った映像が多用されており、西洋の先進国において現代に至るまで連綿と続く植民地主義的な構図が見出されるのである。
藤井風は終始、ローカルな人びとや土地のリズムのなかへ自然に溶け込んでいるように感じられる。(略)
「grace」のMVで描かれているのは、誇張された神秘的な空間ではなく、インドの人びとと同じ地平に、歌い手である風が立っているという、日常の空間なのである。
この時代に生を受けた「同じ人間」として、日常を描いている♡
そこに、マルチスピーシーズ(多種共生)の想像力として・・・
藤井風のMVに登場する人びとが、さまざまな人種、民族、属性から構成されていることは、すでに述べた。そこには、一つの国家や民族を超えて共生しようとする願いが可視化されている。だが、もう一つ別のレイヤーとして重要なのは、藤井風の映像世界が、しばしば人間中心の視点を離れ、作品を横断してマルチスピーシーズ(多種共生)の世界を投影していることだろう。
例えば・・
MESSが手がけたMV「Hachikō」では、犬になった風と、神になった風が抱擁し合い、終盤には人間の風も現れて、神・犬・人の三者が共に歌い、踊る。これらの作品で、人間のペットとしての犬は出てこない。
この世の生きとし生けるものは・・・
全て同じ根源(Prema)から、だから。
美しいですね・・・・♡
藤井風の音楽は、しばしば「手放すこと」を歌ってきた。MVにおいて可視化されているのもまた、近代以降、強固に作り上げられてきた自我の重さ、所有の重さ、序列の重さ、さらには人間中心主義の重さを手放していくことなのかもしれない。そのとき彼の映像世界には、国境も属性も種の境界も越えて、さまざまな存在がともに生き、ともに踊る、カーニバル的な平面が瞬間的に立ち現れる。
人間中心主義からの解放。
そして、全ての存在との「カーニバル感」!!!
素敵です。
次に、第11回目「クィアすること」。
まず、「異性愛をくずす」において、「死ぬのがいいわ」の歌詞が。
藤井風自身は、この歌詞に出てくる「あなた(あんた)」を男女の恋愛の対象としてではなく、「自分の中にいる愛しい人」「守りたい自分の中の自分」と説明している(1)。少なくとも風にとって、この歌は異性愛の物語として構想されていない。
初めてこの曲を聞いた時、男女の恋愛の物語だと思ってました。
だから当時は藤井風さんを、最近の若手ミュージシャン程度としか認識せずに、遠くに追いやってしまったのです。
しかし、この曲の「あなた(あんた)」は、「自分の中にいる愛しい人」「守りたい自分の中の自分」だと知った時は・・・すごい衝撃を受けました。
こんな洞察力のあるミュージシャンが、いる!!!という驚き。
まさしく、この時代にふさわしい・・・
この時代を、音楽でけん引することができるミュージシャン。
本当にいるんだ、いた!!!という、感覚でした。
藤井風の音楽を聴くと、そういった固定観念から解き放たれ、どこか安心できる自分がいる。歌声や楽曲だけではない。彼の音楽世界は、誰も排除せず、受け入れ、包み込む。そこで今回は、風が作り出すその音楽的宇宙を、クィアな眼差しから探ってみたい。
※「クィア」とは、異性愛を当然のもの、常識的なものとみなす思考、すなわち私たちが慣れ親しんできた「異性愛規範」を批判的に問い直し、そこからこぼれ落ちてきた欲望をすくい上げ、別様の関係性へと可能性を開いていく概念である。
固定観念が、解き放たれる感覚。
そして、もっと大きなものに、全てを包み込まれる感覚。
男性シンガーの自己同一的な語りと、他者のジェンダー・アイデンティティを不安定化することで、誰もが自らの文脈に引き寄せて、愛する人のことを投影しやすくなっているのだ。藤井風の愛の歌は、異性愛を否定こそしないが、それを標準として特権化もしないのである。
「究極の愛」(Prema)を、表現するがゆえに・・・・
アイデンティティーなど、カタチ作ってきた原形の全てが、溶けて無くなり
ただ安心感の中で、漂える喜び♡
藤井風の音楽世界は、ジェンダー表現を過剰化したり、男女の境界を希薄化したりすることで、クィアな読解を強く誘発するのだ。
これまで本連載では、藤井風が超越性と親近感、クールさとキュートさを併せ持つことには触れてきた。だが、ジェンダー・セクシュアリティの観点からいえば、女らしさと男らしさ、ケアと力強さ、包容と挑発を同時に帯びる、きわめて新しい時代のイメージを象徴していることは、いくら強調してもしすぎることはない。
物質中心主義時代から、精神主義的な時代へ。
そんな時代の変わり目だからこそ。
身体と魂に響く、音楽作品が・・
藤井風さんには、ある♪
いつも素敵な文章を、ありがとうございます!!
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拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。
できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡