見出し画像

盗まれたものはなかった


「盗まれたものはないか?」

私は部屋中を確認した。

財布はある。

キャッシュカードもある。

PCもある。

思いつく限り確認したけれど、家の中でなくなっている金目のものは見当たらなかった。

「たぶん、大丈夫」

そう自分に言い聞かせて、そっと記憶に封をした。

でも今思う。

あの日、確かに盗まれたものはあった。

それは安心感だった。


平凡な一日のはじまり…のはずだった

二十代半ば、一人暮らしをしていた頃の話だ。

平日の午前中。
私はたまたま午前休を取って家にいた。

特別な予定があったわけではない。
少しだけのんびり過ごそうと思っただけだった。

寝起きのままソファに座り、スマホを見たり、漫画を読んだり、ぼんやりしたり…

10時を過ぎた頃にインターホンが鳴った。

少し違和感があった。

当時住んでいたマンションはオートロックだったので、来客ならまずエントランスから呼び出される。

それなのに鳴ったのは、なぜか部屋の前のインターホンだった。

宅配便が届く予定もない。
何らかの自宅設備の点検がくる予定もない。
平日のこんな時間に知人が訪ねてくる予定もない。

なんとなく気味が悪くて、私は居留守を使った。

すると数秒後。

ガチャ。
鍵が開く音がした。

聞き慣れているはずの音だった。

毎日、自分が帰宅するたびに聞いている音。
それなのに、その日はまるで別の音に聞こえた。

一瞬、何が起きたのか分からなかった。

宅配業者だろうか。
管理会社だろうか。
でも、そんなはずはない。

誰かが私の家の鍵を使っている。
そう気づいた瞬間、全身の血の気が引いた。

次の瞬間
ドアが勢いよく開き、内側のロックにぶつかって大きな音を立てた。

誰かが家に入ろうとしている。
その瞬間の恐怖は、今でもうまく言葉にできない。

怖いというより、現実感がなかった。

まさか自分の家の鍵を誰かに開けられるなんて、想像したこともなかったからだ。

思考が追いつかなかった。

逃げなきゃいけない気もする。
でも、どこへ?
一人暮らしの1Kに隠れる場所なんてない。

私はその場に立ち尽くしていた。

しばらくして物音がしなくなった。
相手は私が在宅していることに気づき、そのまま逃げたのだろう。

それでもすぐには動けなかった。
玄関へ行くのが怖かった。

もしまだ外にいたら。
もしドアの向こうで待っていたら。
そんな想像ばかりが膨らんだ。

それでも意を決して立ち上がった。
工具箱からハンマーを取り出し、ぎゅっと握りしめる。
人生でハンマーを武器代わりに持ったのは、後にも先にもあの時だけだ。

のぞき穴から外を確認する。
誰もいない。

玄関の鍵を見る。
やはり開いていた。

その時になってようやく、本当に誰かが家に入ろうとしたのだと実感した。

数分後、私は110番した。


鍵を開けたのは誰だったのか

警察はすぐに来てくれた。

事情を聞き、玄関周辺の指紋を採取し、防犯カメラも確認してくれた。

ただ、防犯カメラはマンション一階にしかなかった。

映っていたのは、裏口からマンションに入り、ほどなくして出ていく一人の男。

明らかに怪しい。
けれど、その人物が私の部屋まで来た証拠はなかった。

警察からは、
「その人が部屋に行ったとは断定できません」と言われた。

さらに、
「知り合いとかじゃないの?」とも言われた。

今なら警察が証拠の話をしていたことは分かる。でも、当時の私は傷ついた。

私はただ怖かっただけなのに、
自分の恐怖が疑われたような気がした。

結局、犯人は今日に至るまで分かっていない。

でも、どうしても気になることがあった。
玄関にはダブルロックが付いていた。
けれど私は面倒で、いつも片方しか使っていなかった。

あの日開けられたのも、その一つだけだった。
もう一つの鍵は無事だった。

偶然かもしれない。

でも私は考えてしまった。

どうして鍵がかかっている方だけを開けられたのだろう。
どうしてもう一つは触らなかったのだろう。

実は、それ以前にも気になる出来事があった。

当時住んでいたマンションは新築で、
入居初日、部屋の清掃業者と鉢合わせたことがある。

入居日の変更がうまく共有されていなかったらしく、その業者は鍵を使って部屋へ入ってきた。

荷解きをしていた私と、玄関で鉢合わせた。

防犯カメラに映っていた人物は、その人に少し似ている気がした。

もちろん確証はない。

ただ、それ以来考えずにはいられなかった。

もしあの人だったとしたら。
もし鍵を複製していたとしたら。

この一年、本当に一度も部屋に入っていなかったと言い切れるだろうか。

答えは分からない。

分からないからこそ気味が悪かった。


自分の部屋ではなくなった日

警察が帰ったあと、部屋は妙に静かだった。

さっきまで何人もの警察官が出入りしていたのに
玄関のドアが閉まった瞬間、部屋には私ひとりだけが残された。

鍵の交換業者に大急ぎで連絡したが、夕方まで鍵の交換ができないという。

つまり、それまでの間は同じ鍵を使い続けなければならない。

私は外出することもできなかった。
怖かった。

玄関の方から物音が聞こえた気がして何度も振り返った。

実際には何も聞こえていなかったと思う。
でも恐怖は現実以上に想像を膨らませる。

当時の私は一人暮らしで、
そもそも部屋の中を許可なく誰かに見られることを前提に生活していない。

脱いだ服を床に放り投げたままの日もあった。
洗濯物を畳まずにベッドに無造作に置いておく日もあった。
下着だって普通に部屋の中にあったと思う。

何かが盗まれた形跡はない。
それでも気持ち悪かった。

もし誰かが入っていたとしたら。
もし部屋の中を見ていたとしたら。
もし部屋の家具の上でくつろいでいたら。

そう考えるだけで吐き気がした。

その日を境に、部屋は私だけの空間ではなくなってしまった。


人の優しさは、こういう時によく見える

警察へ連絡したあと、私は母にLINEを送った。

こんな自分の中でとっておきの事件が起きたにも関わらず電話はしなかった。

声を聞いたら緊張の糸が切れて、なんだか泣いてしまいそうだったから。

ただ状況を簡単に文章で送った。

すると母はすぐに動いた。
仕事を切り上げ、新幹線に飛び乗り、数時間後には私の部屋にいた。

「大丈夫?」

そんな言葉を交わした記憶はあまりない。

ただ、母が部屋にいるだけで安心した。

今思えば不思議だ。

犯人は捕まっていない。
鍵もまだ交換前だった。

状況は何も解決していない。
それでも、ひとりではなくなっただけで恐怖は少し和らいだ。

さらに友人の中には、
「次の家が決まるまで、うちにおいで」と言ってくれる人もいた。

実際にはすぐに引っ越し先を見つけたので、お世話になることはなかったけど。

それでも、その言葉は本当にありがたかった。
こういう時、人の優しさは驚くほどよく見える。

怖い人を見た日だった。

でも同時に、優しい人たちの存在も知った日だった。


盗まれたものはなかった

あの日から私は、家に帰るとクローゼットを開けるようになった。

浴室も確認する。
ベッドの下やカーテンの裏にも目を向ける。

誰もいないことを確認して、ようやく安心する。

そして今でも時々思う。

もしあの日、午前休を取っていなかったら。
もし帰宅した時に部屋の中に誰かがいたら。
もし家の中で鉢合わせていたら。

想像はそこで止めることにしている。

盗まれたものはなかった。

現金も。
キャッシュカードも。
パソコンも。

でも、あの日確かに失ったものがある。

それは「家は安全な場所だ」という、当たり前だったはずの感覚だ。

そして、その失った安心感を少しずつ取り戻してくれたのもまた、人だった。

いいなと思ったら応援しよう!