#185 漢字を練習する意味
小学校で教師をしています。
今日は土曜日でしたが、新学期の教室の準備が終わらず休日出勤していました。
仕事が終わって、帰りのバスの中で携帯を見ていたら
「なぜ漢字の書き取り練習をするのか」という内容の記事が目にとまりました。
この執筆者の方の記事には
私が読んだ時には、漢字を書けるようになることは「忍耐力・世間への自慢、基礎学力の証明」ではないかといった内容が書かれていました。(読み間違っていたらすみません…)
そう考えると「日本の小学校は一年生でひらがな、カタカナ、漢字の3つを勉強するんだよな。大変だよな。」と思いました。
確かに、これからの時代、漢字は音声入力すれば正しい文字が出てきますし、書き取りの練習は何のためにやるのかが問われているのだと思います。
普段テレビやSNSをぼーっと眺めてしまうのですが、
こういった問題提起をしてくれる記事は、読んでいて勉強になるので、自分が感じたことを文章にしていきたいと思います。
はじめに私の結論を述べると
「漢字は書けるように練習した方がよい」と思っています。
それには大きく三つの理由があります
①物事をイメージしやすくなるため(文章が読みやすくなるため)
②表現の幅が広がるため
③共通認識が必要なため
この①、②、③について私個人の考えをまとめたいと思います。ただの一般教員の戯言だと思って読んでいただけると幸いです。
①物事をイメージしやすくなるため(文章が読みやすくなるため)
例えば次の文章を読んでもらいたいと思います。
(A)「きょうはながいぶんしょうをぜんぶひらがなでかいてみようとおもっています。」
(B)「今日は長い文章を全部ひらがなで書いてみようと思っています。」
どちらの方が読みやすかったでしょうか。
おそらくBの文だと思います。
漢字の長所の一つとして、言葉を意味のまとまりにすることができます。
「猫」という一文字を見ただけで、人は
「ニャーと泣く四足歩行の小柄な哺乳類」をイメージすることができます。
「猫」という文字にはそれだけのイメージ力があるといえます。
この「漢字のイメージ力」を使うことで私たちは文を「ショートカット」して読むことができるといえます。
先ほどの
(B)「今日は長い文章を全部ひらがなで書いてみようと思っています。」
という文章も、実は私たちはきちんと読んでいません。
(B´)「今日 長 文 全部 ひらがな 書 ます」
これだけ見れば、「あ、なんか『今日は長い文をひらがなで書こう』ということを伝えたいのかな」をイメージすることができてしまいます。
漢字があると、そこに意味も込められているので、読みやすさがぐっと増すという良さがあります。
さて、ここまで読んで
漢字の「よさ」はわかった。でも、それをAIが書いてくれるのに、自分が書けるようになる必要はあるのか?という疑問が出てきます。
それについては②の「表現の幅が広がる」という事に関係してくるのかなと思います。
漢字をただの「物事をつたえるための記号」と捉えるならば、漢字で書かなくてもよいのかもしれません。
それこそ、さきほどの「猫」なんていう漢字が書けなくても、スマホで「猫の画像」や「動画」を見せた方がよりイメージしやすいかもしれません。
しかし「漢字」を「アート的な表現方法」の一つとして捉えてみます。
光 心 山
みたいな字は、形がなんとなく「かわいらしい」感じがするのに対して
豪 轟 颯
のような漢字にはなんかごつごつしていて「強そうなイメージ」があるかもしれません。
漢字には、物事の意味を伝えるだけではなく、「形」としてのイメージを伝える効果がありそうです。
その証拠として
外国人旅行者の方が、「形の可愛さ」「かっこよさ」から
関係のない意味の漢字が書かれたTシャツを着ていることがあります。
漢字のもつ「しなやかさ」や「鋭利さ」みたいなものが、彼らにとって「クール」なのかもしれません。
また同じ漢字でも「丸っぽく書くか」「細く書くか」によって全然印象が違います。
書道は、字の意味を伝えるだけでなく、そういった「書き方」によって表現することを突き詰めたアートなのだと思います。
私は小学校の教師ですが、専攻が「美術」だったためか
「そのものの意味」とは別の「表現としての意味」がないかを考えることがよくあります。
数学の「数列を見て、並び方がきれいだな」と感じることもありますし、
音楽も「同じパーツの形を変えた建物の構成と似ているな」と感じることがあります。
漢字もただ「その言葉の意味を表す記号」以外の意味はないかなと考えてしまいます。
その意味、事実を覚えるだけが勉強ではなく、
形や、その言葉の響き、リズム等、含めて「表現として楽しもうとする」ことで、学びが何倍にも深く広くなっていくのではないかなと思います。
だから表現を広げていく手段として漢字を勉強した方がよいのかなという気がしています。
いや、でもそうだったら、もう漢字を一画一画、完璧に書かなくてもいいじゃないか。
「イメージやその表現」としてであれば、何となくのニュアンスだけ「書けていればいいじゃないか」という疑問も沸いてきます。
ここで、私が思うのが③の「共通認識の問題です」
例えば漢字を完璧に覚えなくてもよいのかもしれませんが
「目が痛い」と「日が痛い」だと全然意味が変わってきます。
たった一本の横棒がないだけで、私たちのコミュニケーションが変わってしまいます。
(そういえば「辛」に横棒と一本加えると「幸」になるみたいな話も昔ありましたが…)
私たちは共通のルールの下で一定のコミュニケーションをとっています。
それこそ、ルールが一つ違うと納得できなかったり、混乱したりしてしまう人もいます。
なので、みんなが納得する「漢字の書き方」を覚える必要があるのだと思います。
ちょっと極端な例かもしれませんが
「今日は花粉が飛んでいて目がかゆいね」という文章を
「今日は花粉が飛んでいて日がかゆいね」と書いたら、意味が分からなくて不安になってしまう人もいるかもしれません。
誰が見ても、「あ、あなたが言いたいことはこういうことですね」と相手に分かってもらうために、漢字を完璧に覚えることも必要なのかなと思います。
また、先ほどの書道も、色々な字の太さや書き方を工夫して書くことも
画数や、筆順といった「縛り」があるから成立するアートだと言えます。
もし、「横の棒を一本減らしてもよい」「点を十個に増やしてもよい」…
とかになったら、それは書道ではなく、ただの「お絵描き」になってしまうと思います。
決められた共通認識のもとで個性を出せるから面白いのだと思います。
これはスポーツなどでも同じようなことが言えると思います。
また漢字を覚えるとよいことにニュアンスが込められるという事があります。
町と街は意味が違いますし
青と蒼も意味が違います。
国と國も意味が違います。
このような細かな違いを表現するうえで漢字は有効だと言えます。
使える漢字によってイメージがぐっと変わります。
この執筆者の方が書かれていたように
勉強は確かに、書かれた通りに暗記していくだけだったら、何の意味もありません。
教師である私もつまらないと思います。
でも、「何か新しい意味があるのかも」「こうやったら面白いのかも」と、その意味を考え続けていくことに勉強の意味があるのだと思います。
それは、大人も子どもも一緒で、ものごとの見方を変えて考えることに「人生を面白く過ごすためのヒント」があるのではないかなと思います。
子どもたちに、そういったことに気づいてもらえるように日々試行錯誤しながら私たちは授業を考えています。
…という、どこにでもいる普通の教員のひとり言でした。
しょうもない文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。
