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母は本を読まない。


ずっと、母は本を読まない人間だと思っていた。

専業主婦として40年近く家事と家族の世話にいそしみ、余暇はテレビ鑑賞か庭いじりをして過ごす。たまに近くに住む友達と、どちらかの家もしくは駅前の喫茶店に行っておしゃべりして、自分の半径100m以内のことについて情報交換をする。地方都市に住む、どこにでもいる専業主婦。本どころか、映画も観ないし、美術館にも行かないし、文化や芸術に括られるような、少しハイソな匂いのするものには一切興味も接点もない人。それが私の母。


そんな母から生まれた私は、なぜか幼少期から本が好きだった。


本棚などない家に育ったことは、私の「読みたい」という気持ちを押しとどめる障害にはならず、学校の図書室や地域の図書館に足繫く通った。自分で映画館に行ける年齢になると、映画も大好きになった。ここでも、電車に40分揺られないと映画館に行けないような町に住んでいることは、私の好奇心を潰す理由にはならなかった。


大学入学を機に上京し、私は今までの不足分を埋めるように、思う存分図書館とゲオに通い(当時はまだ配信サービスはなかった)、浴びるように読んだり観たりした。その甲斐あって、大学卒業後は映画関連の職に就いた。

残念ながら「好きを仕事にすべからず」の言葉の如く、映画の仕事は長くは続かなかったけれど、それでもそれなりに満足して、私は30を超えた。


久々の帰省。母の手料理をたらふく食べ、我が家の習慣である食後のお茶を片手に居間でテレビを見る。隣に座っている母はすでに70を超え、元々私より15㎝も背が低く小柄ではあったけれど、なんだかそれに輪をかけて小さくなったように見えた。

ふと、観ていたニュースの中で、とある作家の訃報が取り上げられた。それを見て母がぽろりと言った。


『あ、この人、お母さんが大好きだった作家さん』


その瞬間、お茶を啜ろうとしていた私の手は止まった。思考も止まった。

お母さんが、好きだった、「作家」???


『この人の書く恋愛小説、お母さんが若いころにすごく流行って、お母さんも夢中になって読んだのよ』


私の動揺を知る由もない母はそう続ける。

え?え??え???お母さん、小説読んでたの?まして、好きな作家がいたの??

え、でも一度も小説読んでるとこなんて見たことないよ、私。まず家に小説なんて一冊もなかったじゃん。


『一回読み出すと止まらなくて、寝ずに朝まで読んだんだよ』


え、え、お母さん、知ってるの?ページをめくる手が止まらなくて、はやる気持ちについていけない自分の脳の処理スピードにイラ立つ、あの感覚を?次どうなるのか知りたいけど知りたくない、っていうあの矛盾した気持ちを??残りのページが少なくなって、無性に寂しくなって胸がぎゅっとなるあの痛みも???


『本さえあれば、結婚なんてしなくてもいいって思ってた』




なんだ、お母さんって、私だったんじゃん。


なんだ、私だったんじゃん。今のお母さんが本を読まない理由。


30年以上生きてきて、気が付いてしまった、衝撃の真実。


お母さんは本を読まない人じゃなかった。読む人から読まない人にならざるを得なかっただけだった。


それを知った今、私は涙を堪えるのに必死。

だって、本当は心の中で少し母のこと馬鹿にしてたんだもん。「本も読まないなんて」って。

親のおかげで親より高学歴になった私は、心のどこかで「本ぐらい読みなよ」って、母に対して絶対そう思ってた。


でもその実、母が本を読まない原因は自分だったって、これってどんな寓話だよ。

原因は、正しく言えば「私」だけじゃなくて、お父さんもお姉ちゃんも、つまり「家族」。母は「読書」を差し出して、「家族」を手に入れたみたい。読書をする時間がすべて、家族の世話をする時間に変わったみたい。実際には家族の世話をしていなくても、お母さんって四六時中家族のことを考えてるじゃない。

もちろんそれは母の選択で、家族の世話に追われて夢中だった読書を手放したことを、母がどう思っているのかは私にはわからない。もしかしたら、「これが欲しかった幸せだからいいの」って心から思ってるかもしれない。

でも、あの小説家の訃報をきいたときの母の「ああ、懐かしい」って横顔、私は忘れられないよ。


もう子どもである私も姉もとっくに手が離れたし、今からでも好きに読んでいいんだよ。


なんて、無責任なこと、私には言えないよ。


すでに高齢者と呼ばれる年齢にもなって、本の小さい字を追うのだって、もう辛いって。そして何より、何十年も自分の「好き」を押し殺して家族のために生きてきた母の脳の作りは、もう完全に「家族仕様」になってるでしょ。

お母さんの辛いとこって、ここだと思う。実働時間の話じゃないよ。家事をしていないときだって、子どもの手が離れた後だって、「家族」が脳の大部分を占めたままなんだよ。もういいんだよってこっちが言ったって、何十年も積み上げてきた癖はそう簡単に母を解放しない。

私はどうしたらいいのかわからないよ。読むことをはるか昔にあきらめた母に、もう一度読んでみなよって押し付けるのは違うってことだけわかる。でも自分のエゴが抑えられないから一応伝えておくと、今は本を音声で読み上げてくれるオーディオブックもあるよ。

何十年かけて形成された「家族仕様」のお母さんの脳みそを「自分仕様」に戻すには、「家族の好きなこと」じゃなくて「自分の好きなこと」をまたひとつずつ積み上げていく以外ないんだと思う。たぶん一進一退だろうけど、子育て終わってからも、人生って長いじゃない?だから、私は諦めないからお母さんもちょっと付き合ってみてほしい。お母さんってほかにも好きな作家さんいるの?読書のほかに好きなものって何?

「早く起きなさい!」とか「水筒持ったの?」とか言ってた相手にそんな話するの、ちょっと気まずいかもしれないけど、私実は、お母さんの話し相手になれるようになってだいぶ久しいんだよ。

とりあえずお母さんが好きだって言ってた作家さんの本、私もポチってみたからさ。まずはこの作家さんの名前、なんて読むのか教えてよ。

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