【ショートショート】 月を呑む
「おいしいでーす」
三歳になる我が子の無邪気な声。
「うーん。お風呂はおいしいとは言わないわねえ」
湯加減を食べもののように表現する息子に妻が目を細めた。
笑い声が、湯気にしっとりと溶け込んでいく。
時間制で露天風呂を家族で借りることができる高級旅館。
短い休暇で訪れるには最高の場所だ。
そこかしこの紅葉の景色も美しい。
「お食事が楽しみだわ」
子育て真っ只中の妻を慰労しながら息子が楽しそうならば、家族旅行の願いの全ては叶ったといえる。
「なにか飲む?」
食事の時間になり、仲居さんに聞かれた妻が私に聞いた。
「ビール、はやっぱりいいや。ウーロン茶にしよう」
飲めない方ではないが、仕事の付き合いで飲む機会が多い。
必要のない時は飲みたくなかった。
「気にせず飲みなよ」
「一人じゃ美味しくないもの」
少し口を尖らせた妻の向こうには、息子の少し責めるような目線があった。
ママをいじめるなとでも思っているだろうか。
旅館の食事は品数も量も多く時間がかかる。
食事に飽きた息子が部屋の端で遊び始めた。
「見て。おつきさまがふたつ」
指さす方向には、波に揺れる満月があった。
「ゆかげんは、どうですかあ」
どうやら月に尋ねているらしい。
月を擬人化できる自由な発想が愛らしい。
細部に拘り、ストレスの処し方が下手なのは父譲りなのだろう。
現在抱えている商談の、取引先の会社の立場をかさにきた態度への苛つきが、旅先でも去らないことが腹ただしい。
ストレスを酒で紛らわせていた父は、五十になってすぐに胃がんになった。四十代最後の年に寡婦となり、慣れない仕事に就いた母が哀れだった。
がんの本当の原因など分からないと口では言いつつも、酒に逃げることは一生してはならない、と当時大学生の私は自分に誓った。
食事を終えると、三人でベランダに出た。
温かいお茶のおいしい季節が訪れている。
「おつきさまがふえた」
海にも湯呑みにも、月が揺れていた。
「ママ、お月さまを飲んじゃおっと」
お茶を口に運ぶ妻。
「おつきさまのお味はどうですかあ」
息子の嬉しそうな声。
湯呑みの中の月に重なった自分の顔が見えた。
家族旅行だというのに眉間に皺の寄った顔をしている。
「やっぱりせっかくだし少し呑もうか。日本酒でもどう?」
突然の私の言葉に驚く妻。
「どうして急に?」
子どもの頃、家族で温泉旅行に行ったことを急に思い出したのだった。
酒に映る月を呑み干して微笑む父。
「おつきさまのお味はどうですか?」
私も同じ問いを投げた。
父の楽しげな顔が嬉しかった。
思い返せば、父の酒は悪い酒ではなかった。
ストレス発散には違いなかったが、一度酔ってしまえば陽気になる人だった。
酔った勢いで叱られたことなど一度もない。
あの夜、父が呑んだ酒と同じものをふいに呑みたくなった。
「月の味をね、知りたくなった」
妻が微笑む。
久しぶりに妻のほろ酔いの顔も見たかった。
恥じているかのように染まる赤い頬を、月明かりの下で眺めたい。
妻が備え付けの電話に手をかけた。
月はゆらゆらと、気ままなリズムで波とともに揺蕩っている。
<了>
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最後まで読んでくださってありがとうございました。
シロクマ文芸部さんの企画に参加させていただきました。
お題は「月の味」。
素敵なお題と楽しい企画をありがとうございます!
