連載小説『恋する白猫』第七章・マスカレード
『山田さん』
遠い遥か彼方から誰かが自分をそう呼んでいる、
多分思い違いだろうが、なんだか無性にそんな気がするのだ…
光(みつる)はぼんやりと霧がかかったような頭の隅でそう思った。
『山田さん?』
痺れたような頭の芯が熱くなり、やがてそれがぐんにゃりと蛍光色のスライムのように歪むのを、光(みつる)は閉じた瞳の奥でひんやりと想像した。
やがてその滲むような光源は、
アスファルトの路面をけばけばしく彩るあのガソリンが滴(したた)る轍(わだち)のように玉虫いろにてらてらと輝き出した。
やがてそれは玉虫色の油絵の具のように溶解し、光の全身の穴という穴から光輝くところ天の滝のように押し出された。
そんな夢想の中で自分が生み出した玉虫いろのところ天の山に埋(うず)もれながら‘’ああ…私ビョーキかもしれない…‘’
と彼女は他人事(ひとごと)のように心の中で嗤いながらそう独りごちた。
『山田さん、大丈夫ですか?』
バイトの有栖(ありす)が心配そうな顔をして、光の顔を覗き込んだことにようやく気づいた光は思わず頷いて、作り笑いを浮かべてこう言った。
『ごめん何?
どうかした?』
『どうもしてません、
どうかしてるのは山田さんのほうです、
ご実家から帰られてからずっと様子がおかしくて…元気無いし…何かあったんですか?』
『いや別に』
と咄嗟に光はしらを切った。
『体調が良くないだけ、ちょっと疲れてるのかな』
自分はしらを切るのがとても上手になった、と思いつつも‘’でも何故だろう?‘’とふと思った。
イヤなことばかりが巧くなっていく…
光は心の中でそうボヤいた。
『すぐ帰ってきたもんね光ちゃん、
向こうでもっとゆっくりしてくるのかと思ったら…ご両親に思う存分べったり甘えてきたらよかったのにさ、』
と今日は非番のタクシー運転手の朝倉
努が言う。
その膝には美女猫とみんなが異口同音に認める‘’ベル‘’が座っている。
ターキッシュアンゴラの血が混じっているのか、あるいは本当にターキッシュアンゴラなのか、詳細は不明なもののその片耳は薄くカットの入ったサクラネコである。
純白のふさふさとシルキーな光沢のある長毛の被毛を誇り、アイスブルーの瞳とレモンイエローのオッドアイを持つスイートハートの中ではとりわけ華のある猫だ。
華があって美しいだけでなく人懐こく明るい性格もみんなから愛される理由だった。
朝倉はそんなお気に入りのベルの頭を、まるで孫娘の頭を撫でるかのように愛おしげに撫でながら『親に甘えてあげるのも親孝行のひとつだよ、
光ちゃんちょっとしっかりし過ぎてるからさ、そういうの親からしたら安心はするけれど、同時に淋しくもあるんじゃないのかな?』
『私、しっかりなんかしてません…』
光は無表情のままそう言うと、そっと床に膝まづいた。
そしてそこいらへ散らばったさっきの夢想の断片を想わせる蛍光色の羽根や、カラフルなリボンのついた猫用玩具を彼女はそっと拾い始めた。
そして拾い集めたそれら遊具を彼女は猫部屋の隅にある漆塗りの小抽斗(こひきだし)へと、まるで爪を切るような渇いた音と共に一つ一つ、いかにももの悲しげな所作でパチンパチンと仕舞い込んだ。
然しそんな光の過敏な挙措(きょそ)に気づくような者はスイートハートではほとんど居ない。
呑気で人の善い朝倉が有栖に向かってまるでせがむようにこう言うのが、
淋しい光の背中越しに虚ろに響いた。
『有栖ちゃん、ねぇまたあの話聞かせてよ、ほらほら有栖ちゃんの親御さんのさ、ラブラブエピソード』
『そうそうロマンチックよねぇ、
帯解(おびどけ)の夜』
七十代の朝倉ととりわけ親しい同年代で良人(おっと)を昨年末、膵臓がんで亡くしたばかりの斎藤湖寄(こより)までもがそう言うのを聞いて、光はとうとう床の上で膝まづいたまま、ふたりを振り返り、仕方無く迎合することにした。
『オビドケ?なんですか?それ』
『地名だよ地名、関西の地名はなんだか叙情詩的だよなぁ』
朝倉がどこか惚れ惚れした口調で言う。
「叙情詩的なだけじゃないわ、
官能的なのよ」
と、意味ありげに湖寄までもが言う。
二人とも昔、関西人の恋人でもいたのかと思うような口ぶりである、
光はそんな話題には小指の先ほどの関心も無かった。だが彼女は、いつも自らを‘’顔面印刷‘’と呼んでいる満面の笑みを顔中、意識的に貼りつけると、ごく儀礼的にこう言った。
『京都かなんかですか?素敵ですね』
『奈良だよ奈良』
『奈良の京終(きょうばて)で出逢った二人が帯解(おびどけ)で…』
『そして京都の有栖川(ありすがわ)で…ね?』
『だから、〝ありす〟ちゃん!』
と言って朝倉勇と斎藤湖寄は顔を見合わせ、さも愉しそうに、そして嬉しそうに笑い合った。
すると一番若手の有栖がまるでその場の指揮をとるような口調でこう言った。
『はい、今度、今度!
またゆっくり話しますから、
今日はそんなところで…ね?』
と有栖は、‘’今日はもうおひらき‘’
と言わんばかりに、ぱんぱんと芝居がかった様子で両手を叩くとそう言った。
職場の大先輩である光の前で、老齢の馴染み客達を容易に懐柔(かいじゅう)してしまう有栖を見て光は、‘’器用な人ね、
でもそういうの…ちょっぴり羨ましい…‘’
と思い、そっと唇を噛んだ。
淋しさと妙な悋気(りんき)とが、光の胸の中でない交ぜとなり、黒い夜の稲穂のように彼女の中で不穏にざわめき立つのを感じ、光はそんな自分の胸を無力と知りつつも、そっと宥(なだ)めるように抑えた。
横山有栖は昨年スイートハートへ入った歳下の女性で、光が休みの日に週2回ほどアルバイトに入ってくれる東京の服飾系の専門学校へ通う学生である。
ほんの二日の留守中に陽気な関西弁を話す大阪人の有栖にすっかりお株を奪われてしまったような被害者意識を持ってしまった光は愉しくなかった。
今日は連休の2日目なので昼から観光客が多い。こういう日はいつもよく来る馴染み客ではなく、新規のお客がメインだ。
外国人の観光客も少し含まれていた。
こういう時は店番が一人では足りない為バイト生と二人当番となる。
外国人観光客達は皆おのおの中国語を喋ったり、韓国語を話したり、
それに対して光は片言中の片言である拙(つたな)い英語でのやりとりで済ますものの、こういう海外からの一過性の客人達は九分九厘スイートハートへは二度とは来ない。
だがあまりにも外国人観光客が込み入った質問を投げかけてくると光は答えに窮した。そんな時、有栖がいると重宝するのだから、光はこの関西のバイト生に頭が上がらない。
昨年の秋にスイートハートへ来たイタリア青年はそんな有栖に一方的に熱を上げ、『来年もしまたここへ来たら君はまだここに居るのか?』
と英語で有栖に問いかけた。
何故か有栖は光より遥かに英語が話せる。ネイティブ並みのなめらかな発音のアメリカ英語で彼女は『その頃なら恐らくまだ居るでしょうね』と答えてからこう尋ねた。
『でも何故?』
『僕は実は日本へ短期で留学しようか迷っていたんだが、君がいるならこの街に来年住みたい、そしたら毎日だって君に逢いにここへ来れるだろう?』
冗談だと思った有栖が『いいわね、
ではまた来年逢いましょう』
と言った為か彼はきっかり一年後、スイートハートに現れた。
シモンだかシモーヌだか名前さえ聴き取れなくてよくわからないのに、と当時の有栖は困惑気味だった。
‘’困るんですよあいつら情熱的過ぎて‘’
と彼女はこぼしたものの、イタリアーノは残念ながら本人の志願通り横浜へは住めなかったようで、週末の土日だけ必ずスイートハートへやってくる。
‘’僕はヲタクだ!ヲタクとしてのプライドも持っている”と自ら宣言する彼はいつもカラフルなアニメのTシャツやトレーナーを着ている。
見た目もダンディでお洒落なイタリア男のイメージからは程遠い、雀斑(そばかす)だらけの濁った肌、
赤みの強い金褐色のいわゆるストロベリーブロンドと呼ばれる派手な髪いろで、一般的なイタリア人の黒っぽい髪や若干浅黒く艶のある肌色というのとはまるで違っており、黙っていれば一体どこの出身なのか日本人には皆目検討がつかない。
『アメリカ人だ』とか『イギリス人だ』とか言われたら日本人ならどれも皆、
なんとなく信じてしまうだろうと思えるようなタイプだ。
背丈はドイツ人並みに高いが横幅もアメリカ人並みにある。
三桁は無さそうだが、彼にもし褌(ふんどし)を履かせたらまるであんこ型ではない闘士型の関取のように見えるに違いない。
出身地のローマでは彼は絶対非モテに決まっている、と光は勝手に心の中で決めつけていた。
『チャオ、スウィーティ、
今日も君はとっても綺麗だ、アリス』
と彼は有栖をハグしようとして笑顔のままそれをやんわり両手で押し戻されていた。
『ありがとうシモーヌ、今日も遠いのにわざわざ夕方近くになってから、
来てくれたのね?』
と有栖は英語でまるで京都人のイケズみたいなことを言うがイタリアから来た彼にはそれは通じない、
彼は些かむっとしたようにこう言った。
『僕はシモーヌじゃない、
それは女性の名前だよ君は美人だが本当に耳が悪い、何回教えても僕の名前を覚えてくれないんだから』
『私を美人と言ってくれるのはイタリアーノの貴方だけだけど、その美人の私の耳にはどうしても貴方の名前はシモーヌにしか聴こえないのよ』
『シモーヌはフランスの女性名だよ、
それも割りとオールドファッションのね、僕は◯◯◯、
イタリア人だよ、フランス人じゃない』
『解るけど本当に聴こえないのよ』
と有栖は芯から困ったような顔でハッキリそう断言した。
‘’それがイヤなら別にもうアンタなんか来なくてもいいんだからね?‘’という暗喩が言葉尻にも有栖の目つきにもしっかり籠(こ)もっているのは、日本人にはなんとなく解るが、イタリア人の彼にはてんで伝わらない。
『じゃいいよもう』と彼は口を尖らせて
『これからはサイモンって呼んで、当面はそれで我慢するから』
と不貞腐ったような顔をしてやれやれというように首を左右に振りながらその逞し過ぎる肩からリュックを滑り下ろした。
『サイモン、いいわそれなら呼びやすくて、じゃあこれから貴方はサイモンね』
『でもこれは英語読みの発音なんだからね僕は本当はサイモンなんかじゃないんだよ!』
と彼はまだ不服そうだが、有栖に対する希望は捨てていないのがその意欲的な目つきでしっかり解る。
タクシー運転手の朝倉などは日本語がほとんど喋れない癖に、日本語の数だけ百の位まで完璧に諳(そら)んじられるこのイタリア青年を何故か気に入って『よぉサイモン&ガーファンクル』などと青年からも有栖からもそして光からまでも、怪訝な顔をされてしまうようなあだ名をつける始末だった。
そしていつの間にやら彼はスイートハートの常連客達から、サイモン&ガーファンクルという一人しかいないのに二名ぶんもの長ったらしい名前がつけられている、という奇妙な事態から徐々に今度は『ガーくん』というアヒルのようなあだ名へと変更されていってしまった。
それと同時に彼が自ら名乗ったサイモンという英語名はいつの間にやらすっかり誰からも忘れ去られてしまうこととなった。
しかし彼自身そのことをさほど気にする様子もなかった。有栖以外からどう呼ばれようが彼にとっては全くどうでもいいことだったからだ。
『ガーくん今日は来ないかなぁ』
と朝倉が言った途端、二重扉に取付けられたドアベルがゆるく覇気の無い音で、まるでしょうことなしのようにカラコロと鳴った。
『おっ噂をすれば影』
『ほらお客さんよ』と光は素っ気なく言って有栖を軽く肘でつついた。
『ちぇっ来たか、めんどくさいなぁ』
関西訛りでそう言うと有栖は、
『いらっしゃぁい』
と満面の笑みへと顔面のスイッチを切り替えてサイモンならぬガーくんの傍へ軽やかに歩み寄った。
有栖は心持ち身をくねらせるように光をふり返ると当然のようにこう言った。
『光さんコーヒーお願いしまぁす、
ホットで』
甘ったるい声だなと光は怒りと共にそう思った。
『はあい』と返事はしつつも
‘’自分で淹れたらいいじゃないの、
貴女のお客様なんでしょう?
私を使わないでよ!‘’
と、内心ムカついたが先輩という建前もある、あまり大人げない態度を見せて店での評価を落としたくはなかった。光は温和(おとな)しく厨房に向かうドアを押した。
『ガーくん来たから今日はオビドケの話はお預けかぁ』
という朝倉をはじめとする馴染み客からの声までもが光の背(そびら)を冷たく無慈悲に打つように聴こえてしまい、
彼女はますます不機嫌になった。
‘’…帰省なんかしなけりゃよかった…
ずっと横浜にいればよかった!‘’
コーヒーメイカーから珈琲をホトホトと音をたてて淹れながら、光はエクステに溜まった悔し涙をそっと指先で振り払った。
『お待たせしました』
と、珈琲を入れたホットタンブラーをトレイに乗せて猫部屋へと現れた光の仏頂面はあることを切っ掛けにたちまち安堵の微笑みへとがらりと変わった。
『あら、みぃちゃん帰ってたのね?
嬉しいわお帰りなさい』
手島亜希子の笑顔を見たのがまるで何年ぶりだろうと思わせるほどの懐かしさに光の死んだように暗黒に閉ざされた胸の裡(うち)が急にときめきに踊り出した。
折れた心の陰ですっかり萎え堕ちた自尊心の底から彼女はやっとの思いで微笑むと、こう言った。
『いらっしゃいませ手島さん、
今日は寒いですね』
『そう?今日は温かいほうだと思うけど、ずっと駅から歩いてきたけどそんなに風も冷たくなかったわ』
『そう…そうですよね…』
今、自分の世界の中で起きている嵐に振り回されて、ふつうの世間話すら出来なくなってしまっている自分の余裕の無さに彼女は改めて気づき、思わず小さくため息をついた。
有栖が夕刻6時を汐にスイートハートを退店すると‘’ガーくん‘’は有栖の後を追ってさながら金魚のふんのようにそそくさとスイートハートを出て行った。
彼にとってスイートハートは有栖あっての場でしかなく、それ以外は全くどうでもいいように見えて光はそんな‘’ガーくん‘’をどうしても好きになれなかった。
有栖達との入れ替わりに副オーナーであるオーナー夫人の野口富貴子が入店したのを見て光はほんのり暗鬱な気持ちになった。
夫人は店内のソファーで‘’隅っこスミ子‘’とを膝に乗せて寛ぐ手島亜希子を見つけるや否や、ハッキリとその眉をひそめた。
光はそれを見る前からもう解っていた反応だったので、そっとうつむくように自分の肩に向かってため息をついた。
『いらっしゃいませ手島さん』
形ばかり取り繕ったような笑顔でそう言ってみせるものの、オーナー夫人は手島亜希子を何故だか毛嫌いしていることを光は随分前から知っていた。
時折、すっかり客が曳けてスタッフ以外は無人になった猫部屋で彼女は亜希子の陰口を光にネチネチと言い聞かせることがある。
『なんかヤァな人よね、あの人…
どういったらいいのかしら…
優しく笑ってるように見えて人を小馬鹿にしたように見える雰囲気っていうの?
ニコニコしてはいるんだけど何故か彼女、頭にくるのよね、
あの人本当は心の冷たい人よきっと』
『そうですか?私はそんな風には思いませんけれど…』
『いいえ絶対そうよ、男のお客さん達もみんなあの人のこと口々に褒めたりするけれど…一体なんなの?
べーつになんてこたない普通の人じゃない、たいして美人でもないのにちやほやされちゃってさ、
どことなく風変わりだから神秘的だなんだって言われて、本人もきっと内心、勘違いして図にのってるのよ
絶対そうに決まってる、何よ、
そんなことないわよ、
単なる普通じゃない人ってだけでしょ?どこにでもいる変わり者なだけじゃない』
『…はぁ…』
野口富貴子の話を聞いていると手島亜希子は‘’普通‘’なのか?それとも‘’変わっている‘’のか?一体どっちなのだ?と光は時折、突っ込みたくなった。
だが、オーナー夫人自身言っててその混乱する話のまとまりの無さに実は気がついていないのだ、と思弁した光は猫が吐いて乾燥した毛玉の跡を塗れ雑巾でこする事に没頭した。
そんな光の心模様には露ほども気づく様子の無いオーナー夫人は、まるで腫れ上がったように丸くぱんぱんのふくらはぎを高々と組んで座るとこう言った。
『あの自惚れた鼻っ柱折ってギャフンと言わせてやりたくなっちゃう時があるわ、…偉ぶった雰囲気を放出していかにもいい気になってそうなデカい態度が頭にくるの、
あんたなんてたいしたことないんだからねって言ってやりたくなる!』
オーナー夫人が烏龍茶を飲みながら頻(しき)りに苛々とストローを噛みしだくのを見て光は、長く感じていた疑問を思い切ってそっと彼女にぶつけてみることにした。
『手島さん野口さんに何かしたんですか?』
『何かって?』
『手島さんです、野口さんに手島さんが何か…その…気に障るようなこと、
言ったり…したりしたんですか?』
『……そんなんじゃないんだけどさ!』
と野口富貴子は芯から面白くなさそうな声を出すとまるで光の野暮に舌打ちするかのような声でこう言いつのった。
『…なんかね、
深い意味は無いんだけど…兎に角、
嫌いなタイプなのよああいう人、
偉くもないのに偉そうにしててさ、
そう思わない?あのカリスマぶった雰囲気やヘンなオーラ発散させてるのが腹立たしいの、あの人が店に来るとみんな一斉に彼女を見るじゃない?
なんで見るのよ!?って思うの、
光ちゃんのことだってきっと高いとこから見下ろしているわよ彼女、
何が‘’みぃちゃん‘’よ、
みんな光(みつる)ちゃんって呼んでるのに一人だけ違う呼び方するだなんて、
ふんっ!…やだやだ』
履き慣れないパンツスタイルの下で巻き上がってしまったガードルを指で無理矢理、引き下ろしながらオーナー夫人はまるで童女のような声でこう付け加えた。
だがその口調は今までになく嬉色ばんでウキウキと気味悪く弾んでいる。
『だけどもう彼女若くないわよ、
四十路は絶対越えてるってみんな言ってるもの!あの人もう若くないよねえ〜って』
ケケケと漫画のような笑いを漏らすオーナー夫人を尻目に光は、“だからなんなのよ?”と思いはしたものの、無論そんなことなど言えるはずもなく『そうですね…』
と言ってマグカップやタンブラーを意図的なほど冷たい音をたてながらむっつりと片付け始めた。
『あの人もうスイートハートへ来なくなったらいいのになぁ…』
『……』
『あの人が来る前はおじいさんやおばあさんや…来ても幼な気なカップルくらいが関の山で…もっと平和だったのに』
『今も平和ですよ』と言うと睨まれてしまった光はうっかりまた地雷を踏みかけた。
『でも坂本さん母娘もいますよね?』
『そうだけどあれは…ねえ?』
と夫人はまるで秋波じみた目じらせを光に向かってしれっと送った。
その目じらせに黒ずんだ嗤いが微かに滲むのを見て、光はああこれは地雷ではなかったのだと覚(さと)ると同時に小さく姑息に安堵した。
『ほらぁ…娘さんのほうが…ねっ?
少しその…普通の人じゃないじゃない?』
そう言い置いた舌の根も渇かぬうちに夫人はこうつけ足した。
『でもこんなこと言っちゃお気の毒よね、瑞葉(みずは)さんは心の病気なんだしそれはあの子のせいじゃないんだもの』
『………』
古い木製の卓上に在るコップの輪染みが、長年の経年劣化によるもので、いくら拭いたところで消えたりしないことを光は識り尽くしていたものの、執拗に彼女は濡れ布巾でそれをこすり続けた。
意味も無いことに没頭することで、胸を熱くする怒りを紛らわせようと光はいつの間にか必死になっていた。
そして心の底でこう吐露した。
‘’不思議なものね、そんなに手島さんが嫌いなら何故、野口さんはあんなにも手島さんのもの真似ばかりするのかしら?‘’
オーナー夫人は亜希子を嫌いながらも、亜希子がスイートハートへ現れるようになってから、何かにつけて亜希子からの影響を過剰なまでに受けているように光には見えて仕方が無かった。
鬱陶しい女だと言いながら、亜希子のファッションを少しずつ真似始めていることに野口富貴子自身は果たして自分では気づいているのだろうか?と時折、光は思った。
昭和と平成を引きずってきたかのようなひじょうに明るい茶髪のロングソバージュのパーマヘアはずっと何年も彼女のこだわりであったのにある日突然、亜希子とそっくりにばっさりと短く切ってしまい、今や、黒髪ストレートのミディアムショートだ。
最近は足首まで隠れそうなロングのフレアスカートもやめ、急にパンツスタイルやデニムシャツまで着るようになり、帽子もよく被るようになった。
華奢でフェミニンなアクセサリーや時計を好んで身につけていたのに急にGショック一択になったのも光は知っている。
‘’ピアスは運命が変わるというし、怖いから開けないの‘’
と言っていた癖に両耳朶(みみたぶ)だけでなく耳を縁取る軟骨部位にまで泣く泣くピアスの穴を開けたのも、全て手島亜希子と同じ左耳であることを光は知っている。
何から何まで亜希子の模倣で、光はそのことに何故か恐怖を感じることさえあった。
オーナー夫人は手島亜希子をまるで自分の分身のように今までの慣習(かんしゅう)や迷信や、それに付随する恐怖心までをも軽々と打ち棄ててて全速力で亜希子を追いかけるかの如く丹念にその輪郭を写し取ってゆく。
その様はまるで‘’トレース‘’だ。
目には見えないトレーシングペーパーを亜希子という女に当ててオーナー夫人は「嫌いな女」亜希子により近似しようと無自覚ながらも懸命に努める。
‘’嫌い、変わった人、何よ偉そうに!‘’
と陰でさんざ毒づきながら野口富貴子はどんどん手島亜希子のうわべという形骸に危ういほど求心的に近づいてゆくのだからこれほど奇妙な現象はない。
巨きな惑星にまるで吸い寄せられるように放物線を描いて急接近し、その為に消滅することもある小惑星があるそうだ。
だが、そのことが巨きな惑星に少なからずダメージを与えはしても、その存在は宇宙の中に置いてなんら変わることはない。
なんの関連もないのに光はふと元カレから聞いたそんな話をただ好加減にぼんやりと思い出していた。
敵外心があまりにも強過ぎると女って逆にそうなってしまうのかしら?
光は内心、首を傾げて更にそう思った。
まるで好きな人を真似る少女のようにオーナー夫人は自分よりはるかに歳下の手島亜希子の外見に収斂(しゅうれん)的なまでに接近してゆく。
あくまでも無自覚なのであろうが、
それはひたすらに手島亜希子に寄り添うことでしかない。
そんな夫人の姿は時に昏い人物の明るく派手な影のように見えることさえある。
何故ならコピーは常に脆く渇いており、
魅力は無いものの目立つ行為だからだ。
冴えない意味を目立たせてしまうのがコピーの派手さであり、華でもあり、存在する唯一の理由なのだ。
だが、その姿は光にもなんとなく覚えがあった。中高生の時、好ましい女友達の真似をしてかえって嫌がられた記憶が、今更ながら彼女の中で色鮮やかに蘇った。
不思議なのは相手に対して悪意を持つ
ような場合であっても、相手を自分の鏡像にしたがる不思議な‘’想い‘’というものは、オーナー夫人の場合のようにちゃんと存在するということだった。
だが当の本人はこの研ぎ澄まされた病的な傾倒には全く無自覚なのだ。
ある日いつも亜希子がしているあの紫の時代遅れのロングマフラーとそっくり同じものをして現れたオーナー夫人を見て光は思わず瞠目した。
見たところまだ真新しく、どう考えてもオーナー夫人は亜希子と似たようなものを努めて手に入れたとしか思えないソレは手島亜希子の蒼紫より、やや淡いラベンダー色というとこだけが僅かなりにも夫人らしさを主張しているという感じがした。
可成り小柄なオーナー夫人が裾引くほど長いマフラーを幾重にも肩口に巻きつけているのを見て口の悪い常連客からは、『それ手島さんの真似っこかい?
やめ、やめ、
富貴子さんがするとまるでちんちくりんのダルマみたいになっちまう』
と揶揄(からか)われ、オーナー夫人は作り笑顔の唇をわなわなと震わせたが、
次の瞬間二重扉の向こうへと怒り心頭のその姿を消し去ってしまった。
その後、手島亜希子がそんなオーナー夫人と入れ違いにあの野暮ったい時代遅れのロングマフラーをして現れたものだから一同からどっと洪笑が沸き起こってしまった。
だが、なんのことやらわけの解らない亜希子はただきょとんとするばかりであった。
実家から帰ったものの、光は苦しいその胸の裡(うち)を誰にも打ち明けられなかった。
いっそのことカウンセリングにでもかかろうか?と彼女は思いつめていた。
2、3回でいいからカウンセリングに通ってこの苦しい思いを誰かに聴いてもらったら、少しは楽になるだろうか?
そう思いつつも、いつも通りその思いつきを実行しないまま日々は悶々と過ぎてゆく。
『光(みつる)ちゃん』
とスイートハートで呼ばれながら、光は非現実的な現実という逃げ切れない重荷を背負い込んだ気持ちの中、「みつる」という仮面をかぶって、その誰にも見えない辛苦にそっと息をひそめて適応する。まるで周囲の色と同化して自分の姿を見えにくくしてしまうカメレオンや虫や植物の「擬態」のように、
それは年を追うごとに光の中で悲しいまでに血肉を持った生きた虚構となりつつある。
擬態もまた自分なのだ、
仮面を無理矢理取り外せば、血が噴き出すやもしれぬ…
イタリア青年を鬱陶しいと厭(いと)いつつも、英語でのビジネストークを軽やかに操り、曖昧模糊とした笑顔という日本的な仮面の下で常時、穏便に対応する怜悧(れいり)な有栖、
手島亜希子の陰口に精を出すその舌の根が渇かぬうちに『いらっしゃいませ』と笑顔で揉み手すら組む野口富貴子、
誰しもがまるで息をするようにペルソナをつけて毎日を当たり前のように営んでいる。
口紅をつけるよりそっちのほうが反射的で容易だからだ。仮に容易ではなかったとしても、それはやむを得ない慣習(かんしゅう)なのだ。
口紅はつけようとする意識を働かせなくてはならないが、ペルソナを装着する行為はそんな時間差など必要なく口紅以上に優先順位が高い、
それに比べたら口紅なぞつけなくてもよいようなものだ。
ペルソナを着けて生きてゆくことが決して愉快ではなくとも、排泄が尾籠(びろう)なことと言ってしない訳にはゆかないのと似ている、とさえ光は思った。
人にとってはそれはもうほとんど‘’生理‘’なのだ。
姉のペルソナはどっちなのだろう?
と、ふと光は思った。
白いドレスのようなワンピースを着て髪を下向きに二つに束ねた姉がエプロンをつけて微笑む姿が脳裡に浮かんだ。
あの駅で見た別人のような姉と、家で見るいつもの姉と、いったいどちらが素顔でどちらがペルソナなのだろう?
‘’どっちもよ‘’
という声がどこか遠くで光の中に谺(こだま)した。
しかしそれに耳を貸したくない彼女は、姉の記憶を頭の中から追い出そうと努めたが、努めれば努めるほどそれはかえって反対の現象を呼んだ。
そして光の脳裡にあの日、姉の上げた悲痛な声がふいに追憶の揺らぐ白い炎のように彼女の前に立ちはだかった。
『光、待って!
どうしたの?急に、』
二階から荷物をまとめて階段を慌ただしく駆け下りてきた妹の急な異変に姉は蒼然とした。
『ねぇ一体どうしたの?
そんな荷物まとめて…どうしたって言うのよまさか今から横浜へ帰るんじゃないでしょうね??』
『話しかけないで』
玄関の上がり端(ばな)に腰掛けると、
さっきのグレージュのハイヒールを三和土(たたき)の上に見つけた光は、まるで行き当たりばったりのように迷うことなくそれに足を通した。
履いたと同時に荷物を持って立ち上がろうとする妹の腕を咄嗟に取った瞬(まどか)が叫ぶようにこう言った。
『何があったの?光、
どうして急に横浜へ帰るの?
わけを教えて!このままじゃ私…どうしていいのか…』
と言い終えないうちに姉は、何かを勘づいたような眼をしてふと廊下の先の闇を見た。
暫く沈黙が流れたのち姉は一瞬、水滴が飛んだ後の猫のようにぞくりと身震いを一つしてからその瞳を妹に向けるとこう言った。
『…そう…そうなのね…光…』
姉は妹の腕から溶けるようにその手を離した。
『私…光を傷つけてしまったの?…』
と絶望的な声で姉はそう言った。
『………あれは悪夢だと思ったわ、
きっと誰か…私の見知らぬ人だったんだって…でもそうじゃなかった!』
そんな妹の言葉に慄然(りつぜん)と、
そそり立つ姉の顔が見る見る血の気が引いてゆき、やがて紙のように白くなるのを光は一筋の憐憫(れんびん)もなく非情な気持ちで冷たく見守った。
やがて玄関の上と下とで反目し合う姉妹の耳に、タクシーの停車音が響いた。
光は、スーツケースを提げてその音のほうへと荒々しく身をひるがえした。
タクシーの後部座席へ滑り込むように座った光は、もう二度と姉をふり返らなかった。
駅へ向かうようにと運転手へ告げると、玄関から白いソックスの足のまま駆け出してきた姉が車内の光に向かってまるで赦しを請うように哀願した。
『光!待って!!
お願い、行かないで!』
姉はの冷たい妹の横顔の映る窓硝子を、平手で虚しく叩きながらこう泣き叫んだ。
『光、待って!まだ帰らないで、
今急に帰ったりしたらお父さんやお母さんが悲しむわ、
お父さん達にはなんの関係も無いのよ、
お願い今帰ったりしないで、ね?
お姉ちゃんとあのこと…
ちゃんと話し合いましょう』
そう言い終わるか終わらぬかのうちに、車内に座る妹が燃えるような烈しい憎悪の眼を自分に送ったのを見て、瞬(まどか)は思わずその場に凍りついた。
『…光……』
瞬は思わず大きな両手で小さな蒼白い顔を覆うと肩を揺すって慟哭(どうこく)した。
『…ああ、ごめんなさい、私…
どうしたらいいの?
どうしたら光に赦してもらえるの?』
運転手の躊躇いでエンジンをくすぶらせつつも発車を渋っていたタクシーだったが、光に強く促されてようやく車は走り出した。
『光っ!』
驚いたことに姉は走り出したタクシーの窓に狂女の如くその身を挺した。
『危ねえなぁ!』
という運転手に光は言いつのった。
『いいから行っちゃって下さい!
…早くしてっ!』
光に権高な口調で言い放たれた運転手は舌打ちと共に、車体に半ば、取りすがるような姉を全力で振切るようにして走り去った。
振り切られたその勢い余って路面に倒れ伏した姉の姿を、バックミラー越しに見た運転手は苦々しげに光にこう言った。
『あ〜あ〜大丈夫かなぁ…
お姉さんなんじゃないの?あの人、
もし怪我してても俺のせいじゃないからね!』
しかし光は非情な声でこう言い放つ自分に胸のすく思いすらした。
『お姉ちゃんなんかじゃありません、
あの人は赤の他人です』
ふと目を放ったバックミラーに映る姉の姿が見る見る遠ざかってゆくのを、
光は今の今まで感じていた爽快さとは裏腹に今度は、か細い痛みが自分の内部をひっそりと一本の髪の毛のように刺し貫(つらぬ)いてゆくのを感じて心許無く見送った。
今も光の脳裡にタクシーのリアウィンドウ越しにどんどん遠ざかる姉の弱々しく泣き叫ぶあの声が遠く虚しく鳴り響いた。
『光!ごめんなさい…
こんな私をどうか赦して…!
こんな風にしか生きられない罪深い私を…どうか、どうかお願い…!』
姉はそう叫ぶと冷たく凍った地面に額を押しつけて泣き伏した。
『ああ…神様…どうかもう…私を赦して』



