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連載小説『恋する白猫』第四章・美しい星

明日は横浜に帰るというのに一体全体、今日はどこへ出かけるって云うのよ?
と母が悲しみより怒気を含んだ声を上げながら廊下を歩く光(みつる)の後ろをドタドタと慌ただしくついてくる。
光は玄関の上り框に腰をかけ、
長い間実家に置きっぱなしであった新しいままのハイヒールを履きながら、背後の母に向かってまるで耳の遠い人相手に叫ぶようにこう言った。

『偶然だけどこっちに滞在中、
近所の街で高校のクラス会があるらしいの、どうせだからちょろっと覗いてこようかなって思って』

『近所の街ってどこよ?
そんなのこれからいくらでも行けるでしょう?
それより短い滞在なんだから、
お父さんや私達家族と一緒にいる時間をもっと大切にしたらどう??』

『ずっとクラス会に出ずっぱりのつもりはないの、
ちょろっと覗くだけ覗いたら…
すぐに帰ってくるから』

『そんな、それじゃまるで冷やかしじゃないの』

『そうだよ冷やかしみたいなもんです、じゃあね』

クラス会は本当につまらなかった。
逢わない方がまだましみたいな歳の重ね方をしている輩(やから)ばかりだと感じつつも、光と同世代のクラスメイト達はまだ若く、誰が誰だか判らないなんてことは流石に無い。
女のクラスメイトは化粧の力も手伝ってか、酷く艷やかになった者、
既に熟年に差し掛かったかのような貫禄を三十路前にしてたたえつつある者まで居た。

決して高級ではないそこそこのブランド服を皆、然りげ無く着こなし、平成の名残りの中にも、令和の技巧を取り入れたメイクという自我を纏(まと)った「もと女子」達は皆、地味に品よくお洒落だった。
平成育ちとはいえ、今や強烈に令和の匂いに埋もれて暮らす彼らは小さな愉悦と同事に、不安にも似た小さな違和感の中にも棲んでいた。

この時代に没入度の高い者とそうでない者との間に差異は無く、その違和感はまるで空気のように平等に存在したがその違和感は特に有害なものではなかった。
むしろ今まで以上に簡便で尚且つ有益とさえなった様々な事象、
それらに連動して沸き起こるメリットが余りにも雄弁である為に、誰もここ僅か数年で生まれたその“違和感”をどう扱っていいのかよく解らないのだ、
もともとトリセツの無い違和感の大素(おおもと)といっていいコアな部分については、まるで脳が麻酔にかかったかのように、それについての想像をすることすら敵(かな)わないからだ。

日常些末な変異だけが彼らを分かりやすく動揺させるが、それも最初だけですぐ慣れ親しめるようになる。
皆、うわべだけ解り易いそのペルソナじみた顕在(けんざい)という名の手触りだけを頼りに、逞ましくと同事に麻痺的に生きているかのように光には見えた。

数年前、日本は令和を迎えたはしたものの、昨日まで世界を覆っていたあのどうと言葉に云い現わすことの出来ない異(ちが)いを感じて躊躇する者達、そうではない者達の狭間にいて、今や誰にも説明出来ない純正律にも似た幽か過ぎる揺らぎを日々光も感じていた。

そんな人間の秘奥で彼らを密(ひそ)かに酔わす揺らぎやブレといった遠心力、
ひじょうに感じ取りにくい振戦など説明のしようもなければ、彼等の今現在の生活にその不協和音とすら言い難い何ものかが、これといった影響を及ぼすことなど取り立ててありはしない。

だがなんとは無しに可怪しいのだ。

そう感じている人間もいれば、
たいして感じていない人間もまた大勢いる。
だが誰も何も言わないのだ。
光にとってはそれが不気味でしかなく、何よりも怖かった。
恐らくはどう言っていいのか誰も解らないのかもしれない、
仮りにそれを言ってどうなると云うのだろう?
平成までは薄紙を剥ぐように徐々に変化を遂げることの多かったことでさえ、
今や昨日と今日とでまるで白と黒ほど極端に変わる。
そこまで極端でない場合ですら、平均律に慣れていた過去の暮らしに紛れ込み始めたやや強さを感じる和音のように、光はそれを理解したいのに出来ない凡庸な人間の悲しみを覚えた。

‘’日本はこんな国だったのだろうか…?‘’

光は取り立てて外国に興味が無かったし、日本にしか住んだことが無いのにそう思うことが最近は度々あった。

‘’いいえこんな国を私は知らない、
いつの間にかここは見知らぬ国か、
あるいは遠い星のようになってしまった‘’

と光は時々その不安を声にして叫び出したいような焦燥感に駆られた。

今や速度制限の無くなった変容に次ぐ変容に息切れを起こし、それについていけない者は淘汰されるだけ、
その答えはもはや誰もが知っていることだった。

‘’戦争だってなんとなく対岸の火事みたいに誰もが感じているけれど、その癖、
不穏な温度差が基礎疾患みたいに眠れる日本人を日々静かに侵しつつある、
なのに誰も不安そうではない、
やがてそれらは癌となって赫黒く咲き誇るというのに人って多分好きな化粧品が廃盤になったことを嘆くほうがより自覚しやすく現実的なんだわ‘’
と光は思った。

それでも沸き起こる数年前からの、
このどうしようもない違和感、
日本人はどうしてこんなに変わったのだろうか?
執拗にそれを思うと光の中で起こる狼狽が、さながら渦巻く磁気嵐にも似てどう鎮めたらいいのか解らなくなり、彼女は時折小さくパニック的な過呼吸に陥るほどだった。
恐ろしい顛末を器用に、或いは靱(しな)やかに自分はこの先、回避出来るのだろうか?
光はなかなか寝つけぬ夜、布団に包まり、そう考えた。
回避出来ずにもろにその余波を受けてしまうのだろうか?

世の中の大抵の人間はたとえそんな余波を受けたとしても、その衝撃を家族の“人数ぶんの吸収“というクッション的作用で個人としてのダメージは分散され、多少なりとも薄めることが出来る。
そのことに依り、何となく助かるという恩恵にすら預かれる。
その大いなる避雷針のもとで庇護されつつ、偉そうに‘’生き残った、々‘’とさも自分独りで乗り越えたかの如くキャンキャンと吠えたくる室内犬にも似て、彼らが安寧と生き存(ながら)えることは幾らでも可能なのだ。

保健所で潰(つい)えていくことを当然と見なされるのはそんな環境など皆無の人間だけなのだから…。

そんなことは時代に関係無く薄々ずっと解っていたはずなのに、
今やダスター・シュートに投げ込まれる‘’モノ‘’のように、その未来を確実視しながら今を生きる者達の、あの生きた心地もしないヒリヒリとした思いは一体どこから来るのだろう?
そしてそれをどこへどう持ってゆけばいいというのだろう?
この国に、もはや自分達が吸える“空気”
など存在しなくなりつつあるというのに…。

更に光はこう思った。

何故、こんなにも私は不安なのだろう?
家族も実家も何もかもが既設された安全な背景が私にはあるはずなのに、
安全地帯から、その安全地帯にない人間に対し、アドバイスを気持ちよく恍惚として垂れることだって出来るこの自立しているようでしていない、より自由で快適な環境、
私はそんな恵まれた環境という名の満点の星空の下で生きることの許されたそこそこ選ばれた人間であるはずなのに、
と光は思った。
ダスター・シュートに振り分けられる類いの孤立し、困窮したあるいは異種な存在などではないはずなのに…
彼女の心の奥底でいつも小さく不穏な声がするのだ。

‘’なんとか無事でいられるのは、今だけみたいな気がする‘’と…

近くて遠い将来、もうこんなに安穏とはしていられなくなるだろう。
総ては怖ろしく発展し、それにより人の心情はかつて無いまでに酷薄になってゆく。
或いは昭和も平成もその面影などは日本の中で淘汰の一途を辿り、人々の持つコミュニティはその存在の意味すら失い、ただ物理的に或るだけとなるかもしれない、ついに残るのは国粋主義的な怒りと悲しみと渇望だけとなったこの惑星を闊歩する人間ではない何者かの未来を想像して、光は空怖ろしくなった。
布団でいくら身を隠してもその独りで過ごす恐怖の夜は彼女をまるで虫けらのように圧倒した。

私のような凡庸で無能な人間は、やがては掃き寄せられた塵芥(ちりあくた)のような余生を送り、若者も、そうでない者も、時代に悩まずして沿い切れる“真に選ばれし人間達”は、もしかしたらその頃、
異(ちが)う星へと新たなる移住を始めているかもしれない、

本当の話…と光は思った。
‘’そのカウントダウンはもう既に始まっているのよ、
だからこそ今、吸えるだけこの地の空気を吸っておかなくてはならないし、この地が続く限りこのささやかだけど愛すべき日々の営みを謳歌しておかないと…‘’
と光は思った。

だってきっとそれらはいつまでもは続かない、無自覚に気づいてる人もいれば、はっきり気づいている者もいる、
ただそれがいつ到来してくるのかは、
今や予測不可能だ。
徐々にではなくふいに足元を天変地異と酷似して掬(すく)われる時代に、時はもうスイッチを切り、移り変わってしまったのだから…。

そしてその全てに無自覚な「もと男子達」に光は視線を巡らせ、同じように清潔で同じようにスタイリッシュなその決まった型に依る空疎な羊の群れを見た。

男を見る目の無い光からすると、彼らの服のセンスは皆、同じように良かった。ヘアスタイルも皆お洒落で決まっていた。
そして同じようでない者は誰一人としてそこには居なかった。
また誰一人としてそう望んでもいなかった。

そんなクラスメイト達を横目に、匂いの無い凍りついた花のようなどこか脆(もろ)い嫌悪を光は感じた。
そしてその嫌悪感の底冷えの中、彼らとさも懐かしそうに彼女は談笑した。
その手合いの嫌悪感は、すぐに図太い慣れと共に消え去る昨夜見た浅い夢の続きのようなものでしかないからだ。

彼らとの会話における台詞は全部前もって決めた通りであっても、何故だか全て平穏にやり過ごすことが出来、内心光はそんな自分に満足していた。

しかしこちらを疑(じ)っと見つめるあのタイトなスーツ姿の男を見つけた光は、まるで自分の躯に穴が空いてしまうのではないかと思った。
その過渡に凝視する彼の無遠慮に光は思わず息を呑んだ。
すると忘れていた古傷の痛みが燃え盛るようにその昔(トラウマ)を呼び覚ました。

『…あいつだ!』

光は自分の顔を視線という粗暴な小刀で彫(え)るような勢いで自分をひたすらに見つめてくるその男から、そっと視線を反らした。

その男は子供時代、光と同じ公立の学区に住んでいた。その為、彼らは小中高と異種混合の兎小屋で飼われるあの児童向けの家畜のように否応なく昔から近しかった。
小学四年の頃彼は周りの少年達と、
つるんで何故か光独りに執着し、揃って執拗に彼女を虐めていた時期があった。
もともと子供時代の光は弱虫で、クラスでもよく虐められるほうではあった。
しかしこの男とその輩(ともがら)に依る虐めは特に病的に執こかった。
その挙動は子供ながらに性的な含みが色濃くありまだ幼い光はそのことに芯から怯え、傷ついた。

そしてその事態にさらなる黒い芽吹きの種を生んだのは、担任の男性教諭に依る何気ない思い出話だった。
『昔はスカートめくりというものが流行ったが、君達はしたこともされたこともないだろう?
馬鹿らしいことだったが、
それでもあれは当時の子供にだけ流行ったまるで麻疹のようなものだった』
教師はそれを語った時、子供達の中に潜む銃爪(ひきがね)をそっと引いてしまったことに露ほども気づかなかった。

その思い出話を切っ掛けに‘’それ‘’は男子生徒の中でも、とりわけ勉強が出来て早熟な少年たちの間でだけひっそりと、
だが同時に深刻な再燃という口火を切った。
そしてそのリバイバルは気位の高い一部の優等生の少年にだけ感染し、鎮かに浸潤すると共に、やがてそれは暗々裡に拡散していった。

帰り道その流行り病いに罹患した少年達に、狙われた光はひとけの無い学区内の死角である無人の袋小路で待ち伏せされた。
そこで3人の少年達に追い回された光は袋小路の傍を通り抜けるだけであった筈なのに、まんまと少年達に誘導されるかの如く自らその罠へと踏み込んだ。
逃げようと必死に試みる少女の血路という血路はすべからくその身を呈して障壁とする少年達に封じられ、独り悟った彼女は罠の中で思わず立ち竦(すく)んだ。

それは子供の戯びを装いつつも優れた計算性と凶暴性とを現代風にアレンジし、両立させた優等生達の洗練されたゲームだった。
だが彼らにとってそれは無力な少女に我が身の巨大さを誇示することの出来る大舞台でもあり、同事にそれにはゲーム以上の意味があった。
何故ならばその行為は、彼らはもう少年などではなく、世間が思うような子供ではないことを主張する唯一の行為だとその大義名分を彼ら自身が固く信じ込んでいたからだ。
その夢見がちな虚栄心を満たす為に必要なものは少年達が群れをなすという大掛かりで、同事にちっぽけな舞台装置ではあったが、それにより生まれたのは余りにも現実的な少女という被害者でしかなかった。

それは子供らしくためらいのない嘔吐のような激情に任せてほとばしる性への目覚めであり、と同事に獲物を捕らえる大人ぶった『狩り』でもあった。
あちらこちらで少女狩りの幼い被害者がいる、という噂はあったものの、
当時の光にとってはその噂の輪郭すら判然とはしない嘘か真(まこと)か解らぬまま、
いつの間にか忘れてしまうあの‘’トイレの花子さん‘’のような薄ら怖いけどよく解らない、そんな噂に過ぎなかった。

そしてそんな彼らに抑え込まれた光は抵抗という抵抗も虚しく、まるで生きた魚の鱗を剥ぐように次々と無慈悲にその衣服を引き裂かれていった。
最後に鞭打つような目も眩む力で下着を剥ぎ取られた光は、とうとう血を吐く老婆のように嗄(しわが)れて醜い悲鳴を上げた。
そんな少女の命乞いする姿を途中から呆然と見守っていた一人の少年がやがて震える声でこう叫んだ。

『もうやめよう!!
こんなの…!
酷(ひど)過ぎるよ僕たち!
いくらなんでも…
こんなの、こんなの…
……やり過ぎだよ!!』

もともと最初からその少年は他の少年達と違い、ゲームには消極的であったが、あとのふたりに命じられるがままになっていた。
そんな彼も内心独り、良心の呵責に苦しんでいた。

少女の悲鳴以上に悲痛な仲間の声を聴いた少年達は、急に鼻白み、興が削がれた様子となった。
そしてあどけなくも悪意に満ちたその残党は、やがて泣きじゃくる彼を口々に宥(なだ)めすかした。
やがて彼らは壊れて飽きた古い自転車のように、光をその場に横倒しにしたまま冷酷な一瞥を彼女の上へ残し、やがて無害な鳩が飛び立つが如く去って行った。

光は自分の靴さえすっかり見失ってしまっていた。
いつ少年達に奪われたのかも解らぬその泥だらけのソックスの脚で、べそかき半分、膝小僧から血を流し、跛行しつつ、破れかぶれの着の身着のまま帰途へと着いた。
しかし道半ばそんな妹を発見した当時高校生の姉、瞬(まどか)はまるで電撃に打たれたような挙措と共に妹へと駆け寄った。

『どうした??光っ!?
何があった?』

彼女は咄嗟に妹の小さな躯の一部がズタズタのスカートの下、何ものにも包まれずにいることを稲妻に打たれたかのように思い悉った。
そのことは、姉にとって妹の躯に触れてつぶさに確かめるまでもなかった。
幼若さが放つ激しい獣性にも似た拒否と涌き出流(いず)る羞恥とが姉妹の間に乗り越えられない壁を作り、それによって姉は妹に起きた全ての出来事を知り得たのだ。

と同時に傷ついた妹を乱暴なまでに抱きすくめるや否や、姉は解き放たれた暴れ馬のような勢いでどこへともなく我を忘れたように姿を消した。

何がその後起きたのか光は覚えていない、自分が泣きながら何を叫んだのかすら覚えていない、
ただ姉はその時共に下校中であった今は亡き親友の藤田麻佑子に『妹を頼む、なるべく親には知らせぬように家へ匿(かくま)い、すぐに着替えをさせて』
と光を託すなり、いきなり駆け出して行った姉の姿は翌朝になるまで誰も見ることは無かった。

後日、学校で光を見かけた少年達のあの総じて雷雨に叩きつけられ、濡れそぼったかのように小さく縮んで怯え切ったような様子を、光は長く忘れることが出来なかった。
あの悲痛な泣き声を上げた少年など今や光の存在を芯から恐れ慄(おのの)いていた。
彼は光に背(そびら)を向けると、その華奢で細っこい脚をもつれさせ、呂律の回らぬ乱麻のような足取りで遠く彼方へと逃げ去って行った。

光は、姉が何かを彼らに行ったのだと思う以上に、言いしれぬ不思議な力を自分の内側にも感じて酷く満足した。
そして少年は逃げ去る直前にこう口走った。

『ごめんよあんな酷いことして、でも君の姉ちゃんはもっと怖いよ俺思い知ったから…
もうよく解ったから、
だからお願い、
もう僕達を許して』

少年の言葉の意味をすべて理解したわけではなかったが、それでも光は、可憐で残忍な少年達の怯々とした姿を見るのが痛快でたまらなかった。
後々あのトラウマを親にも言えず、彼女は独り咽(むせ)び泣くこともあったがその都度、姉がいつの間にか光の前に立ち現われ、そんな光をしっかりと抱きしめてくれた。
そしてそれが頻回に繰り返されるたび、光はそれを決して忘れることの出来ぬ過去なりに、尚も続く激しい痛みとして自覚しないまでに徐々に立ち直っていった。

そんな妹の誰の目にも見えない密かなる成長と同時に、今度は何故か姉が明朗快活であったその性格をまるで余分な何かを削ぎ落とすように喪失していった。
やがて男勝りで明るかった姉は物静かな、ひじょうに取っつきにくい女らしい中にもどこか暗い女性へと変容していってしまった。

以降、光は姉がまるで見知らぬ人になってしまったかのように感じて淋しくも思ったが、今ではむしろ変わってしまった姉のほうが見慣れてしまい、遠い昔の記憶に在る姉のほうがまるで何かの思い違いのようにすら感じる時があるほどだった。

光は、クラスでも比較的親しかった「もと少女」とその子供についての会話を延々交わしていたものの、自分達も二次会へ繰り出そうという話が彼女の口から出るや否や、今までの親密さが嘘のように冷ややかにその帰り支度を始めた。
だがそんな彼女を気がつけば相も変わらず残酷で臆病なあの「もと少年」が凝視を降り注ぎ続けていた。

帰宅前、パウダールームで簡単にメイクを直した光は何故かハイヒールの足で記念ホールの床を、まるで雪上を踏みしめるように音も無く歩いた。
そんな光に彼はまるであの日のように計画性をもって声をかけた。
あの日と違うのは、彼が微塵も愉しそうではなく端(はな)から後ろ暗そうにしていたことだった。

『山田さん…久しぶりだね
あの…俺なんていったら良いのか今更なんだけど…昔は…あの時は…
本当にごめんなさい今更なんだけど…
あのこと…
もう一度君に謝っておきたくて』

『謝るって何を?貴方いったい誰?』

そんなことなど、覚えてもいなければ男のことすら記憶にも無いといったふりをすることで彼女は、自分の中にある薄っぺらく紙切れのように震える面子を辛うじて保とうとした。

しかし「もと少年」はどこまでも愚鈍で愚直で善良だった。

『君のお姉さん元気?
…いいお姉さんだったよね、
凄く妹思いの…』
そう言う彼は、自分の眼を見ようともしない光の惑乱に心無らずもその蒙昧だが常に稼働して止まぬ好奇心を揺り動かされた。

『お姉さん…まだあの…例の森に行ってるの?』

何故かその思いもつかぬ“ヘンな言葉”が光の心を不意打ちの如く殴打した。

『はっ?』と、光は彼を鋭く振り返ってそう言った。

『いや、だって…その…』

『何?なんのことよ、森って何よ?』

そう言いながらもふとあの過酷な体験が見えざる女神の手により覆い隠されたかのように耐えられるものとなった今、
ふと昔聴いたことのあるその女神自身の噂となって光の脳裏に今更急に蘇った。

光の住む街と隣り街とに跨がる部分に、玉蜀黍畑(とうもろこしばたけ)に取り囲まれたもとは神社があったと噂される森があった。
光はそれについてあまり詳しくはなかったが、森は禁足地としてそこいらでは有名な忌み地でもあったらしい。 
戦前の昭和の始め頃まで神社と言われたり、あるいは寂れた寺領であったとも言われる今や歴史が判然とはしないその森は田畑の中に忽然と在り、そう大きくはないものの確かに濃く繁茂する一見鎮守の杜風の外観であった。

光自身、時々人伝にその森へ出入りする姉、瞬(まどか)の姿を見たという噂を昔、たびたび耳にしたことを彼女は何故だか艷(なま)めかしく今更、急に電流に触れたかのように思い出した。

同時に父がまるで諭(さと)すかのように幼い光の両肩を掴んだあの分厚く硬い掌(てのひら)の感触を、彼女は昨日の事のように思い出し、急に怖くなった。
その父の手の温もりにどうしようもなく深い、誰にも癒やすことの出来ない悲しみが父を宿り木として少女である光の中へと、瞬時に輸血の如く流れ伝うのを彼女は鮮烈に感じたからだ。
そしてそれは過去ではなく、光にとって‘’今‘’だった。
そしてその“今”の中から昔の父は29歳の光にこう言った。

『いいかい?光、
そんなのはウソだ全部ウソっぱちだよ、みんなねここいらの街の人達はなまじっかお姉ちゃんの子供の頃からのことを中途半端に識っているから、
だからあんな悪意ある噂を流したりするんだよ、然しそんなのはね、ちょっとばかり他の人達より並外れた面が多々ある為にどうしても目立つお姉ちゃんへの嫉妬やそれによる低次元な意地悪にしか過ぎないのさ、
だからお父さんもお母さんもあんなこと、信じてやいない、
光ももうそんな噂は放っておいて…
そんな意地悪な人達よりむしろお姉ちゃん自身を信じてあげるんだ、いいね?』

光は父の言っていることの意味は全く解らなかったが、解らないにも関わらず同事に何故か腑に落ちるような錯覚も覚えた。
だが、それについて深堀りすることは光にとってさながら家族の忌諱(きい)に触れるかのようで、
どうしても出来なかった。
父の瞳を見てそこに巣食う深い悲しみと無念の波長を感じ取り、それに依ってその理由(わけ)や意味すら解らぬままに光は父と共に傷ついた。
だがまだ少女であった光に当時出来たことは、理解することではなくただ闇雲に頷いて父に共感するふりをして、それによって安心してもらおうと努めることだけだった。
同時にその噂の内容も、増してや真相も結局は知らされないまま、ただひたすらに両親への想いと姉の見えない‘’無実‘’とを信じようと彼女は無理矢理努めた。
それは‘’知らないふり‘’をすることであり、同時に真実を故意に識ろうとせず、敢えてそこには近づかないということでもあった。

だが「もと少年」のその言葉は鎮かな暗闇を褥(しとね)とし、光の中で睡る従順な仔鹿をヘッドライトのように鋭く突き照らし出した。
そしてその目も眩むヘッドライトの向こうから「もと少年」は弱々しい口調で彼女にこう言った。

『知らないのかい?
君のお姉さん、あの杜(もり)で発見されたんだよ、
みんな知ってるじゃないか、
君の姉さんは棄て子だったって』

『……えっ?』

『知らなかったの?
ああごめんね、しまったなぁ…
俺また余計なこと言ってしまったのかなぁ…』

『何よそんな…何を言い出すのかと思ったら…
一体自分が何言ってるのか解ってるの!?』

『ごめんねでも俺…大人になってからもずっと君のお姉さんのこと思い出すんだよ彼女こう言ったんだ、もうすぐ私の仲間が迎えに来るから…』

『……』

『そうしたら二度と今の家族には逢えなくなるから、妹にした酷い仕打ちを覚えておけって』

『何それどういう意味?』

『今この歳になってそんな馬鹿なことあるわけ無いって思う癖に、今でもあの言葉を思い出すと怖くてたまらないんだよ、
俺、もうすぐ娘が生まれるんだ、
もし娘の身に俺が昔、君にしたようなことが起きたらって考えると…
今でも怖くなるんだ、
そのことを思うと…ああ俺は一体、罪の無い小さな女の子になんてことをしてしまったんだろうって…
俺だってまだ子供だったっていうのに、』
と彼のその狂おしげな視線は、自分の足元や光の背後や宙に向かって心許無くフラフラと泳ぎ、その瞳には涙さえ浮かんでいた。

『本当にごめんなさい!
許して下さい山田さんっ』

彼は朽ちた折れ釘のように弱々しく、
と同時に深々と光に向かってその頭を下げた。

光はカフェのテーブルの上にあるエメラルドグリーンのバンカーズ・ランプに照らされた珈琲カップの中にその視線を落としていた。

そしてそこに回る珈琲のドライアイスの霧のような左回りの渦を見ていた。
さっきとはうって変わったカフェの中の雰囲気で、落ち着きを取り戻し始めた彼は、光に向かって本来話さなくてもいいはずの戯れ言をそのリラックスも手伝ってか思わぬ放埒さで話し出した。

『俺さ実を云うと君のお姉さんに子供の頃、憧れていたんだよね』

『お姉ちゃん綺麗だもんね、
みんな言ってたわ…
お姉ちゃんだけ家族の誰にも似ていない、
お祖父さんかお祖母さんにでも似たのか?って、
でもそういうわけでもなかったから…
私もずっと不思議だったの』

光はもと少年の病的なリラックスに感染し、心無らずも思わず幼馴染に話すような気易い口調でそう言った。

『いやそういうことではなくて』
と彼は小さく否定すると今更正気を取り戻したように光に向かって説明した。

『まぁ確かに最初はそうだった、
でもあんなことがあってから、
君の姉さんが怖くて怖くて、
今でも思い出すとちびりそうになるほどあの人のことが怖いのに…』

『怖いのに何よ?』
光はようやく正気に返ると、
その懐かしい侮蔑を唇の端にありありと取り戻してそう問うた。

『何か言いしれぬものに…
説明なんかつかないものに憧れてしまう時季(とき)って、人間にはきっと等しくあるんだと思う、
それを実行するかしないかは人に依るけれど、無自覚のうちにみんなその時季(とき)を通り過ぎていくのかもしれない、
それは例えば途方も無く巨大で聡明さすら持つ悪だとか、
一見素直で野放図に見える性であるとか』

『‥……』

『…子供の頃から憧れる遠い宇宙の果てのこととかさ』

結局彼が口走ったあまりにも浪漫的な話を軽侮した光は、思わずその場を後にしたものの、その帰途、彼に関するディテールを思い浮かべてはいちいち執念深くそれらを憎んだ。

その美容室に行っていなくても行ったかのように造り込まれた髪型、
蝋細工のように美しい手の容(かたち)
こもったような醜く質の悪い声、
とまるで親の敵(かたき)を見るように一々粗探しをしては光は彼を徹底的に嫌悪しようと努めた。

‘’あんな話、全部嘘、
よくそんな作り話が出来たわね、
どうして今更、そんな出鱈目を私に言うの?
私が信じるとでも思ったの?
確かに一瞬心を奪われたわ、
人間って身内のあり得ない話には酷く動揺するものなのよ、
…ただそれだけよ』

駅に向いながら、もと少年の話を反芻する光は遠く見えてきたその古い駅舎の上の空が、まるで昏く渦巻くような厚い雲となって低く垂れこめるのを見た。
やがて彼の言葉はもうすぐ雷鳴を連れて来る黒雲(こくうん)のごとく光の中を不安で一杯にした。

『君のお父さんとお母さんは結婚して何年経っても子供が授からなくてとても悩んでいたんだ…
そんな時、あの森で泣いていた赤ちゃんだったお姉さんを見つけて養女にしたんだ、
そのおよそ9年くらいのちに、
二人の間に本当の子供がまるで神様の気まぐれのように出来た…
それが君だよ山田さん』

タクシーは浅春の雪が未だ真冬並みに厚く積もった田畑の跡地が細長く延々と続くその寂れた風景の中の一本道をひた走り、その駅へと到着した。
そんな光は、背後で閉まるタクシーのドアの渇いた音にさえ怯えた。

ふと怯えた光が震えながら見上げた空に有り明けの月が在り、月の表面にはクレーターがさながらモノクロームの印刷物を貼りつけたように虚ろに在った。
そしてまだ夜ではないのに何故か月の傍に星が見えた。
それはまるで夜の星のように燦然と輝かしかった。

‘’そんなはずがない‘’と光は思った。

‘’昼の空に月はあっても、
星なんて…こんなに鮮明(はっきり)と綺羅めいて見えるだなんて、このことを言っても…
きっとまた誰も、私を信じてなどくれないだろう‘’

光は途方も無く広大無辺な孤独を感じて、無自覚の裡にその永遠という河の中でいつの間にか立ち竦(すく)んでいた。
 
そしてまだ明るむ空の中に不自然な輝度(きど)を持つその星を見ると、あの「もと少年」の言葉が彼女の中にその星と同じ輝度をもって蘇った。

『後から判ったことなんだけど殺人犯の子供なんだよ君のお姉さん、殺人犯の男は大昔に捕まったけど、産まれたばかりのお姉さんをお姉さんの母親はあの森に遺棄して逃げたんだ、
お姉さんを保護した君のご両親は事情を知っても尚、正式に手続きをして…
やがてお姉さんを念願の養女に迎えた、そして後から生まれた本当の娘と分け隔て無く育てたんだ、
君だけがずっとそのことを知らなかっただなんて…
なんだか信じられないよ、
多分君のお姉さんもそのことを知っているはずだと思うよ、
だってあの街では凄く…』
そう言うと彼はその美しく整えたアーチ型の眉をひそめ、同時にその声をも、
ひそめてこう言った。

『有名な話だからね』

その旧粧しい駅舎へと光は茫然と脚を踏み入れた。
駅のホームへ向かう階(きざはし)を登りつつ光はふと思った。

『姉の知る禁足地へと私も今、足を踏み入れたのかもしれない』と。

《第4話終わり》






to be continued to episode-5th


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