連載小説『恋する白猫』第十六章・ドッペルゲンガーの夜
『お姉ちゃんのことが心配なのよ』と電話の向こうの母は言う。
『最愛のべべが天使になってから…
お姉ちゃん毎晩帰りが遅くってさ』
光(みつる)は言う。
『でも車なんでしょう?徒歩で夜道をホテホテ帰ってくるわけじゃないんだし、いいじゃないの、それくらい、
大丈夫よ田舎なんだから、
それにねぇお姉ちゃんもう38よ、
とうに大人の女性なんだから、
少しくらいの夜遊びは許してあげたら?きっと女友達とカラオケ行ったり、
飲みに行ったり…
お姉ちゃんにはお姉ちゃんの付き合いってものがあるのよきっと、
別に悪いことしてるわけじゃないんだからさ、少しはほっといてあげたら?』
『…そうだけどさ…』
と電話の向こうのため息混じりの母の声は自分の“心配”に同調してくれなかった娘の素っ気なさへの不満が匂いやかなほど濃厚に滲んでいて妙に女っぽい、
それをどこか不潔に思う自分を感じて光は余計厭な気持ちになった。
『お姉ちゃんだけの世界もあるんだよ、
親の目の届かないとこで羽根を伸ばしたいっていうかさ、
お母さんだってそうでしょう?
まるで強力に縫い込まれたタグみたいに常に両親が張り付いてたら息が詰まることだってあると思うよ、
お姉ちゃん優しいから、私みたいにはっきりそう言わないだけでさ、
鬱陶しいんだよそういうの、
お母さんたちの過干渉、傍(はた)から見てててもお姉ちゃん、よくもまぁあんなに耐えてんなぁって思うもん、
私だったらとてもじゃないけど耐えられない、
逃げるね!絶対』
『酷いこと言うのねあんたって子は』
母親のしわがれた声が、いつもの童女のような声とは打って変わって強い不満と傷心とを表している、と光は思った。
“ちょっと言い過ぎたかな?…”
と彼女は小さく指の腹に刺さった植物の微細な棘ほどの内省をした。
幼い頃、そんな目には見えない棘を母はよく小さな毛抜きを使って取ってくれたものだった。
痛いけど取ってほしくない、
触れられたくない、
なのに母は姉にも自分にも“放っておいたら指が腐って落ちる”と脅しめいたことを言って子供の自分達は泣く泣くその棘を抜いてもらったものだった。
『昔から瞬(まどか)は何言ってもいつも何となく無表情だし、何考えてるのか今一つ解らないようなとこのある子だったけれど…
でもあんたよりは遥かに気立てが優しい子よ、あんたはいちいち言葉に棘がある』
『悪かったわね、じゃ、棘のある非常に美しい花はこれで電話を切ります』
さっきまで微小ではあるものの確実に在ったはずの内省はたちまち雲散霧消し、光はため息をついて電話を切ろうとした。
『ちょっと待ちなさいっ!話はまだよ』
『何よぅ…早くして早く、
要点だけ話して、今まだスイートハートに居るんだからさぁ私、厨房に籠もって話してんのよお母さんと』
『有栖ちゃんが店番やってくれてるってさっき言ってたじゃないの、若くてピチピチした可愛い子に接客は任せてあんたはお母さんの話を聞きなさい、
そのほうがお客さんたちだって嬉しいに決まってるわよ』
母はどこか、最後の件(くだり)を意地悪く愉しむかのように言った。
『あのね!お母さんのほうが私よりよっぽど惨(むご)くないっ!?』
言われっぱなしの温和しい母ではない、
必ず意趣返しを狙って後からこんな風に全然違う角度から娘の弱みを突いてくるのだ。
『そんなことより聞いて!
聞いてくれないんならあんたの今月の携帯代ちょっと苦しいっていうの助けてあげないからね?』
『何それ卑怯だぁ!後からちゃんと返すって言ってんじゃん!』
光は真剣に怒った。それとこれとを混同するなんて酷い親だ、と憤懣やる方ない彼女の耳に母親のトップシークレットを話す時のあの特有の声が、耳の鼓膜に吐息を吹きかけられでもしかたのように妙にハウリングした。
『お姉ちゃんね…どうやら男が出来たようなのっ!』
『えっ…』そう言ったっきり、光は言葉の接穂を失い、須臾、黙り込んでしまった。
が、すぐに気を取り直すと酷くぞんざいな口調でこう言った。
『あぁ…無いない!
それは無いから…安心して』
『どうしてぇ?なんでそんなこと言うのよ?お姉ちゃんに彼氏が出来たらおかしいとでも言うの?ソッチのほうが失礼じゃないの、
まぁちゃんはあの通りの美人だし、
スタイルもいいわ、あんたと違ってタッパもあるからお母さんが作ったドレス風ワンピも物凄く似合ってるし』
こんな時の母は多幸感に胸ふくらませ、“まぁちゃんラブ”が五月蝿いほどその内側から熱くねっとりと溢れ出ており、それはもう暑苦しいほどなのだ。
『何?…あの昔のフランス映画のヒロインみたいな白いドレス…
お母さんが作ったっていうの!?』
『そうよ〜、ねぇ可愛いでしょう!?
お母さんあんたが横浜へ行ってしまってからね、お裁縫習い始めてどんどん洋服作ってんの、昔、若い頃はね、将来娘が出来たら可愛い服いっぱい作って着せてやりたいと思って夢見てたのよ、
あんた達がまだ小さかった頃ね、
慣れたら自分の服も作ってみたかった…まさにオートクチュールって感じの既製服なんかには無いオシャレなやつをね、
でも共働きと子育てとに追われて毎日忙しくてそれどころじゃなかったわ…
お母さんも今はあんたの言う通りすっかりおデブちゃんになっちゃって…
どんな服着たって今更もう似合わない、
昔あんた達の小さかった頃、お母さんまだイケてた時もあったんだけど、誰も人妻なんか褒めてくれないしお父さんだってそう、忙殺の中、気がつけばこんなに歳をとってしまっていたわ…
でも今は、お姉ちゃんに可愛くて夢のあるデザインのお洋服や映画で昔見たことのあるような憧れのドレスを縫うのがお母さんの生き甲斐なの、
どんどんデザインブックにデザインして…
どんどん見る見る裁ち上げていって…
それをまぁちゃんに着せる時のこの胸のときめき!?あんたに解るっ!?
お姉ちゃんたらまたそれがねぇ、
すべからく似合うのよ!
それに優しいまぁちゃんはいつもニコニコ喜んでくれて…』
ここで母は電話の向こうで何故かハウリングした状態のままククッと笑った。
『“お母さんの手作りはまるで一つの美しい世界”って…そう言ってくれるのよ、
ね?まぁちゃんらしくてまるでワケわかめみたいな言葉でしょう?
でもお母さんそれが嬉しいの…
そりゃあお母さんだって世界一周旅行とか、いつの日かお父さんと一緒に行けることを夢見ていたわ、お父さんがリタイアして夫婦で仲良く豪華客船…
でもハワイはおろかソウルだって無い、
外国なんてぜーんぜん縁のない人生だったなぁって…きっとこれからもそうなんだろうな〜淋しいな〜…って…
だけどお姉ちゃんからあんな風に言われるとね…あの子の為に“これはパリ風”、
あるいはニース風、これはマドリード、そして香港、マカオ、ニューヨーク、
ローマにヴェニスにウィーン…
とか思ってさ…
行ったこともない外国の夢を見ながら一着一着仕上げていくの、
そしたらまるで世界中を旅してるような…優しい錯覚に浸れるのよ、
でもあの白いドレスワンピ初めて着た時、お姉ちゃん沈痛な面持ちでこう言ったのよ、
「お母さん私に本当はお嫁に行ってほしいんでしょ?」って、
そういうつもりであれ作ったわけじゃなかったから驚いたんだけど「ごめんね」って…「いつの日かお母さんが理解出来ない私を知る時が来てしまうかもしれないけど解って欲しいの、私の中に流れる血がいつも私に叫ぶのよ、
それに抗うことが私にはどうしても出来ない、ずっと子供の時から思っていたの、いっそのこと何も知らなければよかったのにって、でも知らない時ですら気がついていた、無自覚に気がついていた……
違う違う!これは私じゃないって、
何かが可怪しい、でも何が?って、
私は一体何者で何処から来たんだろう?って、それを知ろうとすると私は私からどんどん遠ざかっていってしまうの、
でもそここそが真の私の居場所なのかもしれない、ごめんねお母さん、
お母さんを愛しているのに私ったら親不孝よね」って…
びっくりしちゃうわよね…
ああいうことを言うんだから…
やっぱり昔からあの子は普通じゃないわ、だから優しくても友達は出来にくいのかもしれない、鋭敏過ぎるのよ、
でもね…あのドレス大切に着てくれてるのよ、ブラシ掛けてそれは丁寧に扱ってくれて…誰かさんは既製服だってせっかく買ってあげたものを“こんなの私の趣味じゃないから”ってポイッとそこいらに打っちゃってしまうけれど、瞬(まどか)は違う、いつもいつも…あの子は本当になんにつけても優しい娘よ』
『…それで?どうしてお母さんは、お姉ちゃんに男が出来たって思ってるの?』
げんなりと疲弊したため息が態(わざ)とらしく出てしまうのを光は抑えることが出来ない、結局何が言いたいんだよ?とすら思ってしまう。
『そう、それなのよ』
と、母はまるで夢から覚めたかのように気を取り直すとそう言った。それはまるで電話の向こうで自分で自分の手のひらをポンと打つかのようなどこか間の抜けた言い方だった。
だが、次の瞬間、返ってきた母の言葉は光にとって思いもかけない異様なものでしかなかった。
『お姉ちゃん付き合ってる男ってもしかしたら…麻祐子ちゃんの元カレなのかもしれない…』
『…へっ?』
光は、暫く二の句が継げずに黙ってしまったが、ようやくこう尋ねた。
『…なんでまた…そんなこと思うのよ?』
そう問うても答えが何故だか返ってこないことに痺れを切らして光は更に問いかけに問いかけを被せてこう言った。
『何かそう思える根拠みたいなのがあるの?』そう問いかけながら光の言葉はどこか虚ろに母と自分との距離感に一層距離を与えただけのような、言葉でありながら同時に余白みたいな沈黙をその問いかけそのものに宿してしまっていることに気づかなかった。
『無いわよ根拠なんて、そんなもの…
あるわけがないでしょう?ただなんとなくそう思っただけなんだもの』
ようやくそう言った母の声は、しかし母にしてはどこか重々しかった。
その重々しさを保持したまま、母はこう言いつのった。
『ただ…以前、麻祐子ちゃんのお母さんがね、言ってたのよ、麻祐子ちゃん電話で泣きながら彼氏に話してる時、こう言ったんだって…
“愛しているのはシュンちゃんだけよ、
でも私たちいつまでもこんな風では、
いられないでしょう?”って』
『シュンちゃん…相手の人はシュンって名前なんだ…』
『お母さんもね、今頃になってそのことフッと思い出して…その人今頃どこでどうしてるんだろう?とかふと考えたりしてしまうの…』
『…そう…』
そう言いながらも光の頭の中でいつかどこかで聴いたか、あるいは聴いていないか?
それとも単なる想像か、テレビドラマか、夢の中ででも聴いたのか?
昔、火事や津波を知らせる為に鳴らされていたというあの身に覚えのない不穏な半鐘の音(ね)が絶え間なく鳴り続ける。
そして、もう一人の光が光に耳元でこう囁くのだ。
“瞬(まどか)は訓読み、でも音読みだとシュンだ、
じゃあやっぱりそれは…お姉ちゃん?”
『でもそのシュンって人とお姉ちゃんはなんの関係も無いんでしょう?接点すらないんだから』と一応しらばっくれて光はそう母に試問した。
『うん…』と妙に艶消した声が返ってくると母はこう言った。
『お父さんがね…隣街っていうか…
定年仲間と飲みに行った夜に盛り場みたいなとこですれ違ったある人がね…
…そうだったんじゃないかって言ってるの…』
『そうだったって…どういうこと?』
想像力をどう掻き立ててみてもその話には唐突感しかない、話の筋道に脈絡が無いばかりかそれに即した展開もなんにもなくただ急にそんなこと言われたって、と光は思った。
『その“人”ね、お姉ちゃんの車に乗ってたんだって、つまり運転席に若い男性が座っていたって…
助手席には女性が座っていたんだけど、
ケープみたいなので顔を覆い隠していてサングラスまで掛けていたから、顔はよく見えなかったらしいんだけど…
お父さんはきっとあの女性がお姉ちゃんだったんだろうって…なんだか…狼狽(うろた)えたみたいに言っていたわ』
『そう…』と言いながら光は心中“どっちなんだよ?”と突っ込みそうになっていた。その運転手がお姉ちゃんだと思ったんじゃないの?光は心の中で呟いた。
“多分そっちのほうが当たってるって”
『…でも…お父さんは無理やりそう思い込もうとしているだけなの、本当はね………
その…助手席の女の子なんかじゃない、運転席にいた男が…あれはどう見たって瞬(まどか)だったって言うの…
…でも…でもよ?
そんなことってある??』
『……そう、確かにね』と静かに答えながら光は“ほぉ〜らね”と思っていた。
『お父さん、それを見たって言って帰ってきた夜はとても動揺して狼狽えてたわそして今になってようやく“きっとあれは見間違いだ、瞬(まどか)によく似た青年だったんだ、だってそんな馬鹿なことがあるわけがない”って言ってるの、
お母さんもそう思うわ、お父さん何、血迷ってんのよ?って』
“そりゃあそう思いたいわよねぇ自慢の娘が実はオトコでしたなんてねぇ”と光は電話の向こうで頷いた。
『それお父さん見たのいつの事なの?最近?』
『最近よ、ちょっと前、先週末くらい…お父さん今もなんだか沈んでるわ、
でも瞬には何も言えないでいるの、
お前最近夜遅いけどどこ行って何してるんだ?くらい聞いたっていいはずなのに…
その“彼”を見て以来、お父さん自信失ったみたいにしょんぼりしてて…
お姉ちゃんは逆に妙に明るく振る舞ってて…お母さんその板挟みでなんだか辛いの…』
『解った、そりゃあ辛いよね、で?
お母さんはどう思ってるの?』
『う〜ん…お母さんはそれを見たわけじゃないから…きっとどちらもお父さんの見間違いじゃないのかな…』
と言った後、妙な長い沈黙が在った。
“そんなの見間違いに決まってるじゃない”と妹に明るく笑って一蹴して欲しがっている母の底しれぬ不安がビリビリと電波のように伝わってきた。
『じゃ何故、お姉ちゃんに男が出来たなんてお母さんは思ったの?それがなんだかおかしいじゃない支離滅裂だよ』
『だってさ〜帰りが遅すぎるじゃない?』と母は苛々した口調で言う。
『夜明けとともに返ってくることもあるのよ、本人は独りで海が眺められるところへ行って夜の浜辺に独りで居たとか言うんだけど…信じられる?
そんな…
独りっきりで真っ暗な波が打ち寄せるのを見ていた、だなんて…』
『お姉ちゃんはそういうことする人だと思うよ、まぁなんというか…自分の姉だけど…
…ちょっと変わった人だし…
それはお母さんだって解るでしょう?』
『…まぁそうね確かに…風変わりなとこはあるこたあるわね、でも人畜無害な変わり者だったら別にいいと思うわ、
だってしょうがないもの、多分ああいうとこがお姉ちゃんの…なんていうのか、“らしさ”にも繋がるんだとも思うから…』
そう言っておいて母はよほど不安なのであろう、話の落ちどころを見失かったかのように取り留めが無い母の話はまるで終わることのないリフレインのようにいつまでも続く。
その繰り言の奥底に光は、母の意外なまでの孤独の深さを感じてふと疑問を感じた。
お父さんとその不安を何故分かち持たないのだろう?話してその気持ちを分散すればずいぶん楽にもなるだろうに、
以前の母ならそうしたはずだ。
少なくとも光が家に居た頃の母なら迷うことなくそうしていたはずだった。
母はそんな娘の気持ちには露ほども気づかぬままこう言い及ぶ。
『でも心配なのよ…
あのちょっと…理解出来ない異文化圏の人みたいなとこが…
普段は普通なのに何かの拍子にまるで…』と母はため息をついた。
『自分の娘は本当は宇宙人なんじゃないかって思ってしまうことがある…』
『お姉ちゃんは…』と言って光はその先の言葉を飲み込んだ。
“本当は他所の人なんでしょう?あの禁足地に棄てられていたのよね”と光は心の中で母に向かって言い放った。
然しその問いかけをどうしても声にして出すことは出来なかった。
『お父さんも叱りはしないけどとても心配しているの、
だってもし急に“お母さん私、赤ちゃんが出来たの”なんて言われてご覧なさい?』
光はただ苦笑するしかない。
『それに…麻祐子ちゃんの元カレがお姉ちゃんと同じ車種に乗ってるって噂を聞いたの、それ本当に麻祐子ちゃんの彼氏だったの?って聴いたら…間違いないって、近所の人たちは言うのよ、
もしかしたら…麻祐子ちゃんのその元カレとお姉ちゃん…何か関わりがあるのかな?』
『それでそう思ったっていうの?お姉ちゃんと麻祐子さんの元カレが…って』
『男なのに色白で肌が妙に綺麗な、
目のぱっちりした…
美男子だったらしいわ』
それを聴いて光は母は本当は気づいているのではないか?と思った。
薄々気づきつつもハッキリとはそれを認められず話の中核にも触れられずに、
その周りを怖々と迂回しているだけなのではないか?
『変な噂も聞いたのよ、その男の子とお姉ちゃんが一緒に親しげに肩を並べて歩いていたって』
『まさか』
そんなわけがない、
噂とは恐ろしいものだ、無いことがあることにされ、何もないところにしっかり煙が立ってしまうのだ。
みんなはそんな噂話が大好きだ。
青年が独りで歩いていたとしてもそこへ、尾ひれがついていつの間にやらふたり揃って仲睦まじげに歩いていたということになる。そんなことがあり得るとしたら、男装の姉というドッペルゲンガーと普段の姉というドッペルゲンガーが出くわして仲良く一緒に歩いていたってことになるわと光は思った。
『兎に角、急に妊娠を告げられたりなんてことはお姉ちゃんに限ってそんなことは絶対無いから』
『そお〜お?』と何故か失意を含んだような声を出すと母は言った。
『なんだか光からそう言われると、安心なような…ちょっぴり落胆なような…』
『落胆って何よ』
『だって…お姉ちゃんだって恋人くらい出来たって全然おかしくないはずよ、
どうしてあの子はいつまでもああなのかな?きっと奥手なのね』
『ねぇお姉ちゃんに私がパソコンへメール送っといたから読んでって言っていたって伝えといて』
『え?あらそうなの?珍しいわね、
伝えておくけど…
あんたこの間、こっちへ帰った途端、
横浜へ帰っちゃって…
あれはちょっと酷いよ、家族にあんまり冷たくしないで欲しいわ』
『そんなつもりはないけど…』
と、光は急に陰鬱な声を出した。
『どうせお姉ちゃんと何か些細なことで喧嘩したんでしょ?あんたが帰ったあの日、瞬(まどか)寝室へ籠りっきりになってベッドに身を伏せたまま二日くらいずうっと泣いていたのよ、
飲まず食わずでね』
『………』
『お姉ちゃん今、少し好くはなってきたけど軽い鬱があるから…あんまり虐めないであげてよね?』
『虐めてなんかいない!』
『嘘ばっかり!でなきゃあんなに二日間も寝たきりになって泣き暮らすなんて可怪し過ぎるじゃないの、何があったか聞いても何も言わないで鬱だからそっとしておいてって…それしか言わないのよ
でもお父さんも言ってたの
“どうせ光から何かキツいこと言われたんだろう”って』
『…酷い、
なんにも事実を知らないで、お父さんもお母さんもそんなこと言うのね…
いつもふたりはお姉ちゃんを庇ってばかりで私を庇ってくれたこと一度だってあった!?』
『でもどうせそうなんでしょう?
だからメールでお姉ちゃんに謝りたかったんじゃないの?でもそのことちゃんと伝えておいてあげるから大丈夫よ』
『なんにも知らない癖に』
不意打ちのように飛び出してきた母の言葉に微塵も心構えのなかった光は慄然としてその声も唇も激しく戦慄(わなな)いた。
『親の癖してお姉ちゃんの本当の姿なんかその影すら知らない癖に、
それなのに勝手な想像だけで私一人を悪者にするのね!』
母が思わず何かを言い返そうと息を飲むのを耳にしたが、光はそれを切って棄てるように遮るとこう言った。
『もういい!』
電話を切り、荒々しくキッチンの流しの上へ携帯を投げ出すように置くと、光は顔の上へ乱れ落ちてきた前髪を一気に指で梳かし上げ、一瞬、口にくわえたバレッタでその捻じりん棒にした長い髪をばちんと乱暴に一つに留めた。
深くため息をついた光へさっき投げ出したばかりの携帯がシンクの上でもう一度鳴り響いた。
悔し涙に震える光の唇に次の瞬間、指先が吸い付くように押し当てられた。
そしてその指で携帯へと飛びついた。
『みぃちゃん?来ちゃった…
でももう遅いね…私もう間に合わない?スイートハート…そろそろ終わりでしょう?』
『いいの』と、光はもう思いっ切り泣いて身を投げ出せる悦びに身を焦がしながらわざと穏やかな口調となってこう言った。
『そんなこと…いいの、スイートハートはまた明日ふたり一緒に来ればいいんだから…』
平静に話す自分の胸がまるで別人格の者のように音をたてて脈打つ。
“ああ苦しい!”と光は思いながらもこう亜希子に問いかけずにはいられなかった。
『今夜はうちへ泊まるでしょう?』
『ええ…また、二日くらい居候しちゃってもいいかな、今日は下着とか…ちゃんと持ってきた』
『今どこ?』
『駅前』
『じゃまだ遠い…』
『私がそっちへ着く頃には閉まっちゃうね、スイートハート…』
亜希子の悲しげな声が、遊歩道を歩く音と共に光の淋しい耳朶(じだ)に懐かしくと同時にまるで踏みにじるように残酷に響く。
『リリーに逢いたい?』
『そりゃあ…』と見えない亜希子が悲しみと抑えきれない愛とにうつ向くのが光には目に見えるかのようだ。
『私じゃ駄目?
私がいるのに?そんなにリリーじゃなきゃ駄目なの!私、今夜凄く美味しいお夕飯作って上げる!どう?猫のリリーにそんなこと出来る?あの子はただ可愛がられるだけ、私は亜希子さんを可愛がってあげられるわ、悪夢を見たら抱き寄せて子守唄を歌ってあげる、
不安で眠れない時はギュッてその手を握りしめてキスしてあげる』
少し驚いた亜希子が息を飲むのが感じられたが、光は更に言いつのった。
『今夜は私がリリーになってあげる!』
『馬鹿ね、どうしたの?大丈夫?』
電話の向こうで亜希子が話しながら思わず立ち止まったのが解った。
『どうせ、馬鹿よ私は…!』そう泣きながら言うと光は、今度は落ち着き払ってこう言った。
『ゆっくりゆっくり歩いてきて、
あと5分もすればスイートハートも閉店だから…店じまいしたら私、その足で迎えにいってあげる』
『解った、光を待ちながら歩くね、でも』と亜希子は言った。
『急がないでね、
闇路で踵(かかと)をくじくと大変よ、
だって今日も…あのハイヒールなんでしょう?』
『そうよでも慣れてるから…』
『解った、ゆっくりゆっくり歩きながら光のこと待つね、馬鹿って言ってごめん、本当はそんなこと思ってないよ』
『うん…解ってる』
突き上げる喜びに鼻を啜り上げて光は電話を切った。
夜道を駆けてゆくうち、近づきつつある晩春の嵐の予感が光の冷え切って逆に熱い耳元と頬とを、ひゅうっという音と共に吹きすぎていった。
“さっき光(みつる)って私を呼んだ、
初めて呼び捨てにした、今までずっと“みぃちゃん”だったのに”
春寒つのる宵闇の中はらはらと夜の桜雨が舞い落ちる。
”独りぼっちが独りぼっちに逢いに行く
んだ、”と光は思った。
”こんなに一心不乱に夜の中を駆け抜けて…”と光は思った。
“でももうこんな夜の中、
私たちは独りぼっちじゃない”



