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連載小説『恋する白猫』第弐拾六章・裸足のアリス

サイモンは我が目を疑ったがそれは間違いなく有栖(ありす)だった。
彼女は全速力で商店街の中央を駆けてくる。しかも彼女の足もとを見て彼は思わず瞠目した。
なんと有栖は裸足で走っているのだ。

無我夢中で走りながら有栖は商店街で一番古い豆腐屋のそばを駆け抜けた時、時々猫カフェへ遊びにくる店主の父親である祖父が店先でディレクターズ・チェアを出し、その膝の上に年老いて非常に大きな三毛猫を乗せて座っているのが一瞬、目に入ったが、無論挨拶などする余裕はなかった。
彼女は90になったばかりの先代の眼の前を疾風(はやて)のようにすり抜けていったが、先代は驚いて『おや有栖ちゃん!なんとまぁ…』
と言い、隣りの息子に『おい正彦見ろ、あの子、商店街を裸足で走ってった…
ありゃまるでアベベだな』と言った。
豆腐を水の中から素手で掬い上げながら息子の店主は『ありゃあ、いつも仕事サボってばかりのほうの娘(こ)だ、
跳ねっ返りめ、商店街を裸足で走ったりしやがって、そのうちあの細っこい脚の骨、折っちまうぞ、
オーナーさんもあいつに少しは働き者の光(みつる)ちゃんの爪の垢でも煎じて飲ませりゃいいのによ?』

いろいろ言われながら有栖は駆けるその先にサイモンの姿を見つけ、涙があふれそうになったが、ふとサイモンの後ろから歩いてくる背の高い白人青年に気がつくや否や彼女は迷わずその名を叫んだ。

『トビィ!!』

“えっ…!?”と青い顔をして後ろを振り返ると、例のドイツ人青年・トビアスが、余裕のある笑顔でゆったりと歩いてくる姿が、戸惑うサイモンの目に入った。

『…アリス!』

と、彼もそう言って微笑みながら、有栖に向かってどこかおっとりとその片手を上げた。
188センチあるトビアスは明るい栗色の髪を、商店街の中を吹く晩春の風に揺らしつつ、恐らくはサイモン同様、スイートハートへと向かっている最中だったのだろう、
『トォォォォビィィィィー!』
と、絶叫しながら有栖はサイモンの身体をすり抜けて、遠く彼の背後を歩くドイツ人青年の身体にまるで巨大なカエルのような跳躍力で飛びついた。

『どうしたの?アリス!君とこんなとこで逢えるなんて』

有栖はトビィにしっかと抱きとめられたまま、骨っぽくて少女のような両足を彼の身体に強く巻きつけた。
まるでチンパンジーが育ててくれた飼育員に嬉々として抱かれているようだとサイモンは思った。

‘’だが、悔しい…‘’

サイモンは今にも涙がにじみそうになるのを耐えて、そんなふたりをただ棒立ちとなったまま見つめるより他なかった。
『ああ、僕の可愛いアリス』
そう言ってトビィは有栖を抱きしめながら、彼女の頭や耳、首筋にキスの雨を降らせていたが、やがて彼女をゆっくりと下へ降ろすなり、改めて有栖が裸足であることに今更驚愕して、

『アリス、君、裸足なの??』

『そうよ思わず裸足のままスイートハートを、飛び出してきちゃったの』

『こんな固いとこ走ったりして…
怪我しなかったのかい?』

信じられない…といった様子のドイツ人青年は愛しい筈の日本の小娘の意外な強靭さと並外れた風変わりさとに、ワンテンポもツーテンポも遅れた瞠目を放ちながらそう言った。
だが、肝心の有栖は平気の平左である。

『大丈夫なの、私、昔からとても悲しいことがあると、京都の街の石畳の上をよく裸足で走り回ってたから…
“猿から生まれた村上有栖ちゃん”なんて…よく近所の人から呼ばれていたの、
だからもう…もう慣れっこ!』

そう言ってホワイトニングしたての目映いほどの白い歯を、わざと見せつけるように思いっ切り大仰な笑顔を作ると、
『私って京都生まれで、大阪育ちの野生児だから』
そう言った直後に、彼女は自分の破天荒さがもしかしたらトビィに眉をひそめられはしないか、と急に不安になり、思わず、こうしおらしく取り繕った。

『まるで猿でしょう?
…でもいつもはこんなんじゃないのよ』

『悲しいことって…何かスイートハートであったのかい?』

『光(みつる)って知ってるでしょう?
あいつに虐められたの、
いつもそうよ、
ずっと我慢してたんだけど、私よく歳上のおばさんから虐められるの、
何もしていないのに…
彼女ったら酷いわ!』
と言って有栖は、自分の肩に顔をつけるように向けて、いかにも泣いている顔を隠すかのような健気ぶった小芝居をして見せた。

『それで悲しくなってスイートハートから駆けてきたってわけかい?』

上目遣いの泪目で頷く有栖を見て、異国の青年はその碧い瞳をたちまち曇らせた。

『ああ、可愛そうに有栖、
僕から店主さんに一言言ってあげようか?』

『彼女は店主じゃないわ、
それに彼女、私と違って英語は理解しないから言っても無駄』

『とにかくスイートハートへふたりで戻ろう!』

『無理よ、私が中へ入れないよう、
鍵をかけたに決まってるわ、
あの女はとても陰湿なんだから、
若い私に嫉妬して…私いつも彼女から虐められているの…
もうこれ以上我慢出来ないわ』

『そうか…でも客の僕と一緒でなら、
入れるだろう?大丈夫僕は有栖だけの味方だよ、心配しないで、君を守るから』

甘えたようにその首っ玉に抱きつく華奢な有栖の躰を、青年は軽々と路面から、さらい上げると再びゆったりと、
さながらサラブレッドの歩様のまま、
どこか優美な所作で歩き始めた。

中年の世帯やつれ丸出しの主婦連や7、80の高齢者たちが、手押し車を押しながら、のんびりと歩くこの長閑(のどか)な商店街の真ん中を、長身のドイツ人青年が小柄な有栖を抱き上げたまま闊歩するというその姿は、まるでそこだけ切り取った異世界であるかのように恐ろしく目立つ。

しかも通常、伏し目がちとなって恥ずかしがりそうなものを有栖はトビィの腕の中から、まるで『ドヤ?ワレ』といった様子で鼻を鳴らして周囲を悠然と見回す始末である。
彼らが自分のそばを通り過ぎようとした時、サイモンは心配のあまり、思わず有栖にこう声をかけずにはいられなかった。

『…有栖、足は大丈夫かい?
怪我はしてない??』

しかし、すまし返った有栖はそれには答えず、トビィが代わりに、
『彼女は大丈夫、
僕がスイートハートへ連れて帰るから心配しないで、シモーネ』
と答えてサイモンはムッとした。
思わずそこいらの《鍵と傘の修繕、
致します》の古びた看板を足で蹴っ飛ばしてやりたい思いになるのを耐えて彼はギリギリと歯噛みした。

‘’お前になんか聞いてないよっ!‘’
と、彼は心の中で犬のように唸った。

『何が“シモーネ”だ!
アリスですら僕の名前をシモンだの、
シモーヌだのと、いまだにどうしても聴き取れないというから仕方無く、英語読みのサイモンで通しているんだ、
でも本当は不本意なんだ、
その俺の本名をお前なんかに正確に呼ばれたりしてたまるか!?
俺をシモーネと呼んでいいのはここではアリスただ一人なのに!』

有栖を抱いて遠ざかろうとするトビィの背中に、サイモンはまるで石礫(いしつぶて)のような尖った言葉を投げつけた。

『トビアス、君、婚約者のヴァネッサはどうしたの!?
あの赤い髪の彼女だよ!
捨てたのかい??』

『………』

トビィは抱いた有栖の身体ごと、ゆっくりと振り返るとこう言った。

『…ヴァネッサは婚約者なんかじゃない、それに彼女はもう…
シュトゥットガルトへ帰ったよ』

『とうにね…』
そういう彼の深い碧眼は、なんの関心もない無感情で平坦な光を放っていた。

『でも彼女は君の恋人だったんだろう!?』
と、サイモンは試問するや否や、
今度はトビイの腕の中で、のほほんとふんぞり返る小娘に叫ぶように哀願した。

『アリスッ!目を覚まして!
トビアスは君に今は優しくしてくれるかもしれない、でも彼は君と出逢ってすぐに長く付き合ってきた大切なガールフレンドを急に飽きたオモチャのように捨てるような男だ!!
…いずれ君のことだって…』
だがその先はトビィによって遮られた。

『いいか?シモーネ、
君は何も解ってない、
ヴァネッサは単なる友達でしかなかった、何度も言うが、彼女と僕とは、恋人同士や婚約者なんかじゃなかった、
それと…』
と彼は、サイモンに向かって長い指を突き立てるとこう言った。

『僕はトビィだ、
トビアスなんて呼ぶな』

‘’ドイツ人は第二次世界大戦以降、
代々払拭することがどうにも出来ない深い罪悪感を植えつけられて、その為にイタリア人に比べると誇りが薄いんだ、
だからケヴィンだのローラだの、
トビィだのヴァネッサだの、
まるで、アメリカンのような英語の名前をつけるようになってしまった。
今じゃミヒャエルなんてよほどの爺さんしかない、
…でもイタリアは違う!
アメリカや英語の発音や文化におもねったりなどしない、
誇り高きイタリア人はいつまでたってもジュゼッペやジャンニ、
そしてシモーネだ、
そこに古臭いも何もない、
ドイツ人は過去のために誇りを失い過ぎなんだよっ!‘’
悔し紛れにサイモンはそんなことを思ったりしたが、アリスを抱いたまま、トビィがスイートハートを目指して歩くその後ろ姿を思わず、憎々しげに睨みつけた。

そしてその背後からサイモンは仕方なく、トボトボと恨めしげな上目遣いの、まるで冴えない猟犬のように尾いていった。

彼らはスイートハートのお客様専用の表玄関からドアベルを鳴らしながら入って行った。

光(みつる)は、キッチンの勝手口から、こっそり有栖が再び帰ってこれないように施錠してしまっていたが、こんな形で有栖が堂々と、正面玄関からスイートハートへ帰還するとは夢にも思わなかった為、度肝を抜かれた。

次いでサイモンがソバカスだらけの顔を、何故だか真っ赤に染めながら入ってきた。

光は困惑し切った様子でその三人を見ていたものの『有栖ちゃん、貴女いったいどこ行ってたの!?
仕事中にキッチンのお勝手から飛び出してゆくなんて子供みたいなことされたら困るわ!』と言った。

トビィの腕の中から有栖は、いかにも丁寧な所作で床へ下ろされながらも、
トビィの耳許に爪先立ちをして彼女はそっとこう囁いた。

『私、彼女に虐められてるの!』
愛敏(あざと)い仕草で、有栖はメロメロの愛猫家に甘える仔猫のように、その額をトビィの広く厚い胸に軽くぶつけながら、大きな黒い瞳を潤ませて、彼を微熱に魘されたかのように熱っぽく見つめ上げた。

何を言われているのか具体的には解らなかったが、決していいことは言われていないことは本能的になんとなく察した光は厭な心持ちとなったが、『彼女のぶんのお金も僕が払う、有栖は今日はここのお客だ』とトビィが身振り手振りを加えた英語で言ったため、光は不本意ながら、それに逆らうことは出来なかった。

トビィと有栖ご所望のホットコーヒーふたつと、サイモン御所望のクリームソーダを作りに光はキッキンへと背を向けた。
するとこんな有栖の声が聴こえてきた。

『彼女もうすぐ40なのよ、
若く見えるでしょう?
でもほんとうはもうババァ』

光はくるりとその身を反転させると、
有栖の前へ進み出て、簡単な英語でこう言い放った。

『あのね!私は29歳、
だからもうすぐ30…
…40じゃないわっっ!』

そして更に今度は日本語で、有栖に向ってきっぱりとした口調でこう言った。
『勝手に私の年齢を十(とう)も捏造しないでちょうだいっ!』

『ふん、おんなじようなものじゃない』

『どこかおんなじなのよ全然違うじゃないのっっ!?』

しかしあることをふいに思い出した光は、その怒りの矛先を自分の悦楽の為に再利用出来ることを知ってむしろ、
ほくそ笑んだ。
『でもま、いいわ…』
と言うと光はその場に膝を突いて佇むと、有栖の眼を真っ直ぐ見据えてこう言った。

『ねぇ有栖ちゃん、来週の水曜日と木曜日、シフト変わってくれないかしら?
私、ちょっと親戚の家へ行かないとならなくなっちゃって、有栖ちゃんに来週、シフトの交代をお願いしたいの』

『え〜…どうだろう…だってその日は…』と有栖は含み笑いをトビィに向けながらデートの予定があるのだと断ろうとした。が、光も負けてはいない、

『有栖ちゃん、今日のことはいくらなんでも酷すぎると思うわよ?
まだ仕事中なのにスイートハートをほったらかしてキッチンのお勝手から裸足で駆け出してゆくなんて…』

『……だから、こうしてちゃんと帰ってきたじゃないですかぁ…』
と有栖はむくれたように言ったものの、光はその言葉を最後まで言わせようとはしなかった。

『トビィさんのお連れとしてね!?
貴女、ここでちゃんと真面目に働く気、本当にあるの?』

『ありますよぉ…猫だってスキだし』

‘’嘘ばっかり、頼んでもろくに猫のトイレの掃除ひとつしない癖に!‘’

…と光は思いながらも、
『あのね?有栖ちゃんはこれでもう一体何度目だと思う?
仕事ほっぽり出して、どこかへふらっと出ていってしまったの』

『………』

『そんなことされたら一緒に働いているこの私は本当に迷惑ですっ!!』

『………』

『このこと一度オーナー・サイドへきちんと言わないと、とは思っていたの、
私も今日のようなこと、たびたびされて本当に困っていたから!
今までずっと黙って我慢してあげていたけれど、もうしなくていい我慢なんて私、これ以上はしませんっ!
貴女のためにもならないしね!?』

光は一見、もの柔らかではあるものの、
その叱責は今までにない厳しさと共にギリギリに切迫したような抑えきれない怒気さえ滾(たぎ)らせていた。
それを感じた有栖にとって、今や目の前で鎮かに怒った先輩は充分過ぎる脅威でしかなかった。

『…ごめんなさい、山田さん、
次回から気つけます、
…だから店長へは…』

急に有栖は蚊が鳴くような声で哀願した。
すると待ってましたとばかりに光は鷹揚な微笑みをたたえてこう言った。

『いいわ、言いません』
そしてゆっくりとこう切り出した。

『今、言った来週のシフト交換してくれたらね』

『え〜…ずるいぃ…だってその日はデートが…』
嘘泣きをしようとする有栖に向かって、光は微笑みを崩さないままこう畳み掛けた。

『何がずるいのよ?
貴女のデートのために私、今まで一体何回シフトを変わってあげたと思っているの??少しは有栖ちゃんからも、私へのお返しをしてくれてもいいと思うわ』

有栖は嘘泣きが通じないと解った途端、急に切るような烈しいため息をつくと、
腕を組み、真っ黒の足の裏を見せつけながら、細身だが、ひじょうに筋肉質なその足を高々と組んでこう思った。

‘’山田さんは、自分の言葉で私を説得できないから、店長に言うだのなんだの、
上の立場の人を仲介にして年下の私を脅してくるのよ
卑怯だわ、そうすれば私を支配しやすいもんね?
よっぽど欲求不満なのね、
…可哀想なヤツ…‘’

『わかりました、
そのかわり、私のこと店長や店長夫人には言わないでいてくれますよね?』
腕組みをしたまま呪詛を含んだ声と眼とを、妖しく光らせて有栖は言った。

『ええ!約束するわ』

光はトビィの手前、いかにも寛容な微笑みを絶やさぬまま、こう言った。

『じゃ仲直りね、私と有栖ちゃん協定を結んだわよ?』

『あの女性(ひと)に逢いに行くんですか?』

ただでは転ばぬ有栖は唇の端を釣り上げるとそう言って光を嘲笑った。

『四十(しじゅう)なのは恋人のほうでしたっけ?年増同士で深い関係なんでしょう?知っているのよ私…
……マジで不潔…ゾッとしちゃう!』

『…有栖ちゃんっ!!』
光は有栖の語尾に鋭く斬り込むようにこう言い返した。

『貴女にこちらのプライバシーについて何も答える義務なんて私には無いの!
これからも私をそんな失礼な言葉でネチネチ虐め続ける気でいるのなら……
たった今、結んだばかりの協定は無しねっ!?』

突如、幕を落としたかのように有栖の顔色はガラリと一転し、今度は怯えたような眼を光に向けた。

そしてトビィに訴えるような眼を向けた為、トビィは光に向かって何か言おうとしたものの、彼にはまったくふたりの語る日本語の内容は解らない、
困惑し切ったまま、わけも解らずひしと有栖を抱き寄せる頼りないドイツ人青年を尻目に、光はそっと立ち上がると、勝者の笑みを浮かべつつ、優しく優雅に、そして事務的に、こう呟くように有栖に言った。

『…さて…その真っ黒い足の裏を、
綺麗に拭かないとね有栖ちゃん、
台所からまだ使ってないお雑巾を一枚、持ってきてあげるわ』

するとトビィの胸にすがり、メソメソ甘ったるい声で嘘泣きを始めた有栖に向って、意外にもサイモンが日本語でこう言い放った為、光は胸のすく思いでその言葉を背中越しに聴いた。

『有栖、悪意のあることを言ってはいけないよ?光さんはとても優しいじゃないか、いつも君に仕事を教えてくれて、
もっと感謝しないといけないよ?』

『ちょっとなんやのサイモン!!
なんも知らん癖に黙っててんかっ!?
そんなこと言うんやったらあんた、
光さんと付き合ったらええんちゃうん?
彼女はレズやし?
まぁ、あかん思うけどな?』

有栖が思わず大阪弁でそう言い放っため、周囲の客たちから光は思わず好奇の目に一瞬、晒されたが、彼女は無表情のまま、黙って厨房に向かう扉を開けた。

厨房で有栖とトビィのための珈琲を淹れながら光は、今にも零れそうになる涙を指先で払い飛ばすと小声でそっと、
こう独りごちた。

『なんとでも思わせておくわ、
陰口言われたって、もう気にしない、
だって私には…』

そう言って珈琲をカップへ注ぎながら光は涙声でこう言った。

『大切に思ってて…
大切に思ってくれる…
たった一人の味方がいるんですもの』

そう言って彼女はカップの底を布巾で軽く拭うと無理矢理、微笑んだ。

『だからもう…
…これから私は強くなる!』

だが、彼女は薫り高い淹れたての珈琲の匂いが立ち込める中、気になる映像がふと頭を過ぎるのを感じた。

それは商店街のアーケードの中というのに、何故か傘をさしてスイートハートの前に佇む異国の女性の姿だった。

光は入店するその瞬間、傘で故意にその顔を隠すように努めている女の顔を一瞬、心ならずも見てしまった。

脱色した艶の無いその髪を、原色の赫に染めた異国の女は革ジャンに革のミニスカートと網タイツ姿で、顔をいくら隠してもこの素朴な商店街では、いかにも悪目立ちしてしまっていた。
真っ赤の髪と同じ深紅(しんく)の傘をさし、
「ヴァネッサ」はスイートハートの窓を見て、酷く悲しげに立ち尽くしていた。

最初、彼女はトビィと腕を組み、明らかに恋人同士という仲睦まじい出で立ちでスイートハートへ現れた。

それがいつの間にやらヴァネッサは蚊帳の外へ置かれ、代わりに日本の小娘、
有栖が今、ああして青年の胸に当たり前のようにしなだれ掛かっている。
青年は青年で満更でもないどころか、
それをおおいに喜ばしいこととして歓待すらしている、

‘’いったいあの3人の間に何が起きたっていうのよ?‘’
光はそう思いながらも、忙しく立ち働いていたその間に何が起こったのか、
まったく思い出せない。
ただトビアスが、スマホで何かを有栖に見せながら頻(しき)りに話しかけ、それを有栖が一つ一つ丹念に答え、それに対してトビアスは何故か、酷く感嘆していたのだ。
そして対するヴァネッサは、そんなふたりに、まるで入り込む隙間さえ見失ってしまったかのように見えた。
不安げなヴァネッサはトビアスに、一緒に観光ホテルへ帰ることを要求したものの、何故か有栖に執着した恋人の心を動かすことは出来なかった。
トビアスに冷たく拒否されたヴァネッサは、怒ったようにスイートハートを後にしたが、以降、‘’ツーリスト‘’だったはずのトビアスは、日本に長滞在となり、
定期的にホテルからスイートハートへ有栖に逢いに通うようになっていった。

一体全体、あの3人に何が起きて何故、今こういう事態となっているのだろう?
と光は思ったが、どう考えてもまったく想像すらつかなかった。

突然、扉を脅かすような鋭さでノックする音が聴こえて光は現実に引き戻された。と、同時に扉は開いて、思いつめた顔の有栖が厨房へ入ってきた。
彼女は後ろ手にそっと扉を閉めながらこう言った。
『光さんお願いです、
オーナーには何も言わないで、
私、まだクビになりたくない』

『…解ったわ』
いまにも泣き出しそうな顔の有栖に、
光は尤もらしく頷くと、キッチンテーブルを拭きながらこう言った。

『でもね、私だってさっきのようなことを人前であんなふうに言われたら…
とても傷つくのよ、
それに私は不潔と言われるようなことは何もしていない積もり!』

『ごめんなさい…』

『軽蔑する人はそうしたくてするんだからしょうがないわ、自由にすればいい、でももう…私には関係の無いことだから…』

『そんな…山田さん…』

と、有栖は何かを言いかけてそれを飲み込み、細い指をたわめ込むと、小さなその子供のようなこぶしを握りしめて、
何かを躊躇っていたが、やがて視線を落としたまま、こう呟くように白状した。

『私…本当は…羨ましいんです…
おふたりのこと…』

『え?』
と、光はキッチンテーブルの上を拭く手を止めて、思わず後輩の顔を見た。

『手島さんって、決してブレない芯の強さみたいなものを感じる人じゃないですか…
山田さんもあの人を深く信頼していて…そんなふたりの周りに漂うオーラというか…雰囲気っていうか…
それがいつも…』
と有栖は悔しさに頬を染めて、涙ぐみつつこう囁いた。

『羨ましくて…』

『…有栖ちゃん…』

『ふたりの強い絆が私には…
なんだか眩しいような…
そんな感じに見えたりしていたんです…』
光は、思わず無自覚に困惑した笑いを小さく漏らすと、

『でも貴女…私たちのこと、レズだって嗤っていたじゃないの?』

『ええ…でも本当は…』と有栖はその小さな頭(かぶり)を振ると、こう言った。

『相手が男でも女でも、お互いのことを、なんの疑いもなく信じあっている…そんなふたりを見ると…
なんだか悔しくて…
憎たらしくさえ感じてました…』

『あのね…?有栖ちゃん…
レズと言われたけど…
私はそうではないと思っているわ』

『そうなんですか?』
情けない思いでいっぱいの有栖は、そう言葉を返しながらも、決して光の顔を見ることが出来ない。
そんな有栖をどこか微笑ましく感じる余裕が、自分の中に波紋のように生まれるのを感じながら光は、鷹揚にこう囁いた。

『私はきっと普通に異性愛者だと思うの、でも…亜希子さんを心から愛していることは紛れも無く真実よ』
彼女は、キッチンテーブルの引き出しからティースプーンを取り出しながらこう言った。

『でもそれは相手が偶々(たまたま)亜希子さんだったからなの、
もし他の女性なら…
たとえその人がどんなに魅力的で素敵な人であったとしても…
私は亜希子さんに対するような気持ちは抱けなかったと思うわ』

『………』

『それだけ私は彼女のことが本当に好きなの…一人の女性として、
そして一人の人間として…』

『……』

『それでもやっぱり不潔かしら…』

有栖は、涙が飛び散るほど急にかぶりを振ると思い詰めたその声を震わせてこう言った。

『ごめんなさい!
そんなことないです、私は…ただ…
ふたりの関係が妬ましかっただけ…
私には…無縁で…
眩し過ぎただけ…
だって私はそんな絆なんてしらないし…
子供の頃からずっと…
独りぼっちだったもの…』
そう言って一瞬見せた有栖の顔が、
まるで別人のように暗かったのを見ながらも、光は思わずそれを否定した。

『そんなことないでしょう?
だって有栖ちゃんは…』

『山田さんは私のこと…何も知らないから!!』

『そうね…確かに…そうかもしれない…』
厳しいような寂しさを噛み締めた有栖の意外な横顔を見て、光は自分が酷く常識的で思いやりに欠ける否定を、何も知らずに即座にしてしまっていたことを思い知り、胸の奥に遠い痛みを感じた。

もし、自分だってそうされたらきっと有栖と同じように反発して…挙げ句、きっと孤独になるだろうにと彼女は思った。

『山田さん…ごめんなさい』
羞恥心の谷間の奥深くから、耐え難い声を悲しみと共に上げる有栖に、光は今や深い同情を寄せていた。

『解ったわ、もう泣かないで、
もう有栖ちゃんのこと怒ってないから』

『私もう一度山田さんと協定を結びたいです』
光は諦めたような寛容な思いの中から、こう言わずにはいられなかった。

『ありがとう、そう言ってくれて、
これからは仲良くしてね』

『でも私のことも応援してくれますか?
私…トビィのことが好きなんです』

有栖が、涙で濡れた頬を染めてそう言うのを見て光は思わずこう訊かずにはいられなかった。
『…“ガーくん”…ではなくて?』

『…サイモンのことですかぁ…』
と有栖は、さっきまでのしおらしさはどこへやら、大きく舌打ちすると急に捨て鉢な態度へと豹変した。

『だって彼はずっと貴女のことが大好きよ、優しくていい青年だと思うけど…
トビィさんはつい最近、現れたばかりなのに…貴女、彼のことそんなによく知っているの?』

『トビィはサイモンと違ってイケメンだし背も高い、
家もお金持ちらしいんです』
有栖は当然だろう?と言わんばかりに憤然としてそう言い放った。

『ああ…そういうこと…』
と、光は急に興味を失い、内心、鼻白んだものの、ふとその先の意識を取り戻すかのように、こうつけ足して‘’ガーくん‘’ことサイモンを擁護した。

『でもガーくんだって背は高いわ』

『でもあいつはデブです』

と有栖は即、大きな判を圧(お)すように勢いよく切り返した。

『まぁ…痩せてはいないわね…
でもあの程度なら日本人にだって幾らでもいるわよ』

『私、デブでブサイクとは付き合いたくないんです…感染りそうで』
まるで生真面目みたいに顔を引き締めてそう言い切る有栖に光は、一瞬、目を瞠(みは)ったが、困惑気味におずおずと、こう言い返すより他なかった。

『随分…辛辣なのね…
今、流行りのルッキズムってやつ?
ガーくん別にブサイクなんかじゃないと思うけど…結構可愛いじゃない』

そう言ったものの、同時に光は思わずこう言い添えてしまっていた。

『そりゃあ…イケメンまではゆかないけど…』
自分の言葉に小さなアザミの棘ほどの罪悪感を覚えた光は、更にこう言い添えずにはいられなかった。

『でも彼は優しい人よ、
有栖ちゃんのこといつも心配してたし、貴女がお店を途中ですっぽかして出ていって、私が独りで、てんてこ舞いしてた時、お店を手伝ってくれたこと、
何度もあったのよ?』

『…本当に?』
と、有栖はどこか芝居がかった悲しい瞳を光にようやく向けたが、光はそのことには気がつかなかった。

『ええお客様なのにそんなこと気にかけてボランティアしてくれる人なんて…
今までに一人もいなかったわ…
本当に善い人!』

『でも私…トビアスが好きなんです、
サイモンでなく!』
と有栖は拗ねて口を尖らせた子供のような顔をしてそっぽを向くと、そう言い放った。

『……解ったわ…
じゃ、トビィさんと有栖ちゃん、
ふたりの恋を応援する!
でも…ひとつ聞きたいことがあるの、』

『なんですか?』

あの真っ赤な傘の下に見える真っ赤な髪と陶器のような白い肌が、一瞬、光の脳裡に浮かんでは消えた。
光はそのよく見識らぬ女の面影を振り払うとこう言った。

『ううん…なんでもない…
貴女がいいなら…それでいいのよ』







to be continued to episode-27th

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