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連載小説『恋する白猫』第弐拾四章・ピアノ・マン

タクシーの後部座席で眠ってしまった「夜叉姫」様をどうしたらいいものか?と努は思ったが、とりあえずは「姫」の家へ送り届けるしかない、
烈火のごとく娘を叱り倒す母親の恭子の般若のような顔が目に浮かび、努はそんなことならいっそのこと彼女を自分の家へ連れて帰ってしまったらどうだろうか?とも思ったが、それはマズかろういくらなんでも、と思弁し、彼は後方へ流れゆく刺激的なネオン・サインに思わず目を放ちながらも、その老いた目を射るような眩しい夜の迷いの原色の中で急に現実に引き戻された。

「そういやぁ今、恭子さんはあの家には居ないんだった…」

彼はハンドルを握る手がホッとして思わず緩むのを感じた。
と同時に‘’俺はあの人は苦手だった…
昔っからそうだ、
いかにも教育ママな感じで一人娘の何もかもを掌握し、果てにはとうとう娘のことを握り潰してしまったような印象がある…‘’
と心の中で呟いた。
子供時代からやれ家庭教師だ、
外に出たら出たでピアノのレッスンにバレエ教室、様々な習い事の為に時折、
努は瑞葉を送り迎えしたことがあった。
たいていは母親の恭子が自身で運転し、娘の送迎をしていたが、たまに体調だなんだとそれが出来ない時はよく恭子から努に指名がかかった。
その頃の努は個人タクシーではなく大手のタクシー会社に勤めていたので個人指名があれば、行ける時はいつでもと馳せ参じた。偶々(たまたま)家が近所同士ということもあり、努はガラッパチだが働き者で、真面目で温厚な人柄であることを昔からよく知っている恭子は彼を信頼していた。

厳格で過干渉ではあったが、基本いい母親だと思われた恭子がどうしたことか、家出をして帰らなくなり、もう一年以上にもなるという、
近所の噂では「あの人、男が出来たからね」
と含み笑いと共に嘘か真(まこと)か、不可解なままのその噂はそのうち恭子は病んだ娘を置いて男と外国へ逃げたなどというドラマチックなラブ・アフェアへと発展していった。
4年前病気で夫に先立たれた恭子は、目に見えて憔悴しきっていたものの、そんな噂のどこまでが嘘で本当かは誰にも解らない、
その癖、近所の主婦たちはさも嬉しげにそして何故だか憎々しげに次々と火のあるところにも、
無いところにも野火の如く煙を点て、
独り家に残された病身の娘の肩身を狭くしていった。

『みんないい加減なこと言いやがって、身内が可愛そうだとは思わないのかよ?いやでもそんな噂は当事者の耳に入っちまうことだってあるんだぞ!』

努はそう心中呟くと背後座席で疲れ果てたように眠る瑞葉のために車中の暖房をそっと強くした。

坂本家の玄関先で座り込んだ瑞葉はようやく目を覚ましたもののまだ朦朧としたまま、黒レースに縁取られたスタンド・カラーの襟首を呂律(ろれつ)の回らぬ指先でその釦(ボタン)を外し始めた。
そして努の目線から見下ろせるその乳房と乳房の隙間へと彼女は指を滑り込ませながらいきなり野太い声でこう叫んだ。

『OPEN THE DOOR!』

冬なのに汗をかいていたのか、
ほんのり濡れて生暖かいその鍵を氷のような指先で摘まんで努の手のひらへ渡した瑞葉は、がっくりと項垂れてその場で寝息を立て始めた。
沸き起こる狼狽と共に冷や汗をかきつつ努はその鍵を鍵穴へと差し込んだ。
ガチャンという酷く大きな音に肝を冷やした努は思いがけず飛び上がりそうになったものの、そのすぐ隣りでドレス姿のままへたり込んだ瑞葉がわけの解らぬことをぶつぶつと呟き出すのに彼は思わず耳を澄ました。

『刑法第二百三十五条人の財物を窃盗した者は十年以下の懲役、または五十万以下の罰金に処す!
第二百五十九条・私様文書などの毀棄、権利または義務に関する他人の文書、
または電磁記録を遺棄した者は5年以下の懲役!』その後も、もぐもぐと酔ったように六法全書を諳んじていた彼女は項垂れたまま最後に吐き捨てるような口調でこう言った。

『…弁護士であってもなくても!
…今の立場が罰せられないとでも思っていたら大間違いよ、
そんな弱いもの虐めをして私の友達を苦しめるなんて…許さないからね!
今に見てなさいよ、知ってる?
私を怒らせると……
…怖いのよ?』
そう言って不気味な地鳴りのような高笑いを漏らすと彼女は努の背筋を思わず冷たくさせた。

母親の発っての希望で瑞葉は弁護士になるべく猛勉強をしていたという噂は、
数ある噂の中でもどうやら本当だったんだな、と努は思いながらも母親の希望を叶えるために育てられたが故にとうとうその脆い表面張力を越えてしまった娘の憐れを彼は怯えながらもそこに見た思いがした。 

へたり込む瑞葉をなんとか立たせ、努は二階の寝室まで手摺りにすがる瑞葉に肩を借しつつ苦闘の末、階段を登らせたものの、明日の腰痛の確定を思って芯から気が重くなった。
だがそんな努の心中を察することなど微塵も出来ない瑞葉が『ねぇ努おじさん、私の部屋で一緒にお茶を飲んでいかないこと?』と、さも幼弱げみたいな顔をして言うのを見て努はこの奇異過ぎる夜の中で瑞葉と共に自分まで狂いだしそうな気がしてゾッとした。

‘’なんでこの娘を家まで送る破目になっちまったんだろうなぁ…
あのまま夜の歩道に打っちゃっておきゃよかったのに、俺としたことが…‘’

瑞葉が廊下にたったまま握りしめた古風な寝室のドアノブを見て、努は昔、瑞葉がまだ幼稚園や小学生の頃、恭子からの要請で定期的にこの部屋を訪れていた時のことをふいに思い出した。
その時とこの硝子のドアノブは同じままだ、
と彼は思った。

‘’あの頃俺はまだタクシーの運転手じゃなかった…‘’と努は思った。 
坂本家に‘’仕事‘’で訪問していたあの時代、努は自分の仕事に納得などしていなかったものの、それでも様々な家へ赴き様々な家庭を見るのは新鮮な体験でそれなりに楽しかった。  
瑞葉の部屋も瑞葉自身のというよりは母親の恭子の趣味で古式床しい昭和の令嬢の雰囲気が色濃く漂っていた。
そんな部屋にいると当時の恭子の言葉が蘇った。

『どうしてやめてしまったの?
朝倉さん、実直な貴方らしい良いお仕事だったのに』
だが彼はそれについて決して本当の理由は誰にも言わなかった。
言うと自分の矜りが傷つくからだ。

『おじさんはもう帰るよ、明日も仕事があるからね』
そう言う努に瑞葉は、まるですがりつく童女のように哀願した。
『駄目よまだ帰らないで!お母さんがいなくなって毎日が不安で不安で仕方がないの、30分でいいわ、
お願い、私と一緒にここでお茶を飲んで!』

『でもおじさんも明日があるからさぁ…瑞葉ちゃんには悪いんだけどね…』

『明日なんていつでもあるでしょ明日はいつだって明日よ、明日が昨日になったりはしないんだから』

若い人というものはきょとんとした顔をして滅茶苦茶なことを言うと思ったものの、生真面目で厳格な母親の突如の出奔により、病気の瑞葉は急に独りぽっちとなり死ぬほど心細いのは火を見るより明らかだ。
誰からも力になってもらえず親戚縁者は彼女の‘’統合失調症‘’という病いを言い訳に彼女に近寄りもしないという。
彼女は今や文字通り孤立無援の独りぼっちの病人なのだ。

数年前、弁護士の国家試験に幾度も落ちて母親から死ぬほど責め立てられたことが原因で瑞葉は鬱病を患った。
挙げ句オーバードーズを繰り返し、何度も救急車で病院へ担ぎ込まれるようになった。母親は弁護士という野望の滑り止めにと今度は幼い頃から習わせていたバレエに一縷の望みを託したが、
プリマになど縁が無くどんなに努めても群舞に終わる娘に絶望し、
‘’出来損ない‘’の娘を庭の倉庫に縄で縛って、一晩中閉じ込めるという真空的な狂気へとその夜恭子は初めて踏み外した。
娘を父親と同じ医者か弁護士にしたいと恭子が考えるようになったのは瑞葉が高校に入る少し前だった。
学年一の成績とはいえそこまではどうでしょう、という教師を冷笑で一蹴する恭子は自分の娘は必ず自分の期待に報いてくれるはず、 
それだけのことを母として娘にあれこれ投じてもいるのだから、と信じ切っていた。
叱咤され、鞭打たれつつも母の希望を叶える代理走者として、うら若き日を疾走し続けた瑞葉は、やがてガタついてきた心の掛け金がある日突然弾け飛び、
そして壊れるのを感じながらも彼女はそれをどうすることも出来なかった。
鬱から病いが進行し、やがてその2年後統合失調症へと彼女の人生は音をたてるように崩れ落ち、蝕まれていった。
それでもまだ娘は治るはずだとクリニックへ通院させながらも勉学に励むことを娘に強い続けたそののち、瑞葉はとうとう大声で叫びながら深夜に街を練り歩くようになっていった。
どんなに止めてもいつの間にかスルリと外へ出てパジャマ姿で徘徊する娘を恥じるあまり、恭子は娘を寝室の中に再び縛りつけ、食事を運んで食べさせ、紙おむつを取り換えるという軟禁生活を強いるようになっていった。

やがてそんな中、娘の狂気は沸点を超え、毎晩狼の咆哮のような声をあげることで、警察に知られ、保護された瑞葉は半年ほど強制入院した。
一年後退院し、我が家へ帰還した娘を恭子は表向き反省と共に暖かく迎えたが、その5日後に忽然と姿を消した。
どうして姿を消したのか、
その理由や行き先も未だ判然とはしない、
若い韓国人の恋人が出来て彼とソウルへ行ったとか、北海道の年輩の男と結婚し、今は最果ての漁村に住んで苦労しているらしいなどなどあらゆる噂が列挙していた。
が、どれも努は信じていなかった。
夢破れた母親は娘と同時に病み、壊れつつあったのだろう、挙げ句さながら死期を悟った獣がするようにどこへともなく姿を消したのかもしれぬ、と彼は思った。

あれほど一緒にお茶を飲んでと力強くも切々と懇願していた瑞葉は今や上半身だけをベッドの上へ投げ出すようにして眠っていた。
努はそんな瑞葉を抱き起こすとそっと促し、ベッドの上へ横たわらせた。
そこに縛られていた時の名残りであろう、擦れ切れたロープがヘッドボードの両脇にくくりつけられたまま垂れ下がっていた。
その痕を見てしまった努は思わず瑞葉の額にその手を置いた。
瑞葉はうっすら眼を開けると微笑みかけ『…おじさんが私を助けてくれたのね?』
と急に稚(いとけな)い少女のような声を出した。

『助けたというかね…』
正直疲れ果てた努はそう言って‘’可愛そうな瑞葉‘’の頭を同情半分、ややぞんざいに撫でるとまるで幼児に対するようにこう言い含めた。

『偶然見つけたんだよ最初は瑞葉ちゃんだとは思わなかった、
あのまま迷子の瑞葉ちゃんをあんな夜の街に置いてはいけなかったからね』
今にも泣き出しそうな瑞葉の顔を見て努は内心、
‘’あ〜…やれやれじゃあ後三十分だけ一緒に居てやろう…だが三十分だけだ!‘’

ベッドサイドの椅子を引き寄せ努は弱々しい老人の声を出してこう言った。
『おじさんはもう眠いしもう草臥れた…
ちょっくらここに座らせてもらうよ』

目の前に座る努に向かって瑞葉は身をよじり、努のシミだらけのたるんだ表皮が醜い手を痛いほど握りしめると、瑞葉はかすれた声で叫ぶようにこう言った。

『おじさん今夜は帰らないでね、
だって私、夢をみるのよ、
毎晩同じ夢を…それがいやなの、
凄くいやなの!』

『夢?』

『ええ…どこか暗い森の奥にある深い沼
か湖のようなところに私、独りで立っているの…夢の中でも寒くて冷たくて…
私の身体は凍りつきそうなの
白蓮がたくさん浮いたその水の中を歩いても歩いても岸に辿り着けないのよ、
遠くの岸には森が見えるのに…
森の奥のほうには灯りが見える時もあるわ、だからなんとか岸へ辿り着こうと私、必死で歩いたり泳いだりするの、
でも全然前へ進めないの、
その時に夢の中で気がついたの、
これは夢だけど夢じゃないんだって…
だから私…悪夢から覚めることが出来ないの』

『瑞葉ちゃん…』

『だからお願い、行かないで
今夜だけそばにいて、あの夢から私を守って、お願いよ』

『…瑞葉ちゃん、独りで暮らすようになってもうどれくらいになるね?』

努は自分の手をつかむ瑞葉の手にもう一方の手をかけ、そう尋ねた。

『知らないわもう何年も経つわ』

『そうか…』努はため息をついた。
母親が通院する病院の受付けに知り合いが居ると怯え、恥じる余り娘を医者にかけなくなってしまった為、認知度の落ち果てた病態となった瑞葉はもうそんなことも解らなくなっているのか、と努は思った。

ため息交じりに懐かしいその部屋を見回すと、壁紙は黄色と白と蒼の花が咲き、緑茂る森の絵もそっくり昔のままだ、
カーテンも濃い緑いろの天鵞絨(ビロウド)でまるで時が止まったかのようだ。

ベッドサイドにあるマホガニーのナイトテーブルの上には努が見たことのないアンティークとおぼしきチューリップ・ランプがじんわりと灯っていた。
硝子は内包するウランを乳白色に滲む淡い若草色へと発光しながらランプを縁取る花弁を模したフリルをぼんやりと彩り、その様はまるで幻のようだ。
恐らくは彼女の留守中もこのチューリップ・ランプは灯りっぱなしのままなのであろう。

『素敵なランプだねぇこいつぁもしかしてアンティークかい?』

『ええ…友達がくれたの…』

『友達が?女の子かい』

『ええそうよ年上の…骨董に詳しいのよ彼女…
だから彼女のおうちの中はアンティークだらけなんですって』
瑞葉はそう言って嬉しそうに微笑んだ。
微笑むと少女の頃の笑窪がそのままで
酷く愛らしい、
少女の頃のあの無口で内向的な少女の笑顔がそこに重なる気がして努はその笑顔を懐かしく見つめた。

『彼女が悩んでいたから相談に乗ってあげていたら…‘’お礼にあげる‘’って』

『凄いなぁこんなものをぽいと呉れるだなんて、きっとお金持ちのお嬢様だなその人は』

白濁した部分と若草いろの溶け合う辺りがフィラメントの揺らぎを通してさながらオパールの遊色効果のような虹色を瑞葉の枕元に踊らせていた。

『ヴァセリン硝子って云うんですって、
このランプのシェイド』

『何故、ヴァセリン硝子っていうんだろうね?ワセリンでも含まれているんだろうか?』

『色合いが、昔の塗り薬のワセリンと似てるからそういう名前がついたようよ』

『よく知っているね、やっぱり瑞葉ちゃんは物知りだ、
弁護士になろうとしてただけある』
瑞葉は嬉しそうに白い歯を見せると気狂いじみた夜の中、こぼれるような笑顔を見せた。

『ヴァセリン硝子ってウランが含まれているからこんなに幻のようなネオン色に発光するのよ』

『ウランって…あのウランがかい?
随分剣呑(けんのん)なものが入ってるんだなぁ、
この硝子には…。
じゃあ、ずっとこのランプの光を浴びていて…被曝してしまったりはしないのかい?』

『酷く微量だからしないとは言われているわ一応…ね』
と少し気取った口調でそう言うと瑞葉は再び咲きこぼれるような笑みを浮かべてこう言った。

『これもその友達の受け売りでしかないからよく解らないけど…』
そして枕上(まくらがみ)に在るランプに手を伸ばし、薬の副作用で常に戦慄(わなな)くように震えるその指で波打つランプの縁取りに触れると少しかすれた、しかし甘やかな声でこう囁いた。

『昔のヨーロッパのひとはウランを硝子に練り込むことでこんなに妖しく光ることをちゃんと知って作っていたんですもの、
人間って美しいものを創り上げることには知恵者なのね…
でもそんな知恵をつけた為にヴァセリン硝子のランプを作る硝子職人達は、
みんなあまり長生きは出来なかったそうなの…』

『そう…それもそのお友達が教えてくれたのかい?』

『ええそうよ、彼女と私はまるで同士のような関係なの』
そう言って瑞葉は一瞬声をたてて笑ったかと思うと今度は急に生真面目に顔を引き締め、こう言った。

『ヴァセリン硝子を作る硝子職人たちの間で呼吸器系統の癌の人たちが続出したらしいわ…それに当時はまだそれがウランの為だとは結びつかなかったのね…
やがてだんだん知られるようになっていって…
それでも硝子職人たちは美しくて怖いこの硝子のランプシェイドを次々と創り上げていったのよ、
規制されて作ることを禁じられるようになるその直前までね
彼らは命を賭して作ったの…
この釣り鐘草のような危うくて…
美しすぎるこのランプを』

『……そんなランプ飾っていても大丈夫なのかい?もし割れたりしたら…』

『ヴァセリン硝子が今更割れたからといって健康被害なんて無いと言われているそうよ、破片を食べたりしたらどうか解らないけど』
青白い指先でさも愛うしげに硝子のフリルに触れながら
『職人がヴァセリン硝子を造る行程では被爆したけれど…硝子に閉じ込められたウランなんてもうウランであってウランではないようなものだわ…
たとえこのランプが砕け散ってもその欠片からウランが放出したりはしないんですって…
一度硝子に閉じ込められてしまったらウランはもう牙を抜かれた虎のようなものなのねきっと…
硝子の中に閉じ込められてしまったウラン達は今頃なんて思っているかしら』

『なんとも思いはしないさ、ウランに命なんて無い』

『ウランは剣呑だと恐れられはしても、こんなふうに閉じ込められたいなんて思っていたかしら?
でもウランはウランのままでいてはいけないのね、
だって周りを被爆させてしまうもの…
でも人は時として…
きっと気がついてしまうのね、
とても悪い悦びに目覚めるように…
閉じ込めて自由を奪って力をなくしてしまえばタブーはタブーではなくなるって…
清らかな汚染なんてこの世の中には無いけれど…そんなふうに見せかけることは出来るわ、いくらでもね…
たとえ奪われる者がそれを望んでいなくても…
だからウランはこの小さな世界に永遠に閉じ込められてしまったの…
もう二度とウランはもとの世界へは帰れない』
瑞葉は涙を浮かべ、と同時に鷹揚に微笑
むとまるで努を憐れむかのようにこう言った。
『だから努おじさんも…この小さな世界の中に棲むものを…
…恐れなくてもいいのよ』
そう言って自分を見る瑞葉の眼があまりにも透明なことに気づき、努は急に哀れなような胸が締めつけられるような、怖ろしいような気がした。
そして彼のそんな思いなど露ほども気づかないまま瑞葉はその瞳を閉じるとこう囁いた。

『私だってもうなんの力もありはしないんだから…』

努は次の瞬間びっくりしたように瑞葉の顔を見た。並みの健常者以上にしっかりしたそんな言葉を紡ぐ彼女が統合失調症だとは…。
然しだからこそ病人なのかもしれない、普通の人間は日常の陰日向でこんな美々しい言葉など吐かない

すべてが翠いろのこの部屋で忌まわしいロープの切れ端が垂れ下がったベッドだけが雪のように白く、そこだけがまるで人間の居場所のように努には何故だか見えた。
そこへ身をよじって横たわる瑞葉のドレスの胸元からその胸の谷間がしらじらと、そしてくっきりとその陰影を投じるように克明に見える。ランプの色を通して色白の肌が若草色に見えるのを、努は健康的なのか病的なのか解らないと思いながら、その上へそっと羽根布団を掛けるとこう言った。

『瑞葉ちゃんは今でもピアノ弾いてるの?』

『………』瑞葉はそれには荒々しいため息をついて何も言わなかった。

『おじさんが時々来ていた時は上手だったのになぁ』
とまるで先んじて空気を読むかのように努がそう言うと瑞葉は何故か気を悪くしたようにこう言った。

『お母さんはそうは言わなかったわ、
サーカスの猿のほうがまだ上手く弾けるって…』

『酷いことを…』

『バレエも踊る姿が醜いというの…
泳いでも何をしてても…
おまえはみっともなくて見ていられないって…』

『そんなことはないよ…』
努はおざなりにそう言うともう一度繰り返し『そんなことはない』と言ってしまったその後でこれは本当におざなりなのだろうか?と思わず自分に問いかけた。

『でもお母さんを喜ばせてあげたかった…』

そう言ってもう一度、瞳を閉じた睫毛の下から次々と重ねるように涙があふれ、枕を濡らすのを見て努はこう言わずにはいられない気持ちが発作のように昂(たかぶ)るのを感じた。
夜は気持ちが昂るものだ。
疲れて無理をすると余計そうだと彼はやや捨て鉢気味に思った。

『そうだ、帰る前におじさんが一曲ピアノ弾いてあげようか?何がいい?』

『もう何年も調律してないわ…』

『今度してあげるよ』と、乗りに乗った努はそうほざいた。
ああ、もうどうとでもなれ、どうせ何言ってもこの娘はすぐに忘れてくれるさ、
なあに、約束なんか出来やしない、
と彼は思いつつ勢いづいてこう言いつのった。

『まだ道具は持ってるからね』

『………』瑞葉はそう言われるとまるで夢から覚めたように努の顔を瞠目して見た。その顔は酷く驚き、慄然とさえしていた。
しかしすぐにベッドカバーに視線を落とすと囁くようにこう言った。

『私…ピアノは好きだったの、
でも今はもう嫌い』

『何故?』

『お母さんは私にピアニストになって欲しかったの、ピアニストが駄目ならピアノ講師にね、
でも私はそこまで上手じゃないもの、
趣味で弾く程度なの…』

『それでいいじゃないか、
瑞葉ちゃんはツェルニーまでいってた、確か…あれは小学生の四年生になるかならないかの時だったよね、凄いなとおじさん思ってたよ』

『私はお母さんの夢を叶えるために生まれてきたの』
ベッドシーツの上に影の集合体のように寄ったシワが作る襞(ひだ)に向かって瞳を放ちつつ瑞葉はこう独りごちた。
『でも駄目なの、私では…』

『おじさんにピアノを弾いてみておくれよ、昔みたいに、そりゃあ瑞葉ちゃん上手かったんだから』
すると急に驚いた顔をして『おじさんがどうしてそんなこと知ってるの?』
瑞葉がとんちんかんである為、ふたりの会話はどうしても前後の脈絡がなく滅茶苦茶となる。

『瑞葉ちゃん、
おじさんは昔、ピアノの調律師だったんだよ、瑞葉ちゃんが子供の頃、よくピアノの調律にこの部屋へ来たもんだ、
覚えてないのかい?』

そう言っても瑞葉からはなんの反応も無かった。
『調律を長いことしてないなら音に狂いはあるとは思うが…それでもいいや、
おじさん瑞葉ちゃんのためにピアノを弾いてあげるよ、瑞葉ちゃんにぴったりの…何か美しい曲をね』
そう言ってピアノに近づいて彼は驚いた。昔、確かヤマハだったピアノがいつの間にかプレイエルになっている。
高級志向の瑞葉の母が高価な外国製のピアノに買い替えたのかもしれない、
それに応えるように瑞葉が吠えるような暗い声を出した。

『お母さんがいつの間にか買い替えてしまったの、私のいない時に…!』
その声には憎しみさえ籠もっていた。
『学校から帰ってきたら…
私の指に馴染んでいた大切なヤマハが消えてしまっていたのよ…
‘’もっといいものを買ってあげるから‘’って、でもそれを欲しかったのは私じゃないっ!』
色青褪めた顔にオパールいろの光の綾が
水面(みなも)のように揺れ動くような気がするのは自分の頭が宵っ張りの疲弊で朦朧としているからだろうか?と努は思った。

『あのピアノは子供の時からずっと仲良しだったのよ、それなのに』

『プレイエルも良いピアノだよ』
と言いながらも『弾いていいかい?
おじさんプレイエル触るのなんて初めてだから…』
努は‘’おざなり‘’に一曲ナニかを弾いてさっさとこの美しく淀んだ末期の夜を切り上げようと焦った。
しかしそんな中でも自分の食指は本能的に愛するものに伸びてしまう
『昔、コンサート会場のピアノの調律でスタンウェイを触ったことはあるけどね……
こいつは初めてだ』

『勝手にしたら?』
瑞葉はまるで嫉妬するようにベッドへ身を投げるとぷいと横を向いた。
だが努が奏で始めた旋律を彼女は背中で追いつめられた猫のような過敏さで一心に聴き続けた。

まだ曲の半ば努は振り返ると瑞葉はよく眠っていた。
そっと近づき、努は羽根布団を掛け直した。
すると幽かに目覚めた瑞葉がこう言った。

『あのお兄さん…
努おじさんだったのね?
…あの調律師の…』
『そうだよ』と言いかけて何故だか努はやめた。
やめたその後に遠く明かりが灯って見えたような気がした。

『全然知らなかった…』
瑞葉はそう言って微笑むともう一度眠ってしまった。
努は安らかなその寝顔を見て安堵したものの、ふと不安が老いて尚、鋭いその胸をよぎった。
瑞葉が眠りの国で目覚めたとこは、またあの冷たい湖の中なのではあるまいか?

すると半分微睡んだ瑞葉の頬にマスカラで黒く濁った墨のような涙が糸を引いてその頬骨の上を伝い落ちた。

『森の奥には灯りが見えることもあるのよ、それなのに私はそこへ行けないの…』


努はそっと黒い涙を流す‘’夜叉姫‘’さまの耳元でこう囁いた。

『大丈夫、灯りは近づいてくるよ、
灯りを持った人がすぐそばまで来てくれる…瑞葉ちゃんをその人は迎えに来たんだ、だからゆっくり岸に向かって泳いでゆこう』

『もうあと少し』

『もうあとちょい』

『少しだ』

『本当に少し!』
そしてそっとその手を優しく握るとこう言った。
『さあ、つかまって、
ここはボートの上だ』

『ゆっくり櫓を漕いで岸まで行こう』

『もう大丈夫』

『見えてきたかい?あの陸の上のもう一つの灯りが…あの灯りをふたりで目指そう、もう一人ぼっちじゃない、
もう暗くない、冷たくない、
誰も君を縛らない、
あそこへ行けば心も身体も温かくなる』

『そして何より君はもう…自由だ』

涙を流したまま「姫」は幸せそうに頬を染めて微笑んだ。
眠りの国を揺蕩い、微笑みを浮かべたまま瑞葉は譫言めいてこう囁いた。

『好きだったのよ…
少女の頃…
あの…名前も知らない…
私の…』そう言った瑞葉の閉じた睫毛を濡らす涙が糸を引いて伝い落ち、彼女の枕を薄墨いろに濡らした。
そして眠りの国の蟻地獄へと吸い込まれつつ彼女は幸せそうにこう囁いた。

『…ピアノ・マン』

そういって瑞葉のきつく握りしめていた手を離した跡が老いた醜い手の甲にいやというほど残っているのを努はどうしようもなく青年の心で見た。
そしてその跡は薄暗い部屋で不可思議なほど美しく薔薇いろでその皮膚の色だけが異世界じみて見えた。

‘’おっといけねえ…‘’
努はふとそう思った。

『曝(さら)されてしまった…』

彼は翡翠いろの夜の中、
独りでやれやれとため息をついた。

‘’…いい年して…
俺ってやつは……‘’





to be continued to episode-25th


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