木箱に遺したい詩




毒に染まる


時々、毒に包まれてると感じる瞬間がある。
そして、毒を吐きそうになる瞬間もある。
“毒”というのは、人を信じれなくなる呪いだった。

誰かの悪口、誰かの愚痴。陰口。嫉妬。

吐きさえしなくとも、吸い込んではいると思う。
もしも、心の中にゴミ箱があるなら、その容量を超えてしまった具合には吸い込んでいる気がする。

過去の私もこんなに毒を内蔵していたのだろうか?私は毒を得て、毒に囲まれて、毒に感染していないか?

最近の私は、幼い頃のように“おはよう”と言えるか?
最近の私は、あの頃のように“ありがとう”と言えるか?

最近の私は。最近の私は?
毒の霧で見えなくなったものがないか?

たまに解毒されて気づく。
『私はなんで忘れていたの?
私はしあわせだった』と。

毒されて嘔吐く。蔓延る。
『私はなんでこの人の為に?
私だってこれくらい、いいじゃないか』と。

私は毒の監獄に、いつも押し戻される。
それすらも息が詰まりそうな戦いだ。

私は今、毒を吐きたくない、
そんな人間にはなりたくない、と思える。
そう思えるだけマシなのかもしれない。

でももう既に毒に殺されたナニカがあるのですか?
私はもうナニカを失っていますか?
私はもうナニカ忘れていますか?大事なことを。

私はもう、毒に犯されることがこわい。

この世界は毒に溢れていると思う。
誰が生み出してしまったの?
消えることのないこの毒を。

私はこんなにも言葉を愛しているのに。


 星を映す

夜空に輝く星を見上げることすらも、恐ろしさと共存している場所が、私の知らない、はっきりと知れないところに存在している。

語るだけなら簡単だった。

いつからか、戦争や紛争で人が当然のように死んでいくニュースの記事を、“どちらの国が悪いのか、誰が悪いのか”で見ていた。

『こっちがこうで悪いから、こちらが勝つべき』
というコメントに一瞬でも普通ごとのように納得してしまった時に思う。

文面で言うのは簡単だった。
でも、これで何が起こるのか。その景色を仮に傍観するとしたらどんな景色なのか。いつも想像しないで読んでいた。

防衛力、抑止力、攻撃力、ミサイル、ドローン、距離、独裁者、虐殺。

こういう文字の裏で、あっけなく人が死んでいく。
私と同じ人間。私が笑ってしあわせに生きた日も。
私と同じように食べ物を美味しいと思える人も、人間らしく笑う人も。

同じ“人間”ひとりひとり。が。
一瞬にして殺されていく。

記事の中であるコメントを見た。
『都市部に攻撃をして、国民の目を覚まさせて、諦めさせて戦争を終わらせるべきだ。』と。

正直に言う。最初、そうか。と思ってしまった。

でもこれがどういうことか。

戦時中。震えながら生きてく日々。
今日も無事に生きれるだろうか、と向き合って、
一日をどうにか生きる。生き抜く。
ただそれだけ。たったそれだけを必死に彷徨って。

そんなところに降ってくるんだ。
兵器が。平気な顔をして。
そして、目が合った瞬間にあっけなく死ぬ。

この景色がどういうものか。この景色の音がどういうものか。

このコメントはこの状況を正当化しているのか?
これが、人を殺していいという“正しい”理由なのか?

私はなんで、一瞬でも、このコメントに納得してしまったんだろう。

所詮は他人事だから?
経験したことがないから?

なぜ。なんで。
誰だって生きたいだけだった。
きっと。
なぁ、なんにも変わらない。
私と同じ人間が。

こうやって死んでいく。こんなコメントで語られる。一瞬で終わっていく。未来が奪われていく。
誰ひとりとして変わらず大切なはずの。大切と語られたはずのひとりひとりが。

これは誰が悪い?

と、問うことが争いを生むのか。
善悪を決めてしまえば、悪が殺戮されるのは世の条理。

その景色に誰からも慈悲なんてない。
だって、“同じ人間だけれど、それはそいつのせいで。そいつのこと”だから。

きっと、この世界はそういうもの。
この世界に生きることは、その狂いを忘れていくこと。それが狂いであるかも問わなくなっていくこと。

もう既に、平和のための思考を奪われ、忘れ、
そうして大人になってしまっているのだろうか。
“それぞれが主張する正義を正当化する戦い”な事すらも忘れてしまいそうだ。
私が生きる、生きてく世界の教科書は、そんなものばかりなのだろうか。

“よりよく”人を殺せる兵器を造る事が出来る知識を持った人が上に立つ世界。
その兵器を“よりよい場面”で使いこなせる、
などと狂言し、
「だから守ってやるからついてこいよ。な?」
と言ったやつが推薦されていく世界。
私が生きる世界はそういう世界?

結局はみんな“自分が良ければ”なのである。
他人のためを語るのは自分のため。

人が死のうと、そんなのはどうでもいい。
だって自分はその“おかげ”で、“平和に暮らせる”から。

この世界はところどころおかしい。
でもそれを知っていきながら息をするのは苦しい。

だから知らないフリで笑っている。
そうして、思ってしまう。夜空の美しい下で。

「あー、私幸せ」って。

もう、どう生きたって“正しさ”なんてないのかもしれない。“正しさ”とやらに固執して生きてきた私はなんだったんだろう。と思ってしまう。きっともう、清らかさだってない。

みんな同じように“生きたい”を抱えて死んでいく。
「もう死んでしまいたい」と、辛さに壊された人は、“生きたかったけれど諦めて”いく。

もう、どうしようもない。
このことを忘れないで生きていくことだけは大切かもしれない。と思っておくことにしよう。


未来を描く

不確定な未来を信じて生きるのが苦手だったから、ずっと見つめてきた日々を手放した。

心の底から嫌だと思う場所で、嫌だなんて思ってないフリを習慣としなきゃいけない日々と直面して。「もう逃げたい」と、口には出せずに、ずっと願って、一日一日を何とか乗り越えていた日々。

その時の思っていた“逃げ”にいる今。
私はどうなんだろう。

間違いなく、あの日々よりは幸せで。
もし明日、隕石が降って不可抗力で死んじゃう、とかそんな出来事があったら、私があの時に“逃げ”たことは正解だと思う。

でもあの日々を乗り越えていたら、もっといい未来だったのだろうか?という疑問はある。

私は“逃げ”と思っていた場所にいる今でも、そんな気はしない。
あの日々に呑まれていたら、私は未来を諦めて、楽に消えられるような方法を探して、苦しんでいたと思う。

今はもう、あの日々のような“嫌だ”の辛さが無い。
頑張りたいと思えることがあって。
生きたいと思えることがある。

未来が不安なことは正直変わらない。
あの日々を乗り越えられたメリットなんて想像つかない。良くも悪くも。

あの日々を続ける選択をしていたらどうなっていたのだろう。そんな中でも何か幸せを見つけられて、“今”よりも幸せと思える“今”を生み出せていたのかな?

想像がつかない。

だって、あの日々のせいでずっと消えたかった。
あの日々のせいで、毎晩苦しかった。
あの日々のせいで、未来の選択を急かされ、圧迫され、置いていかれている感覚に陥っていた。

今はどうだろう。
あの日々から見たら“逃げ”らしい今は。

不確実なこと、不安定なことは変わりない未来に、前よりも希望を見いだせている気がする。
未来にどうしたら飛び込めるかって考えれている気がする。
生きている幸せを見つけられている気がする。

もしも、今から、
あの日々に必然的に戻っちゃいます。とか、戻りますって言われたら。

最初はそれなりに頑張れるかもしれない。

でも違う。
怖い。きっとまた消えたくなってしまう。

仮に楽しかったとて、辛さとの共存からは“逃げ”られない中で、未来に夢みたいな幻想を抱いて努力しないとなってなるんだと思う。不確定なのに。

そうだ。これがずっと辛かった。

辛いのに、どうしようもなく嫌なのに。
そんな苦しくて辛くて、心の底から嫌な日々を積み重ねて。
その積み重ねを当たり前とされた中で、
『乗り越えればきっと“良い未来”が待ってるよ』なんて“不確定”なのに“確定”みたいな戯言を浴びながら、なんとか無理やりにでも信じて、もがいていた。

だから辛かった。それが“不確定”なのに。

未来のために辛い“今”を乗り越えるのか。
“未来”なんて“未だ来ていない”という意味なのに。

“今”が辛いという方が苦しいのは当たり前。それはわかる。辛さを乗り越えた先の幸せが、どうしようもなく輝くのもわかる。

でも、ずっと信じれなかった。
『この辛さが本当に幸せに繋がるの?』と。
『この辛い日々の積み重ねを覆せるくらいの、とんでもない幸せに繋がっているの?』と。

ずっと信じれなかった。

この世界なんて何が起こるか分からない。
私なんて、いつ死ぬか分からない。誰だってそう。
なんでみんな未来を信じれて。辛くても“今頑張れば”って信じて乗り越えようとできるのかが、ずっとわからなかった。

だって、辛い辛いって思いながら、それでも無理やりにでも未来を信じて、辛さに下唇を噛み締めて、1歩1歩踏みしめて歩いていても、
どうしようもない時は一瞬で死ぬような脆さと共存しているのだ。人間というのは。そうでしょう?

だったら、いつ死んでも後悔しないように、
ひとつひとつの瞬間を少しでも。“今”のうちに。
“今”という存在に幸せを詰めて生きていった方が。

その方がいつ死んだって、辛い時に死ぬんじゃなくて、幸せな時に死ねる。

私の考え方はいつもそうだった。
だから、私は、私にとっては辛いと思ってしまう日々を、みんなが当たり前のように生きてくのが疑問で、辛かった。理解できなくて。

いつだってすべて、失うことを前提として考えていて。得ていくものを、得ていく予定のものを愛するというのは、勇気がいることだった。

愛すべき、未来という存在。
愛すべき、夢という存在。
愛すべき、儚さという存在。

愛してない訳じゃない。
でも、それを愛すために、“今”を愛せない選択をするのは辛い。いずれそれらを愛せるようになるか、なんて不確実でわからないのに。

だったら、“今”を愛して。
愛した時間を“確実”に遺して生きたい。と
ずっと思っていたから。

愛した“今”という存在も“過去”からしたら、愛せるか不安だった“未来”という存在だから。

“今”というのは過去であり、未来だった。
“今”を愛せることは、過去も未来も愛すことに通じていた。

だから“今”を愛せないことが、愛せない日々が辛かった。

未来が突然に、断ち切られてしまっても、“今”を愛せていたなら、それは私にとっての“愛ある過去”になって遺る。

未来が突然、断ち切られた、その時に。
“今”を愛せなかったら、それは私にとって“愛すことの出来なかった過去”になって遺る。

私はずっとそこが辛かった。
だから“逃げ”たんだ。辛かったあの日々から。

何回も何回も、あの日々を愛そうとした。
愛せた日がひとつもなかった訳じゃなかったことは確かだと思う。

けれど、あの日々は毎日、愛せる理由が、ポロポロと零れ落としてしまいそうなくらい脆かったし、見つけては失って、また探すのが怖かった。

愛せない理由ばかりが、心にこびりついて積み重ねられていった。

そうして、愛そうとするのを諦めた。
この日々を愛すのは無理だと。諦めた。
もう、心にこびりついた“愛せない理由”が刻まれていくのが、どうしようもなく痛かった。

その痛みが、私に“消えたい”と思わせた。

だって、どうにかして愛そう、と未来に手を伸ばしているのに、掴み取るのはいつも“愛せない理由”ばかりで、痛かったから。

だから、そんな未来すらも見たくなくなって、自分で未来を断ち切ってしまいたいと思ってしまったから。

私はどうしようもなく、自分の人生を愛そうとしたが故に、人生を愛せなくなっていたのである。

あの日々の中にいた私はあの日々を愛せていない。
愛せる理由はいくつかあった。それは愛せた。
でも総合として、あの日々は愛せていなかった。

愛せる時間もあるけれど、愛せないまま時間を刻んでいた苦味の方が色濃く遺る日々。
いま振り返ってもなお、そう思うのだから。

あの日々の真ん中にいる私は、過去からも未来からも目を伏せたかった。目の前にあった“今”すらも愛せないまんま。

あの日々から抜け出した“今”。
あの日々から抜け出そうと、抜け出したいと言うとき。勇気が必要だったのはなんでだろう?
抜け出したいと言った時、涙が出たのはなんでだろう?

そうだ。あの日々の私は“今”を知らない。
辛さと向き合いながら、あの日々からすると、“未知の未来”に逃げたいと飛び込んでいたのである。

“今”が辛すぎるから、未知であり、“未だ来ず”だけどこっちに逃げたい。と。

だから勇気が必要だった。
知らないところに行くのも、怖くて涙がでていた。

どの道も救われないかもしれない。と。

あの日々でも、幸せがあるのは知っていたから。
私は、あの日々をちゃんと見つめていたから、知り尽くしていた。

辛さを掻き分けて、なんとか見つけてきた幸せをちゃんと零れ落とさないように、辛さに掻き消されないように、見つめてはいたから。
だってそうして、辛くても愛そうとしていたから。

だから泣いた。

辛すぎるから未知に行く。辛さを排除するために。
その排除のレーンに、そうやってどうにか、頑張って見つけてきた幸せも流れ込んでいってしまうのだけは、未知に行くという覚悟の中で理解していたのだ。

愛そうと戦い続けて、あの日々で見つけてきた幸せを、辛さに耐えられないから、もうあの日々で得ようとすることを諦めた。そういうことなのだろう。

こうやって書くと後悔している人みたいだけれど、後悔なんてこれっぽっちもない、と今は思っている。

だって、辛さがなくなった分、幸せにスポットライトが当たるようになった気がするんだ。

私は、今までの辛さが隠していて、気づかなかった幸せを見つけられるようになったと思う。
だから“今”を愛せるようになったと思う。あの日々じゃ思えなかったような幸せに出逢えていると思う。

あの時、幸せが見つからなすぎたからこそ、
“今”見えるようになった幸せに愛深くなる気もする。

あの日々だけを見て愛すことはできないけど、あの日々から抜け出した先の“今”を愛せる愛の深さに、あの日々は加担してくれているのかもしれない。

“今”という、あの日々からの“未来”

あの日々から勇気をだして選んだ“今”という、“あの日々からの未来”にいて、あの日々を愛せるというのはどういうことか。

私は“今”、あの日々から勇気をだして“逃げ”た事で、何もかもを愛せなくて辛くて、そんな自分に嫌悪し続けていた日々を愛せるようになって。
その上、“今”という時間にも、“未来”という時間にも、前より愛を持てるようになって生きているんだと思う。

難しい言葉ばかりだし、時間の表現が混雑していてわかりずらいけれど。

結局は、“今”、自分の人生を前より愛せていることが、私は何よりも愛おしいと思えているのだ。

“今”という存在は、いつか“幸せでありますように”と願った“未来”だし、
“過去”という存在は、いつか過ごした“過去”の“今”なのだから。

“今”をひとつひとつ幸せにしていくということは、“過去”も“未来”も幸せにしていくということ。

どんな時間も自分自身で紡いでいく人生の時間を幸せにするということなのかもしれない。

誰かの“今”をひとつひとつ幸せにできるような人になりたい。

誰かの人生を幸せにするということは、
その人の向き合っていく“今”という時間ひとつひとつ、一瞬一瞬を幸せで彩って、積んでいくことなのだろう。

きっと人生ってこういうことだったんだと思う。

私の人生、幸せに生きるには。
私が私らしくできるだけ“今”をひとつひとつ幸せに彩っていくことなんだと思う。
そしてその彩りが、どうしたって、どう生きたって唯一無二であってくれる尊さが、
“私”の“私にしか創れない人生”なんだと思う。

ひとりひとりの人生が大切で尊くて、輝き方が違うのはそういうことなのだと思う。

未来を信じれるためにはきっと、“今”を信じること。
未来の幸せを祈るということは、“今”を幸せにしていくということ。

そして、いつの時間も、“私を信じること”が“未来”を信じるためのひとつであること。

だからね。きっと。

生きがいが、“誰かに幸せになってもらうこと”なのだとしたら、その人の“今”を幸せにできることが大切なのだろう。

誰かに“今”を幸せにしてもらえるというのは、ほんとうにありがたいこと。

“誰かの幸せのために”と想える人は、ほんとうに優しい人なのだろう。

幸せをお返しできるように生きたい。
幸せにしてもらったから。

誰かを幸せにできる人になりたい。
そのあたたかさを知ったから。

幸せをくれた人を、大切と思う。
だから、大切な人に幸せになってほしいと思う。
大切な人に幸せになってもらえることが、幸せだと思えるのは、当たり前なのだと思う。
そしてそれはとても尊いことだと思う。

だってもう、幸せをもらっているから。

誰かをしあわせにすることを生きがいにしたい。
と思えることも、幸せのおかげで。
誰かから、幸せを貰ったおかげなのかもしれない。

誰かを幸せにした人が幸せでありますように。
そうやってこれからの未来を生きていこうと思う。



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#エッセイ部門

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