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笑う を隠した父

私の父の話を書きたいと思います。

子供たちからみた父親の顔、というものは、それぞれで違うのもまた面白いものです。私の姉たちからするといつまでも自分を助けてくれる太っ腹な人であったようです。

一方の私は、父が40歳を過ぎた頃にできた「(どうしても)また女かぁ…」の子供で、私の物心がついた時にはすでに病弱の年寄りの父親でした。

姉たちがいつも上手に父の手助けを得られたのは、やはり若い頃の父を知っていたからではないかと思いますが、私は私で姉たちの知らない父の顔を知っていると思います。


父は1927年生まれで戦争中は軍機を作らされていました。後に胃潰瘍で胃を切除することになったように、胃腸が弱く平塚の工場から一度自宅で安静をとることになりましたが、その休養中に平塚工場に焼夷弾(しょういだん)が降ったと聞いたことがあります。
(1945年2月16日〜17日 平塚空襲)

また、やはり軍機関係の仕事で銀座のビルに届け物をしに出向いたことがあった際も、地下鉄から出るとまるで人の気配がなく、不安に思いながらもビルに入った途端、B29(アメリカ軍の戦闘機)が窓の向こうに飛んでいたのをみて足がすくんだという話もありました。
(1945年1月27日  銀座空襲)

防空壕までたどり着けず、側溝に身を隠したこともあったそうです。そして平塚工場では父より若い青年たちも働いていたのではないかと思われ、父はその面々を忘れられずにいたに違いないでしょう。



父自筆の記録

終戦を迎え、長男である父は祖父と弟と共に自営業を始めました。父は7人兄弟でしたから、下に続く弟と妹たちをまずは食べさせるため、そしてできれば進学させるためにとにかく働きました。

家族を食べさせるために自分の夢を諦め、長男の責任を果たすべく人生を生きることになったのです。

こう聞くと、父を気の毒に思う人もいるかもしれませんが、この選択も父がしたことで、実際父は商売人として学んだことによって成長し、生かされていたようにも思います。

ただ、父は思い切り『笑う』ということを隠しているような人でした。真面目なせいもあるでしょう。

しかし、私の見ていた吉本新喜劇のチャンネルや、なんなら米国産のコメディもまんざらではなさそうに " にやっ " っと笑うのでした。

小学生の頃の私は、いつも父が心を病んでいるのではないかと、どうにか笑わせたくて、間寛平の真似をしたりもしましたが、なぜか我が家では大きな声を出して楽しそうに笑うことがいけないことのようでした。

隣に祖父母、そして一番下の妹である叔母が住み、そのまた隣には弟一家が住んでいましたから、長男の威厳を保つためなのか、やはりなにかに遠慮してそうだったのかはわかりません。

しかし、戦争によって奪われた自分の青春時代がすっぽり抜けて、生き地獄を見てしまった父は、何かにつけ思い出しては私に戦争の記憶をつぶやいていました。

たくさんの命が犠牲になったのに
あれだけ何度も死にかけたのに
自分は生きている。

そんなことを感じられた時もありました。

親である父も子である私たちもそれぞれの人生を生きるだけで精一杯で、心の奥深くにしまったままの話は半分も聞いてやれなかったかなぁ…。

毎年『終戦』という言葉を聞いては、思い出すことです。

そんな父も初孫、しかも男児が生まれてからは足繁く孫のところへ通い、大声こそ出さないものの満面の笑みがこぼれるようになりました。

きっとその孫に出会えたことに感謝できたからだと思いました。自分の命が救われたから、この孫にも会えたのだと。


父は初孫が生まれてから、保護司として活動していました。
保護司とは、犯罪や非行をした人の立ち直りを地域で支える民間のボランティアです。
(法務省ホームページより)

定期的に面会にくる人の中には、とても深刻な状況の人もいたようで、父はその頃から新興宗教と呼ばれるものを特に毛嫌いしていました。
人を救うはずの団体がそうではなかったという話です。

そうした中で、亡くなってしまった人もいて、父はまたしばらく笑えない時間が増えました。犯罪はいけない。しかし、犯罪者にも罪のない家族はいる。

父は20年以上も保護司を続け、犯罪者と呼ばれる人々に向き合ってきました。

ある時私は言いました。
「できることはしてきたのだから、よく頑張って生きてきたなぁって、自分のために笑ってよ」
しかし父はやはり、上手く笑えないでいました。

転生を信じている私は、父との別れの時に言いました。
「今度(来世)は、たくさん笑える人生を生きてね」

四十九日を迎えようという秋のことでした。
私の住む家のベランダを掃除していた私と夫の目の前に、一匹のトンボが飛んできて、ベランダの手摺りに止まりました。

そして、次の瞬間、そのトンボの足が滑ったのです。トンボがズッコケたのです!
私と夫は「じじ〜〜!!😆」と同時に発声しました。

父は昔、社交ダンスを習い直しに行ったことがあり、私がたまに相手をして練習していましたが、とにかくセンスは良くありません。
そしてよく足を滑らせていたのです。

無事に葬儀も終えましたが、とても心が疲れていました。一旦、私を笑わせに来てくれたに違いないと感じました。

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