【漢文トリビア】面白い、んだけど・・・
中国の古典文学作品は、有名な作品ほど「異説」が多くあります。
原文の一般的な解釈、つまり「定説」にチャレンジして、あれこれと視点を変えて新しい解釈を試みる「異説」です。
原文の解釈が分かれる場合、あるいは版本によって原文の字句自体に違いがある場合、どちらが妥当なのか、何を基準に判断したらいいのでしょうか。
唐・王維の「鹿柴」を例に挙げて、「定説」対「異説」のバトルを見ていきます。
空山不見人 空山 人を見ず
但聞人語響 但だ聞く 人語の響くを
返景入深林 返景 深林に入り
復照青苔上 復た照らす 青苔の上
――人気のない山中、人の姿は見えない。
ただ、どこからか、人の話し声が聞こえてくる。
夕陽の光が、奥深い林の中にまで差し込んで、
そして、鮮やかな緑の苔の上を照らしている。
「鹿柴」は、夕暮れの光景の美しさと、その世界に浸り込む心を歌った珠玉の五言絶句です。
起句・承句では、聴覚的に、人の話し声の響きによって静寂の世界を描き、転句・結句では、視覚的に、夕陽の赤と苔の緑が織りなす鮮やかな美の世界を描いています。
さて、ここで問題にするのは、結句の末尾の「上」の文字です。
一般的には、これを「うえ」という場所を示す語と解釈しています。
つまり、「夕陽の光が苔の上を照らしている」という解釈です。
この定説に対して、これは「うえ」ではなく、動詞の「のぼる」である、とする異説があります。その場合は、
復た青苔を照らして上る
という読み方になり、「日が傾くにつれて夕陽の光が苔を照らしながら這い上がる」という解釈になります。
この異説の根拠は、押韻にあります。この詩は五言絶句ですので、承句の「響」と結句の「上」で韻を踏みます。
近体詩の押韻の規則においては、韻字の声調は「平」か「仄」かだけではなく、「平・上・去・入」の四声の声調を合わせるのが原則です。
大半の詩は平声で押韻しますが、仄韻の場合、例えば、上声なら上声、入声なら入声で押韻するのが普通です。
この詩では、「上」を「うえ」と読む場合は去声ですが、「のぼる」と読む場合には上声になります。承句の句末の「響」が上声ですので、押韻の上では「のぼる」と上声で読む方が規則に合っていることになります。
さらに、「うえ」と「のぼる」とでは、一句全体のイメージがガラリと変わります。
「うえ」で読むと、夕陽がじっと同じ苔の上を照らし続けるという静止画的な光景になります。
一方、「のぼる」で読むと、日が傾くにつれその日差しが苔の上をだんだんと這い上がっていくという動画的なイメージになります。そして、その動きによって、次第に日が暮れていくという「時間の推移」を表すことにもなります。
この異説を初めて知った時は、ダイナミックで面白い解釈だと感心し目から鱗が落ちる思いでした。
ところが、この説は、今日ではほとんど採られていません。それは、同じく音韻の面とイメージの面における定説派からの反論によるものです。
音韻の面では、押韻は四声で合わせるのがルールですが、それはあくまでも原則で、実際の運用では、仄韻は通用します。
ですから、厳密に上声は上声で合わせなくてはならないわけではなく、上声と去声で押韻させても十分許容範囲です。
イメージの面でも、「のぼる」と読むと、刻々と変化する夕陽の光の動きが描かれることになり、とても魅力的な解釈ですが、王維の詩風にそぐわないところがあります。
王維は著名な画家でもあり、「詩中に画あり、画中に詩あり」と評されるように、詩の中に絵画的趣があるのが一つの特長です。
この詩でも、夕陽の光が苔の上でじっと動かないという静止画の方が、一瞬の「美」を切り取る絵画的なイメージになって、むしろ王維の詩風に合っている、というわけです。
そして、何よりも理屈抜きで、漢詩の語法やリズムの上で、「上」を動詞に読むのは違和感があります。句末の「上」が浮いてしまって据わりが悪いのです。
五言詩の場合、一句のリズムは、通常「2+3」(〇〇/〇〇〇)です。
「上」を「うえ」と読めば、「復照/青苔上」というリズムになりますが、
「のぼる」と読むと、「復/照青苔/上」となってしまいます。
この異説は日本人のある著名な研究者が唱えたもので、中国では、従来からこのような説が唱えられたことはありません。
面白い解釈ではあるけれど少々無理があるということで、今日ではほとんど顧みられていません。
似たような議論は他にもたくさんあります。
以下に挙げる3つの例は、字句そのものが版本によって異なる例です。
李白「靜夜思」(静夜思)
牀前看月光 牀前 月光を看る
(静かな秋の夜、寝台の前まで差し込む月の光を見る)
牀前明月光 牀前 明月の光
(静かな秋の夜、寝台の前まで差し込む明月の光が目に入る)
李白「望廬山瀑布」(廬山の瀑布を望む)
遙看瀑布挂前川 遥かに看る 瀑布の前川に挂かるを
(遥か遠くを見やれば、一本の滝が前方の川に掛かっている)
遙看瀑布挂長川 遥かに看る 瀑布の長川を挂くるを
(遥か遠くを見やれば、まるで長い川が山に掛かっているかのようだ)
陶淵明「飲酒」(其五)
悠然見南山 悠然として 南山を見る
(ふと遥か遠くに南山の姿が目に映る)
悠然望南山 悠然として 南山を望む
(遥か遠くにそびえる南山の姿を眺める)
これらの字句の異同と解釈の違いについては、以下に貼った個々の記事の中で詳しく言及していますのでご参照ください。
「文学作品はさまざまな解釈ができる」
「文学作品は読み手が自由に解釈すればよい」
というような言葉をよく聞きます。
確かに一理あります。文学愛好者が文学を鑑賞するにはそうした姿勢でよいと思います。
しかし、厳密に言うと、詩人がもともと歌おうとした意味は一つしかないはずです。そして、その原義を反映した版本も一つしかないはずです。
そうした正しい意味や正しい版本を探求し、作品の元の姿を復元することが研究者の仕事ということになります。難しい作業ですが、古典研究の醍醐味と言えるかもしれません。
