ハイエクとポランニー〜自由の侵害か、市場の暴走か。
最近、ハイエクの「隷従への道」とポランニーの「大転換」を再読した。二人の著書を比較しながら読んでいると、「トランプ現象」のような現在の政治的・経済的状況がよく見えてくる。
20世紀は「市場か計画か」という問いに取り憑かれていた。ハイエクとポランニーは、この問いをお互いに反対方向から同じ現象として見ていた。
ハイエクは、計画経済の危険を告発した。
ポランニーは、市場社会の危険を告発した。
一方は「自由の喪失」を恐れ、
他方は「社会の崩壊」を恐れた。
この対立は、単なる思想の違いではない。むしろ、同じ時代の危機を別の角度から見た二つの診断である。
ハイエクの主張は単純で、そして強い。
社会の複雑さは中央で処理できない。したがって、経済を計画的に統制しようとすると、必然的に権力の集中と強制が生じる。
このとき、計画は単なる経済手段ではなくなる。それは、誰の価値を優先するかを決める政治的装置となり、異なる価値を排除する力へと変わる。
ハイエクが見たのは、ナチズムやファシズムの制度的構造であり、その核心にあるのは「意図された秩序」がもたらす暴力であった。
彼の問いは明確である。
なぜ自由社会は、計画を通じて全体主義へ滑り落ちるのか。
この問いにおいて重要なのは、国家権力の垂直的集中である。自由の喪失は、上からの統制として現れる。
しかし、ポランニーは同じ危機を逆の方向から見ていた。
市場が自己調整的に拡大するとき、労働、土地、貨幣といった社会の基盤が「商品」として扱われる。その結果、生活は不安定化し、共同体は解体され、社会的連帯は崩壊する。
ポランニーの問いはこうである。
なぜ、市場社会は、その内部からファシズムを生み出すのか。
ここで問題となるのは、国家ではなく社会の側である。市場は人々の生活基盤を侵食し、社会を内部から崩壊させる。その崩壊に対する反応として、社会の自己防衛が生じる。だがその防衛はしばしば歪む。「強い指導者への依存」「ナショナリズム」「排外主義」「権威主義的統合」等々。
こうして、市場の暴走 → 社会の崩壊 → 反動 → 権威主義という連鎖が生まれる。ここでは自由の喪失は、上からではなく、下からの崩壊の結果として現れる。
両者の違いは、ナチズムの理解において最も鮮明になる。
ハイエクは「隷従への道」の序論で「ファシズムやナチズムの台頭は・・・社会主義に含まれていたいくつかの傾向の必然的な結果なのだ」(西山千明訳)と書いている。
ハイエクは、ナチズムを計画主義(社会主義=全体主義)の帰結として読む。すなわち、「経済統制」「国家の指令」「個人の従属」を見て、それを社会主義的傾向の延長と理解する。
これに対してポランニーは、あくまでもナチズムを「市場社会の崩壊への反動」として読む。すなわち、「大恐慌」「失業」「中間層の崩壊」「社会的不安」といった条件のなかで、人々が市場からの保護を求めた結果として理解する。
この違いは単なる解釈の差ではない。
ハイエクは、国家が社会を飲み込む過程を見ている。市場は自由をもたらすどころか、社会をその外部へと押し出してしまう。国家の肥大化。しかし、そこでポランニーは、社会が崩壊し、その結果として国家が肥大化する過程を市場の暴走に見ている。つまり、資本主義的市場経済の暴走がナチズムやファシズムをもたらすと。
つまり、ハイエクは「上からの統制」を問題にし、ポランニーは「下からの崩壊」を問題にするのだ。
この二つの診断は、現代において奇妙な形で再び交差する。
たとえばトランプの台頭は、ポランニー的には明らかに「社会の自己防衛」として理解できる。
グローバル市場の拡大は、「製造業の空洞化」「地域経済の衰退」「中間層の不安定化」をもたらし、人々に深い不安と怒りを生み出した。
しかしその怒りは、制度そのものではなく、しばしば「エリート」へと向かう。「政治家」「官僚」「知識人」「グローバル企業」に対する不信が、反エリート主義として表現される。
これは市場社会の問題が、情動的・人格的な対立へと翻訳された形である。
その結果、排外主義、ナショナリズム、強い指導者への依存が強まる。
ここでハイエクの警告が現実のものとなる。
すなわち、社会的危機のなかで、人々は強い統制を受け入れやすくなるという点である。
ハイエクとポランニー。私自身は、ポランニー的な立場に立つものだが、現代においてはもう少し複雑でねじれている気がする。なぜなら、この現象は国家だけに限られない側面があるからだ。
例えば、Amazon や Google のような巨大企業は、市場の名のもとに、情報を集中させ、行動を予測し、流通を統制するという、極めて計画的な仕組みを構築している。
ここでは、市場と計画(国家)の対立そのものが崩れている。
市場は自由の場であると同時に、計画的統治の装置ともなっているのだ。
このとき現代は、市場による社会の崩壊(ポランニー)と、計画による自由の侵食(ハイエク。ただし、ここでは国家に変わって巨大テクノ企業が計画の主体)が同時に進行する時代となっている。
したがって、現代の課題はこう言い換えられる。
市場を放置すれば社会は崩壊する。
計画を強めれば自由は侵食される。
では、どうするのか。この問いに対して一つ言えることは、もはや単純な二択はもはや意味を持たないことだろう。
ハイエクは、「自由はいかにして奪われるか」を示した。
ポランニーは、「人々はいかにして自由を手放さざるを得なくなるか」を示した。
この二つは対立ではない。同じ連鎖の異なる局面である。
市場が社会を壊し、壊れた社会が強い国家を求め、その国家(あるいは巨大テクノ企業)が自由を侵食する。この連鎖を断ち切ること。それが、現代においてハイエクとポランニーを読む意味ではないか。
次のテーマは、「国家社会主義とテクノ企業社会主義」だ(笑)!
