不倫は文化か?
不倫は文化だ。
90年代に流行ったトレンディ・ドラマで名を馳せたある役者が、取材に応えて口にしたとされる言葉。
詳しいことは知らないが、詰め寄ってくる記者に向かって、釈明するか、開き直るかしたのだろう。
ところが、本当はこんなことは言っていないのだという。
今までの文化を作ったり、良い音楽や文学は不倫からもできている。
そんな発言が、「不倫は文化」として切り取られ、一人歩きすることになったらしい。
彼の考える「不倫からできている良い音楽や文学」とは具体的に何か、ということは、さておく。とくに訊いてみたいとも思わない。そもそも彼が不倫体験から作曲したり、小説を執筆したりもしていないのでないか、という疑問も、どうでも良いことだ。
殺人犯が、「人殺しからも素晴らしい文学が生まれたではないか」と弁明したらどうか、などと反論するつもりはない。さらに戦争を始めた権力者が、「戦争からも良い音楽や映画が生まれたではないか」と開き直ったらどうか。いやいや、何もそんな大層な話ではない。
不倫は文化、どうやら記者による悪意ある切り取りであるらしいその言葉には、そこはかとなく名言臭が漂っている。それは一体なぜなのか。
地球は青かった。(ガガーリン)
わたしはカモメ。(テレシコワ)
私には夢がある。(キング牧師)
私には金がない。(かんやん)
卓越した業績を上げた20世紀の偉人たちのこうした名言と比べてみても、遜色ないと感じられるのは私ひとりだけであろうか。
だからと言って、来る日も来る日も芸能人や政治家の不倫報道に接して、やはり我が国は文化国家であるなどと胸を張ることもない。
不倫報道などどうでも良いとは、思わない。世間の耳目を集め、下世話な好奇心を掻き立て、モテない人たちの敵愾心に火をつける。つまり、ニュースバリューがあるのである。不倫した有名人のキャリアを徹底的に叩き潰し、引きずり落とすことは、(何のキャリアも築いていない方々にとって)なんと素晴らしく胸のすくことであろうか!
そうは言っても、身近な噂話の鳥肌の立つような臨場感にはどうしても敵わない。実は最近行きつけの酒場で……いや、この話は止めておこう。今はまだあまりに生々しくて、どうにも巧く語れない(だから、こんな文章をだらだら書いている)。
まあ、これだけは言えるのは、不倫には良い音楽とか、文学とか、とくに関係ないよということである。不倫は断じて文化ではない。むしろ、結婚という制度こそ文化的であるように思われる。そんな社会的な制度から逸脱してしまうのは、ヒトという生き物のどうしようもない、どうにもならないサガなんだろう。
え? 不倫したとがないですって? そりゃ、そういう方も少なからずおられるのかもしれませんが、新約聖書にはこうありますよ。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」
たとえ両目をえぐり、両手を切り落としても、ヒトは妄想を止められない。そこまで言うのなら、いっそ根本原因の方を切り落としたら、と思わないでもない。
しかし一方で、『ヨハネによる福音書』には、こんなエピソードがある。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場でとらえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」
姦通の現場を押さえられたが、しょっ引かれるのは女の方だけというのが、やはり昔はと言うべきか、それとも今も昔もと言うべきか。
イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」(……)これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
現実は、まあこうはいくまい。誰もが匿名性に隠れて、見えないところから集団で石を投げるからである。このような「正義」ほど厄介なものはない。
(了)
