だから、また会えるよ
プロローグ
「連絡先、聞こうと思ったんだけど、やめておくね。」
2026年3月。
あれから一度も、君には会っていない。
ライブ後の熱気が残る街の匂いや、夜のファミレスで口にした少し冷めたコーヒーの温度、そして君の長いまつげの震え。
それらは、時間が経つほどに薄れていくどころか、むしろ輪郭をはっきりさせながら、静かにそこに在り続けている記憶だ。
あの夜、僕ら二人の「分けられない痛み」が共鳴し合った瞬間。
僕の世界は、君に出会う前の自分には戻れないほどに変容してしまった。
「名前もつかないほどの関係性」
その言葉でしか表せない距離が、確かにあった。
あのバンドが新しくリリースした曲を聴くたびに、僕は君のことを思い出す。
「この曲、君も聴いたかな。」
そんな答えのない問いが、胸の奥に残る。
それでも、あの日「続きを作らなかったこと」を後悔したことはない。
僕の人生の礎は、あの数時間、君が僕の心に灯してくれた小さな明かりでできている。
これは、僕が今も大切に抱きしめている、君との、そしてあの日の僕との対話の記録。
僕が、僕として生きていくために。
今、君へ向けて、積み上がった箱を一つずつ開けていこうと思う。
第一章:涙の出会い
僕らは当時、19歳だった。
2012年7月。
仙台から利府へと向かう列車に揺られながら、僕は車窓の向こうに広がる景色を眺めていた。
宮城は小学生時代を過ごした、僕のもう一つの故郷だ。
かつて野球に明け暮れた河川敷も、震災から一年が経ち、目に見えない傷跡を抱え静かに横たわっていた。
画面越しに見た変わり果てた風景と、目の前の現実。
その中途半端な距離感が、胸の奥をざわつかせた。
そんな重い空気を振り払うように、僕は目的地であるセキスイハイムスーパーアリーナへと急いだ。
あの日、僕の手元には、幸運にも手に入れた一枚のチケットがあった。
僕の人生の節目には、いつも「彼ら」の音楽があったんだ。
うまくいかない日。
理由もなく落ち込む日。
誰にも言えない焦りを抱えていた夜。
イヤホンをつけて、ただ音楽に逃げ込むことしかできなかったあの頃。
心が折れなかったのは、彼らの音楽に何度も救われてきたからだ。
だからこそ、この宮城という場所で彼らの音を浴びることに、僕は強い意味を感じていた。
会場の周辺は、開演を待つ人々の熱気で溢れていた。
お揃いのツアータオルを首に巻いた人、期待に目を輝かせて笑い合う人。
楽しげな喧騒の中、僕は一人で歩いた。
少しだけ孤独がよぎるが、すぐに打ち消す。
一人でこの場所と向き合いたかったからだ。
開場し、指定された席につく。
まだ開演前なのに、心臓の鼓動だけが妙に早い。
ふと、左隣に座っている人の気配を感じて、視線をやった。
それが、僕と君との、最初の出会い。
君は、僕と同じように一人で来ているようだった。
膝の上で拳をぎゅっと握りしめ、ステージを見つめる横顔。買ったばかりであろうライブTシャツを着ることはせず、握りしめたまま。
まだ音が鳴り響いていない暗転前の会場で、君の存在だけが、なぜか視界の中で特別な色彩を帯びて見えた。
やがて、会場の照明が落ち、地響きのような歓声が巻き起こる。
暗闇の中、僕らの魂を震わせるあの懐かしくも鋭いギターの旋律が鳴り響いた。
その時、僕も君もまだ知らなかった。
この数時間後、僕らがどんな痛みを分かち合い、どんな言葉を交わすことになるのかを。
ただ、目の前でかき鳴らされる音楽だけが、僕ら二人の「迷子」を、静かに、けれど確実に引き寄せようとしていた。
ライブは、予想を遥かに超える熱量で進んでいった。
一曲ごとに会場の温度は上がり、ステージから放たれる音の粒子が、僕の心の凝り固まった部分を一つずつ解きほぐしていく。
そして、終盤。
彼らにとっての原点であり、僕らにとってのアンセムとも言えるあの曲が始まった。
その曲の途中で、空気が一変した。
ボーカルである彼が、確かな意志を込めて、いつもとは歌詞を変えて歌い上げたんだ。
「分けられない痛みを抱いて、君は今を生きている。」
その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、僕の視界は一気に滲んだ。
――ああ、まだ終わっていなかったんだ。
忘れたつもりでいた。
遠くに置いてきたつもりでいた。
でも違った。
ただ、触れないようにしていただけだった。
一体、体のどこにこれほどの水分が眠っていたのかと思うほど、涙が止まらなくなった。
それは、あの日。…震災の直後。
彼がラジオで、弾き語りを通して僕らに届けてくれた、あの時の祈りと同じ言葉だった。
「ミュージシャンである自分は歌うことしかできない。」と、全身全霊で電波に乗せてくれたあの歌声が、今、この宮城の地で、再び僕の胸を貫いたんだ。
胸の震えが止まらない。
昂ぶった感情が風船のように宙に浮いて、どこまでも飛んでいってしまうようだった。
ライブが終わっても、僕はすぐには現実に戻ることができなかった。
ふと隣りを見ると、君はまだ席に座ったままだった。
立ち上がることさえできないほど、肩を震わせて泣いていた。
一人でこの場所に立ち、僕と同じように、あるいは僕以上に重い何かを受け止めていた君。
(君も、僕と同じだったのだろうか)
そんな思いが頭をよぎった瞬間、僕は自分でも驚くような行動に出ていた。
見ず知らずの人に、ましてや異性に声をかけるなんて、これまでの僕の人生では一度もなかったことだ。
でも、あの曲の余韻は、僕を僕じゃない何かに変えていた。
「……大丈夫、ですか?」
その一言を口にするまでに、ほんの数秒のはずなのに、妙に長く感じた。
声をかけたら、この夜のバランスが崩れてしまうんじゃないか。
でも、何もせずに終わる方が、もっと後悔する気がした。
そんな胸の内とは裏腹に、途端に冷静さが戻り、焦る。
ナンパだと思われたらどうしよう、嫌な思いをさせたらどうしようという不安が押し寄せる。
僕にとっては永遠にも感じられた数秒の沈黙。
やがて君は、涙を拭いながらゆっくりと顔を上げた。そして、少し恥ずかしそうに、けれど柔らかく、僕の目を見て笑ったんだ。
「はい。なんか、込み上げちゃって。でも大丈夫です。」
それが、僕の耳に届いた君の最初の、透き通った声だった。
会場の残響に照らされた君の肌は白く、大きな瞳にはまだ涙の膜が張っていた。その瞳に呼応するように光る、長いまつげ。
僕は一瞬で、言葉の通り、君に目を奪われてしまった。
退席を促すアナウンスが響く中、「とりあえず出ましょうか。」と声を掛け合い、僕らは吸い寄せられるように、夜の闇へと連れ立って歩き出したんだ。
第二章:夜のファミレス
会場の外に出ると、7月の夜風は、火照った体に驚くほど冷たく感じられた。
さっきまであれだけの熱気に包まれていたのに、外に出た瞬間、世界は何事もなかったかのように静かだった。
駅へと向かう群衆から少し外れるようにして、僕らは自然と歩調を合わせた。
肩が触れそうで触れない距離。
言葉がなくても、不思議と気まずさはなかった。
むしろ、あの空間を一緒に通過してきた者同士の、言葉にしなくても分かる何かがあった。
道中の空気は、意外なほど軽やかだった。
通っている大学の話や、最近よく聴いている音楽のこと。
ありふれた会話のはずなのに、一つ一つが妙に鮮明に残る。
偶然にも僕と君は同い年。
君も宮城の出身で、今は東京の大学に通っていた。
それを知って少し距離が縮まった気がした。
高校の卒業式を終えた直後に宮城から引っ越したから、震災の時は、故郷を遠く離れた場所で見ていたのだと教えてくれた。
「テレビで流れる映像、ずっと見てたんだよね。」
君はそう言って、少しだけ視線を落とした。
その一言の奥にあるものを、僕は理解していた。
何もできない場所で見続けるしかなかった人間の、あの感覚。
現実感のない恐怖と、どうしようもない無力さ。
「あ、あそこにファミレスがある。もう少し話さない?」
そう言って、僕らはロードサイドの一軒の店に入った。
夜のファミレス特有の、少し眩しすぎるくらいの白い照明。
現実から少し切り離された空間。
僕らは窓際の席に座り、ドリンクバーと軽食を注文した。
ドリンクバーへ向かい、僕はコーラを、君はオレンジジュースをグラスに注いだ。氷がグラスに当たる音が、やけに大きく響く。
席に戻ると、自然とまた会話が始まる。
運ばれてきた料理を口にしながら、僕らは他愛もない話で笑い合った。
本当に、ただの大学生同士の会話だった。
でも、その「普通」が、僕にはどこか特別で。
――この時間、終わらなければいいのに。
そんなことを、ぼんやりと思っていた。
けれど、食事を終えて、おかわりのコーヒーをテーブルに置いた時。
僕らの間に流れる空気が、ふっと静かなものに変わった。
さっきまでの軽さとは違う、深い場所に触れるような沈黙。
「……今日のライブ、最高だったね。」
僕が切り出すと、君は「うん」と深く頷いた。
「アンコール、凄かった。あの曲……」
言葉を探すように間を置いてから、君は続けた。
「ねえ、知ってる? ずっと前に、彼らがラジオで弾き語りをしてくれた時のこと」
その言葉に、僕の中で何かがつながった。
「ああ……僕も聴いてた。」
そう言った瞬間、君はハッと顔を上げた。
「……私も、あのラジオを聴いてたの。」
その声は、さっきまでとは少し違っていた。軽さが消えて、何かを抱えた重さが滲んでいた。
「一人暮らしを始めたばかりの東京の小さな部屋で、友達と連絡がつかなくて。怖くて、毎日心配で。でも宮城に帰ることもできなくて……」
言葉を選びながら、君はゆっくりと続ける。
「ベッドの上で、毛布にくるまって座って。あの声を、あの唄を、震えながら聴いてたんだ。」
僕は何も言わずに、ただ頷いた。
そこから、君は少しずつ、自分の話をしてくれた。
「太陽みたいな子だったんだよ。」
そう言って話し始めたのは、幼馴染の友人のことだった。
活発で、優しくて。
引っ込み思案だった君の手を引いて、いつも輪の中に連れ出してくれる存在。
君にとっての「光」。
その光を、震災で失ってしまったこと。
君とその友人は、あの震災の数日前、高校の卒業式で笑って別れて。
夏休みには宮城に帰るから遊ぼうねって約束して。
友人もその言葉に頷いて。
君が進学のため東京への引っ越しを済ませてからも、メッセージのやり取りをして。
東京はどこも人が多いよーなんて、そんなやり取りが続いて。
早くもちょっと地元が恋しくなった君を、友人が優しく励ましてくれて。
次に会えるのを楽しみに頑張ろうって、君も前を向いて。
でも、約束の夏休みは来なかったんだ。
言葉にするたびに、少しずつ声が震えていく。
話しながら、君はグラスの縁を指先でゆっくりとなぞっていた。
一周、また一周。
視線はどこか遠くにあって、その指だけが静かに動いていた。
それでも、途中でやめることはなかった。
逃げずに、ちゃんと話してくれた。
僕は一言も聞き漏らさないように、その言葉を受け止めた。
「大切な人だったんだね。」
「うん。」
「会ったことないのにさ、君の言葉だけで、どれだけ素敵な人だったかよくわかる。」
「あの子の周りに日陰はできない。そんな子だったんだよ。」
そして気づけば、今度は僕の番になっていた。
「僕も、誰にも話したことのない話があるんだ。」
自分でも驚くほど自然に、言葉が出てきた。
小学生の頃、毎日一緒に遊んだ友達のこと。
買い食いが見つかって、二人して叱られた駄菓子屋のこと。
いつも野球をしていた河川敷のこと。
その場所が変わってしまったこと。
そして、自分の中で何も整理できていなかった感情のこと。
中学入学と同時に東京に引っ越した僕は、なかなか宮城に帰れずにいた。
その友達ともずっと会っていなかった。
連絡は取っていた。
お互い続けていた野球を通じて、つながっていた。
「最近調子どう?」って、たまに掛けてくる電話。
密かにそれが支えになっていた。
高校に上がってからも数カ月に一度は電話で話して。
僕が一年生でレギュラーを取ったときには、自分のことのように喜んでくれて。
お互い悩み相談とかもして。
「同じ地区にスライダーがすごいピッチャーがいてさ。」
「右?左?」
「右。ストレートも140キロ超えてくるんだよ。」
「厄介だな。スライダーはさ、左肩開いたら絶対打てないから…」
「こんな感じか…?」
「見えねーよ笑。」
そんな風に、バット片手にスピーカーにした携帯電話で話す。
何百キロも離れた土地の、同じ夜の空の下。
なぜか、すぐ隣にいるような気がして。
夢のまた夢だけど、全然届かないけれど、「甲子園で会おうぜ!」なんて言って笑い合って。
そんなあいつが、いなくなった。
もう会えなくなった。
なんで会いに行かなかったんだろう。
新幹線に乗ればいつでも会えるなんて、軽く考えていた。
そんな自分を、何度も何度も責めた。
忘れたら楽になるのかもしれない。
でも、忘れることなんてできない。
忘れたら、あいつがいなかったことになってしまう。
思い出すとこんなにも寂しいのに。
思い出せなくなる方が、もっと寂しい。
それでも日常は続く。
ご飯を食べて、大学に行って、仲間と遊んで。
面白いことがあれば笑って。
あいつがいなくなったのに。
それまで通り普通に暮らしている自分がどこか許せなくて。
でも、どうにもできなくて。
吐き出した言葉は、どれも歪で、整っていなかった。
正直、情けなかったと思う。
でも、君は最後まで目を逸らさなかった。
そして、静かにこう言ったんだ。
「…君も、同じだったんだね。」
少しの沈黙のあと、君はこう続けた。
「つらかったよね。でもさ、忘れちゃダメだよ。」
その言葉は、優しいのに、逃げ場を与えない強さがあった。
「楽しかったこと、幸せだったこと、彼がそこにいたこと。絶対に忘れちゃダメ。」
一つ一つ、確かめるように言葉を重ねる。
「苦しくても辛くても、私たちはそれを抱えて生きていくのだよ。」
最後はちょっとおどけたような言い方。
少し冷めたコーヒーの香りが、そっと鼻を刺激した。
僕を見つめる君の瞳には、迷いがなかった。
自分の痛みを、過去に押し込めるんじゃなくて、ちゃんと抱えたまま生きる覚悟。
――なんて強い子なんだろう。
そう思った。
同時に、少しだけ救われた気もした。
ああ、これでいいんだと。
忘れようとしなくていいんだと。
夜のファミレス。遠くでドリンクバーの機械音が鳴っている。
僕ら二人の「迷子」は、コーヒー一杯の温もりに救われながら、ようやく自分たちの居場所を見つけたような気がしていた。
それはきっと、長く続くものではないと、どこかで分かっていた。
それでも、その瞬間だけは確かに――
僕らは同じ場所にいた。
第三章:別れと決意
ファミレスを出ると、7月の夜気はいくらか湿度を増していた。
さっきまで店内に満ちていた人工的な光とは違う、現実の夜の温度。
けれど、不思議と重さはなかった。むしろ、心は軽かった。
あれだけ深い話をしたのに。
あれだけ互いの奥に触れたのに。
まるで、全部ちゃんと受け止めてもらえたあとみたいに。
「さっきは偉そうに言ったけどさ、私も時々今日みたいに泣いちゃうんだよね。」
君は少しだけバツが悪そうに、はにかんだような笑顔を見せた。
その表情があまりにも無邪気で、さっきまで二人で深い傷跡を見つめ合っていたことが、どこか現実味を失っていく。
駅へと向かう道すがら、君はどこか足取りが軽かった。
僕の数歩前を歩く背中。
街灯に照らされて揺れる、肩に触れるくらいの少し茶色い髪。
ふと、君が歩調を緩めた。
特に理由もなさそうに、靴の先で小石を一つ、道の端に軽く蹴る。
それからまた歩き出す。
僕はその後ろ姿を見ながら、右のポケットの中でスマートフォンを強く握りしめていた。
このまま終わらせたくない。
その感情は、もうごまかせなかった。
不思議とそれが恋愛感情ではない確信があった。
「恋人になりたい」なんて浮ついた感情とは違う何かが、僕らの間には流れていた。
あんなに深く心がつながったのに。
あんなに言葉を交わしたのに。
明日になれば、また全く違う人生を生きる。
明日の君を、僕は知らない。
明日の僕を、君は知らない。
さっきまであんなに近くにいたのに。
――それが、どうしても耐えられなかった。
何度も、何度もタイミングを探した。
「連絡先、教えて。」
その一言が、喉元まで出かかっては消える。
言えばいいだけだ。たったそれだけなのに。
でも、その一言で、この夜の純度が変わってしまう気がした。
それでも。
それでも、やっぱり――
言わなきゃ、終わる。
駅の明かりが見えてきた時、僕は意を決して一歩踏み出した。
その瞬間だった。
君が、ふっと立ち止まった。
そして、くるりと振り返る。
「連絡先、聞こうと思ったんだけど、やめておくね。」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
時間が止まったみたいだった。
さっきまで頭の中でぐるぐるしていた言葉が、全部吹き飛ぶ。
「……どうして?」
気が付いたら、そう聞いていた。
情けないくらい、正直な声だったと思う。
「俺、また君に会いたいよ。」
それは、衝動に近かった。
整理された言葉じゃない。でも、嘘はなかった。
君は、少しだけ目を細めて、僕を見た。
夜風に髪が揺れる。
そして、静かに言った。
「だって……必要だったらきっとまた会えるから。」
その言葉は、不思議なほど真っ直ぐだった。
綺麗ごとでも、気休めでもなくて。
まるで、それが当たり前の事実みたいに。
「人と人との出会いは、そういうものだから。」
少しだけ間を置いて、続ける。
「私たちが今日ここで会えたことにも、必ず意味があるから。」
その瞬間、僕は何も言えなくなった。
いくらでも言葉はあったはずだ。でも、出てこなかった。
君の言葉には、それをさせない力があった。
たぶん、僕もわかってしまったからだ。この人は、「わかってて選んでいる」と。
つながらないことを。
残さないことを。
あえて、ここで終わらせることを。
それはきっと、優しさでもあるし、強さでもある。
残酷だと思った。
でも同時に――
これ以上なく、美しいとも思った。
恋ではない。ただの他人でもない。
名前もつかないほどの関係性。
でも確かに、深いところでつながっていた。
ほんの一瞬だけ、人生が交差した。
それでいいと、君は言っている。
「だから、また会えるよ」
最後に、そう言って君は笑った。
その笑顔は、どこか確信に満ちていた。
未来に委ねる強さ。
その瞬間の僕にはまだ持てなかったもの。
「……わかった。じゃあ、またね。」
やっとの思いで、それだけを絞り出した。
本当は、全然わかってなんかいなかったと思う。
でも、受け入れるしかなかった。
縋ることがみっともないなんていう、ちっぽけなプライドもあっただろう。見せかけだけでも、綺麗に別れたかったんだ。
君は満足そうに一度頷くと、振り返って改札へと歩き出した。
引き止めることもできたはずだ。走って追いかけることもできたはずだ。
でも、足は動かなかった。いや、動かさなかった。
あの選択を、尊重したかった。
光に吸い込まれるように、君の姿が小さくなっていく。
やがて、人混みの中に消えた。
完全に見えなくなるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。
胸の奥に残っていたのは、喪失感じゃなかった。
どこか、不思議な静けさだった。
――ああ、終わったんだな。
そして同時に、こうも思った。
――会えてよかったな。
ほんの一瞬、声を重ねただけの出来事。
それでも、確かに意味があったと、言える夜だった。
第四章:「不在」という支え
あの夜以来、僕は一度も君に会っていない。
連絡先も知らず、SNSで探すこともしなかった。
今の君がどこで誰と笑っているのか、僕はそのすべてを知らない。
何もしなかった。
だって、必要なら自然と、いつか会えるから。
あの夜、君が残した言葉を、僕はずっと信じていた。
そして、不思議なことに。
つながらなかったことを後悔したことは、なかった。
僕は君の真意を汲み取ったから。
僕にとって都合のいい解釈かもしれないけどね。
そんな思いが頭の隅にはありながらも、君なら「そう思ってるんだろうな。」っていう確信が、あの濃密な数時間を過ごした僕にはあったんだ。
あの日の僕よりは、大人になった。
大学を卒業して、就職もした。
やりたかった仕事に就けた。
新しい趣味もできたし、友人も増えた。
恋愛だって、年相応にはしてきた。
隠さずに言うと、君に会いたいと思ったことは、もちろんある。
例えば、社会人になって最初の冬。
仕事がうまくいかなくて、帰り道のコンビニの前で立ち止まった夜。
理由もなく、自分が小さく感じた日。
イヤホンから流れてきた、あのバンドの曲。あの頃と変わらない声。
その瞬間、ふと君のことを思い出した。
――あの夜、隣で泣いてたな。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
あの時みたいに、全部吐き出せたら楽なのかもしれない。
そう思ったこともある。
でも、不思議と探そうとは思わなかった。
会いたいと、思うことはあっても。
探そうとは、思わなかった。
あれは、魔法みたいな夜だった。
音楽を通して、あんなに深くつながったのに。
言葉を重ねて、あんなに互いの奥に触れたのに。
また別々の人生を生きている。
今日の君を、僕は知らない。
今日の僕を、君は知らない。
君を知らない、君の知らない日々が、積み重なっていく。それでも、あの時間は確かに存在していて。確かに、僕の中に残っている。
「必要だったらまた会える」
君が最後に残したその言葉は、呪文みたいに僕の中に根を張った。
最初は慰めだと思ったその言葉は、やがて僕の人生観になった。
再会していないという事実は、あの日魂を寄せ合った二人が、今はそれぞれの場所で自分の足で立って生きている証だ。
会わなくても大丈夫だということ。
『不在』は欠落ではなく、僕を支える確かな力になっていた。
君があの夜、僕に自分の弱さを預けてくれたこと。
僕の話を、逃げずに受け止めてくれたこと。
そして、あえてつながらないという選択をしたこと。
そのすべてが、僕の中で形を変えて残っている。
あの夜があったから、僕は人と向き合えるようになった。
誰かの話を、途中で切り捨てずに聞けるようになった。
「この出会いには意味があるかもしれない。」と、思えるようになった。
君は、今でも僕の中で生きている。
ただの思い出としてじゃない。
君という「不在」に支えられながら、僕は今日も、自分の人生を生きている。
エピローグ
2026年、3月。
窓の外には、14年前のあの日とは違う、柔らかな春の光が降り注いでいる。
僕は今もあの頃と同じように、イヤホンで音楽を聴いている。
流れているのは、ずっと聴き続けている、彼らの新しい曲。
形は変わった。音も、言葉も、あの頃とは違う。
それでも、根っこにあるものは変わっていない。
「分けられない痛み」に寄り添う音。
あの夜と同じように、僕の背中をそっと押してくれる。
もしも会えたなら、君に聞きたいことはたくさんある。
話したいことが詰まった箱は、もういくつもいくつも積み上がった。
新しくリリースされたアルバムのこと。
あの頃は気づけなかった歌詞の意味。
僕が新しく見つけた大切なもの。
そして、どうにかここまで歩いてこれたこと。
もし今、君が目の前に現れたなら。
僕はその箱を一つずつ開けて、たぶん、一晩中話し続けるだろう。
あのアルバム買った?
――もちろん!リード曲が最高だよね。
新曲は?もう聴いたよね?
――ライブで映えそうだよね。早く生で聴きたい!
でも。
僕は、心の奥底でわかっている。
きっと、君にはもう会えない。
僕らはもう、会うことはない。
奇跡の再会なんて、ドラマの中だけの話だ。
それは悲しいことなんかじゃなくて。
「今は会う必要がない」
ただ、それだけのことだ。
「必要ならまた会える」
裏を返せば、今周りにいる人が、僕にとって「必要な人」だということだ。彼らにとって、彼女らにとって、僕が「必要な人」だということだ。
そんな風に、人の縁を、出会いを、大切に思えるようになった。
君があの夜くれた言葉は、僕がこの世界で誠実に生きていくための、ひとつの「信頼」だ。
どこかで君が、ちゃんと生きていると信じられること。
それだけで、僕は自分の今を肯定できる。
窓の向こう、見知らぬ誰かが行き交う街並みを眺めながら、僕は静かに思う。
君が今、どこかで笑っているといい。
あの日と同じ、透き通った声で。
ほんの少しだけでも、あの夜のことを思い出してくれていたら、嬉しい。
そして、君の人生にもまた、ちゃんと光が差していることを願う。
僕はもう、迷わない。
君が灯してくれたあの小さな明かりは、十四年経った今でも、ちゃんとここにある。
だから、僕は歩いていける。
届くことのない言葉を、心の中でそっと空に放つ。
「どうか、元気で」
Kindleにて、完全版を出版しています。
※本記事は創作大賞の文字数制限に合わせて少し削っています。
